11 計算ずくの男



 翌日。その一日は槇の人生において、今までになく最低な一日になった。午前中、安田やすだに付き添って公務を行い帰庁すると、澤井さわいが待ち構えていた。


で予算取りの話をしたいのです。午後なら吉岡よしおかも時間が取れるそうです」


 彼はそう切り出した。


 例の件とは『市制100周年記念事業』の件。そして吉岡とは、財務部長のことだ。

 そろそろ次年度予算案を作成する時期だから、早急に取り掛かりたいのだろう。本格的に始動させるには、議会の承認も必要で時間がかかる。


 こうして関係者への根回しを行う作業は、当たり前のことでもあるが、市役所内を熟知している彼らしいやり方である。敵ながら感心してしまった。


「午後、市長は市立保育園の慰問がありまして」


 すんなりと、彼の意向を受け入れるのも癪だ。槇は渋った様子で澤井に返すが、澤井は「そんなものは知っている」とばかりに視線を寄越した。


「慰問の件は、金成かなりに一任させた」


 つまり『安田の面倒は秘書課がやるから槇を置いていけ。市長自らいる必要はない』ということだ。澤井の意図をくみ取った安田は、槇に視線を向けた。


「そう? わかりました。じゃあ澤井くんの打ち合わせには槇を出すね。いい? 槇」


「……承知しました」


「よろしくね。ということだから、澤井くん。槇の意見は私の意向だと思ってくれていいよ」


「助かります。市長お気をつけて。それでは槇さん。よろしくね」


 澤井は満足して退室していった。


 ――面白くない。本気で、面白くない。




***



 午後の打ち合わせは、集まったメンバーを見てすぐに澤井の意図を理解した。


 ——これは、茶番。おれを牽制するためのものか。


 安田が不在の時を狙って開催したのは、槇を出席させるためだったということだ。


 副市長の澤井。

 澤井派の反対勢力の代表である財務部長の吉岡よしおか

 昨晩対峙し、完敗を機した相手である保住。

 そして自分だ。


 四人は応接室1に座っていた。会議は終始、澤井のペースで進む。


「来年度から動く事業だとしても、全くお金がないとなにも始められないからな」


 澤井の言葉に財務部長の吉岡は異論を唱えることなく頷いた。正直にいうと、それは意外なことだった。


 吉岡という男は澤井より幾分か若いが、彼の反対勢力の中核をなす人材だ。澤井派の反対勢力とは、保住の父親を慕っている者たちのことをいう。

 そう、この目の前にいる保住の父親だ。


 保住の父親は、槇が市役所に来る以前に病死していると聞いている。しかし亡くなったあとも彼の意思を引き継ぐ後輩たちが、こうして吉岡を中心とした派閥を作っているというわけだ。それだけ保住の父親には人を惹きつける魅力があったのだろう。確かに息子であるこの男と対峙してみて、少なからず理解できる部分はある。


 ——この男は父親の血を色濃く受け継ぎ、そしてきっと、父親を支持してきた者たちは当然の如くこの男を支持するのだろう。


 しかし不可思議なのは澤井との関係性だった。本来ならば保住は、澤井とは反対の構図に位置するはずなのに、彼は保住を愛でるのだ。そして一時は関係性までも持っていた。


 この自由奔放そうな保住息子が澤井とそういう関係になるのは頷けるが、澤井本人が対立していた男の息子に心惹かれる理由がわからない。澤井は思っているよりも愚かしいのだろうか。そんなことに思いを馳せていると、会議は淡々と進んでいった。


「大した予算はつけられないし、つけるべきではないと思いますね。まだ準備期間だ。メインに大きくつけるには、控えてもらいたいところです」


 吉岡はそう言うと、槇に視線を寄越した。槇は市長の代理である。


「安田市長の意向も同様です」と無難な回答を行う。


 安田はこの件に関して澤井に一任だ。全て「良きに計らえ」である。槇の返答に満足したような表情をした澤井は、保住を見たが、彼の頭の寝癖に目がいったらしい。戯れるように、彼の寝癖を手で押しつけ始めたのだ。


「と言うか、なんだその頭! なんとかしろ」


「どうもこうもありません。決められたことに従うだけです。それに、これは今流行のお洒落です」


「そんなわけないだろう。言い訳をするならもっとマシなことを言え!」


 戯れついている二人の様子は、側から見ると微笑ましいのだろうが、槇にとったら見るに耐えない。


 ——澤井が保住と戯れついている様を見せつけるのは、おれへの当て付けだ。

 保住との関係は隠すことでもないということだ。


「なら、言っていいですか? 寝癖の件は置いておいて。おれはまだ正式な責任者ではない。まず骨組みはあなた達で決めてください」


「せっかく骨組みから組み込んでやっているのに。お前らしくもない発言だな」


「澤井さん。そう苛めるとパワハラで訴えられますよ。でも寝癖可愛いけど」


 吉岡はクスッと笑って保住の頭を眺めている。


 ——保護者かよ。


 しかしなにかがおかしく感じられた。澤井と吉岡はこう馴れ馴れしく会話をする間柄だったろうか? 庁議の場面で、何度となく澤井に食ってかかる彼を見ていたが……。こうも和やかに話をしているのは初めてかもしれない。


「なにを言う、吉岡。訴えられとしたらすでに訴えられている。パワハラとセクハラでな。お前には泣くほどの嫌がらせを何度もしてやったからな。それに吉岡。可愛いとか言うと、お前もセクハラだぞ。なあ、保住?」


「澤井さん」


 吉岡はさして驚くこともないとばかりに澤井を嗜めた。


 ——なるほど。吉岡は、すでに澤井と保住の間柄を知っているのだ。そういうことか。これは……。


 澤井は牽制しているのだ。


 『保住との関係性は、隠すほどのことでもない。吉岡も周知のところ。だから、その件はおれをおろすネタにはなり得ないのだ』と言っているのだ。

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