魔人たる矜恃を胸に、少年は反旗を翻す

辻野深由

 眼下に広がる景色の、そのはるかに望むすべてが赫々かくかくと塗り染められていた。


 周囲を焼き尽くす紅蓮と、炎に包まれ爛れていく人の形をした有機物と、彼らの住まう――否、つい数瞬前まで住処であった建造物のなれの果てが。


 業火に巻かれ、燃えさかっている。


 おびただしい量の血液と臓腑がぶちまけられた街路に、もはや五体満足な人の姿はなく。


 ぎぃ、ぎぃ。

 きし、きし、と。


 彼ら彼女らの生きた証を踏み潰して徘徊する殺戮兵器の威容が、朝焼けの訪れる町並みに物々しい黒影をおとしていた。


 生命反応を伴わない機械的な駆動音が、北方王国クレイトスに響く唯一の足音。


 機鋼蟲きこうちゅうと呼ばれる鉄鋼の機兵が、獄炎にまみれた城下町の隅々を舐めるように破砕し、荘厳な景観を蹂躙する。


 煉瓦造りの街並みを我が物顔で踏み壊す様は、まさしく制圧という名の行軍。


 繰り広げられているのは一方的な侵略以外のなにものでもなく。


 ゆえに、ここには侵略者たちを除く他の誰の存在も認めることはできない。


「…………っ」


 もはやこの狩場でやることはなくなった。


 人間を殺す必要も。


 魔法使いを鹵獲ろかくする必要も。


 深く溜息を溢す。青年は自身の持ち場がすでにもぬけの殻だったことに安堵し、同時、ひどく傲慢な気持ちを抱いてしまっていることに気付いた。


 胸が押し潰されるような罪悪感に苛まれ、疲れからか、あるいは精神的な摩耗からか、視界は終始ぼやけて歪んでいる。


 随分と自分勝手なものだ。


「この国を完膚なきまでに滅ぼした一員であることは紛れもない事実であるくせにな」


 安堵など、するべきではない立場のくせに。


 この手で殺したくせに。


 罪過に手を染めることを苦痛に感じるなど、あってはならないというのに。




『――こちら、ナンバー7』


 胸元の無線機から此度こたびの制圧の指揮を取る師団長の声が響いて、青年は我に返る。


『国王の死亡を確認。クレイトスの制圧に成功した』


 実にあっけない幕引きだ。


 制圧作戦が開始されて半日と経たず、北方王国クレイトスは魔人国ユグドラスの支配下へと下った。


『――各位、本部への連絡は滞りなく実施するように』

『周囲に生体反応があるようだが……こいつらは俺がもらっちまっていいかぁ?』


 下卑た師団長の声。蛇のような眼を細めて舌なめずりをする卑しい顔が目に浮かぶ。


『燃料が不足している。魔法使いであれば生け捕りにして本部へ送れ』

『……っ、りょーかい』


 本部との無線が切れると同時、師団長の舌打ちが胸元で鳴り響く。


 利己的で傲慢な彼の意見が通らないのは当然のことだった。


 作戦に遅れが生じている。現場での指揮を取っている程度の権力では、上層部に小さな要望の一つを通すことすら難しい状況だ。


 国が信仰する神の啓示どおりに周辺諸国への侵攻を早急に進めなければならない。


 侵攻の手足として戦場に立つ雑兵に、勝手気ままを押し通す権利などあるはずもない。


「…………っ、俺は」


 燃えて朽ちていく景色に、青年の胸の奥が軋むような音を上げる。


 視界に広がる戦火の、荒んだ町並みが網膜に焼き付いて、良心を蝕んでいく。


 麦水を溶かしたような鮮やかな金髪は、黒く濁った心の模様さながらに煤け、久方ぶりの陽光の下にありながら寸分の輝きすら宿さない。


『ナンバー13。そちらの状況は?』


 師団長の声に、ナンバー13と呼ばれた青年――ライル=アルマダシアは心を殺して応答する。


「……建造物のほとんどを破壊。生存者を捜索しましたが、生命反応は確認できません。とうに逃げた後だと思われます」

『ならばこちらに手を貸せ。ポイントA3だ。付近に逃げ遅れた愚図どもの反応がある。本部に上納する魔法使いを確保するぞ』

「……了解」


 ライルは無線を切り、自らが従える数十ばかりの機鋼蟲の群れを一斉に起動させ、間近に寄せていた一機の背に飛び乗って移動を開始する。


「……まだ殺し足りないのか。あんたらは」


 人を屠り尽くした世界になにが残るというのか。


 子孫の途絶えかかった魔人――メイブル――のみが生き存える世界に、希望など残るはずがないというのに。


 その真なる目的すら末端の一兵卒には告げられぬまま始まった魔人国ユグドラスによる世界各国への侵攻は、遅々として、けれど着実に進行しつつある。


 幾ばくもなく、他の国々も早々に蹂躙されるだろう。


 脆弱な人間や魔法使いが鋼鉄の巨蟲に対抗する手段はただひとつ。


 ――汎用魔法。


 魔人が得意とする神代しんだい魔法の劣化技法。


 たったそれだけが、彼ら彼女らが持ちうる戦力の要。


 魔人国ユグドラスに対抗しうるすべて。


 だが、そんな些末で脆弱な非力では機鋼蟲を前に為す術などあるはずもない。


 現にこうして、繁栄を極めた大国の一つが鎧袖一触に滅ぼされては消えた。

 人間など、魔法使いなど、ユグドラスの相手にならない。


「…………っ」


 風に吹かれた火の粉がライルの頬を焼く。


 視界の端に、師団長の操る鋼鉄の螳螂かまきりどもが蠢く姿を捉える。


 残存する生体反応を見つけたのか、ハイエナのように一カ所へ集る蟲ども。

見慣れているはずの光景。


 そこに、あるはずのない生存本能じみた醜悪な生々しさを覚え、ライルは無意識のうちに口元を覆う。


 この極彩色な光景は猛毒だ。

 けれど、耐えなければならない。

 これしきのことで痛みなど感じてはいけない。

 殺戮兵器に感情は不要なのだから。

 人を殺して痛みを感じるなどあってはならないから。

 ひとたび起こした不具合は修復できない。

 不具合品は精度が落ちる。


 人を殺すことに疑念を抱くようになるそれだけはあってはならないことだ


 殺戮という行為に抵抗を覚えてしまう。


 そうなれば、不要な存在と認定され、すべてが終わる。


 無価値は、無用だ。待っているのは廃棄処分という名の死刑のみ。


 与えられた狩場で上官の指令をまっとうし、目的を遂行することだけが生きる術。


 感情を殺す。忘却する。

 痛みも、悲しみも。

 良心の呵責さえも唾棄する他はない。


 ただが一兵卒であるライルに選択肢などありはしなかった。


 人間と魔法使いを鏖殺するためだけに育てられ、上官の命令に従うことだけが生き残る唯一の方法と諭され続けてきた若き魔人には、なにも。


 敷かれたレールを踏み出すことすら躊躇ためらわれるこの世界はあまりにも苛烈で。


 人の心をもったまま生き抜くには過剰なまでに残酷で。



 果たしてここは。


 燃えさかる朱い海が一面に広がる、この地獄は。


 魂が望んだ居場所だったのだろうか、と。


 乾ききった下唇をきつく噛みしめる。


「……状況、終了」


 ――俺は、どうすればいい。


 ライルの嘆きは石畳を踏み叩く無機質な足音に呑まれ、どこへも届かない。

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