第25話 決別のとき

『私がこの体を、結晶石と共に封印することで、すべてが終わるのなら……』


 赤黒い靄に包まれた意識の中で、切なげに響く女の声がした。肉親に裏切られ、小さな体を傷だらけにしてまで、女が願うのはちっぽけな石の安全な保管だ。世界を滅ぼすほどの強大な力を前に、女のささやかな願いは何一つ叶えられない。


 物珍しげに露店を眺める青い瞳が、宝石のようにきらきらと輝いていた。子供が食べる安い菓子を口にして、蕩けるように笑っていた。

 当たり前の、アレスにとっては何てことのない日常の一部分さえ、女にとってはかけがえのない宝物になるのだろう。そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。


『結晶石の運命に翻弄され、散り逝くにはまだ早い』


 靄に包まれた意識の向こうで、銀色の光が弾ける。その光の中に揺らめく華奢な影に手を伸ばし、アレスは女の名前を呼んだ。



 ***



「ぐぁぁっ!」


 低く唸り、アレスがレティシアの首から手を離して蹲った。呼吸は荒く、肌には脂汗が滲んでいる。頭を抑える指先が、痛みにぶるぶると震えていた。


「アレス」

「俺に触れるなっ!」


 心配して伸ばされたレティシアの手を振り払い、アレスが蹲ったまま剣を向けて拒絶の意を示す。鋭く睨み返されたアレスの瞳が、一瞬だけ本来の深緑に色を取り戻したのを見て、レティシアがはっと息を呑んだ。


「何をしている。早くその女を殺せ!」

「がぁ……っ」


 上空のエレインが叫ぶ度に、アレスの首に付いた赤い蜘蛛の印がぬらりと光る。

 激しい頭痛を堪えながら必死に耐えるアレスの瞳は、赤と深緑にめまぐるしく色を変えている。せめぎ合う二つの感情に必死に耐えているアレスの姿を見て、レティシアが意を決したように唇をきゅっと結んだ。


 自分の意識下で必死に抵抗しているアレスに、外部からの刺激を与えるのは良くないことのように思えた。ならばその術を操るエレインを、まずはどうにかしなければいけない。

 空に浮くエレインに近付けるのは、現状レティシアだけだ。負傷しているレティシアを思って翼は使うなとアレスに言われてはいたが、そのアレスを助けるためなら躊躇いなど微塵もない。

 すうっと深く息を吸い込むと、レティシアは背中に意識を集中させるため静かに瞼を閉じた。


「許せっ、アレス!」


 ふいに響いた声に目を開くと、ちょうどアレスの体がロッドの巨体に吹き飛ばされるところだった。ぎょっとしたレティシアを庇うように、白いライオン姿のロッドがアレスを僅かに威嚇して二人の間に立ちはだかる。


「大丈夫か!? アレス、何か様子がおかしかったみたいだけど……」


 猛スピードで突進してきて容赦なく吹き飛ばした相手を、ロッドが気遣わしげに見つめている。獣の本能でアレスから良くない気配を感じたのか、ロッドがたてがみを逆立たせてぶるりと震えた。


「エレインの術によって自由を奪われています。さっきまで僅かに意識があったんですけど……」


 そう不安げに言ったレティシアの言葉に合わせて、吹き飛ばされたアレスが少し離れた位置でゆっくりと立ち上がるのが見えた。右手には剣をしっかりと握りしめ、鋭く睨む瞳は標的を捉えて赤く輝く。


「ひょっとして、俺……何かヤバいこと、した?」


 先程までせめぎ合っていたであろう二つの意識が、今は完全にエレインの術に傾いている。赤い瞳から、そして初めて向けられる恐ろしいほどの殺気に、それがありありと感じられた。

 じり、と一歩踏み出したアレスが、剣を構える。未だ苦悶の表情を浮かべてはいるものの、アレスの意識が戻る気配はない。ならば――と、レティシアが翼を顕現させるため再び瞼を閉じかけたところで、ロッドの悲鳴に似た声が鼓膜を激しく震わせた。


「うわっ! レティシア、駄目だっ! 避けろ!!」


 ぱっと開いた視界に、銀色の軌跡が滑り込む。

 操られているからか、驚くべき瞬発力でロッドを抜き去り、一気に距離を詰めたアレスが剣を振り上げていた。


「……レティ……」


 微かにこぼれた声をかき消して、振り下ろされた剣が風を切る。見開かれたレティシアの青い瞳に、噛み締めた唇から鮮血の糸を引くアレスの苦しげな顔が焼き付いた。


「いけません!!」


 ふいに響いた女の声と共に、二人の間に金色の光が現れた。ガキンッと鈍い金属音を走らせて弾かれた剣がアレスの手を離れ、くるくると弧を描きながら地面に深く突き刺さる。その真上ではエレインが、金色の光を凝視したまま戦慄わなないていた。


「……そこで何をしている」


 怒りを押し殺した低い声音に震えるように、レティシアの前に現れていた金色の光が大きく揺らぐ。ゆるりと形を変え、解けた光の中から現れたのはレイナだった。


「これは何の冗談だ? レイナ」

「この者の自由は私が封じます」


 向けられる殺気に怯むことなく、レイナが強い口調で言い切った。「何を」と目を剥くエレインの視界に、薄い緑色の魔法陣が光を放っているのが見える。その中心に蹲るアレスに意識を向けてみると、レイナの言葉通り彼の体は微塵も動かなかった。


「姉さん、もう終わりにしましょう」

「私を、裏切るのか?」

「違うわ。気付いて欲しいの。この国はもう存在してはいけないのよ。あの日、一万年前のあの日に、私たちはこの国と共に……死んでしまったのよ」

「……黙れ」

「偽りの命を手にして築き上げたこの国に、もう昔のような平穏は訪れないわ。あの破壊の光によって滅んでしまった私たちの国、ガルフィアスはもう……」

「黙れ、黙れ、黙れっ! 裏切り者の言うことなど聞かぬ。信じぬ。四人まとめて葬ってくれるわ!」


 エレインの頭部が激しく前後に揺れた。裂けた口から飛び出した舌は胸元まで伸び、ボタボタと汚らしく唾液を滴らせている。右手と同様に巨大化した左手にも黒光りする鋼鉄の爪が長く伸び、べこりっとへこんだ腹部の奥からはぐちゅぐちゅと内臓をかき回す音が漏れ聞こえた。かと思うと腹を割って六本の触手が飛び出し、それは自由を謳歌するかのように左右に大きく開かれる。蜘蛛の足に似た触手は腹の真ん中で不気味に蠢き、その先端からはねっとりとしたどす黒い体液が零れ落ちていった。


「凄まじいな」


 この丘でロッドたちを襲った女よりも更に強烈な姿に変化したエレインに、あのぞくりとするような妖艶な美しさはかけらも残っていない。

 激しく揺れていた頭部はついに首の骨を折り、がくりと項垂れた顔が胸元にべったりと張り付いた。折れた首から背中にかけてメリメリと赤い線が走ったかと思うと縦にばっくりと割れ、骨から肉から半分に断ち切ったその奥より新たな頭部が生まれ出た。

 ぬらぬらと血に濡れた頭部はエレインとまったく同じ姿で、けれどその半分は肉が溶けて骨が剥き出しになっている。そのあまりの醜悪さに、レティシアが口を押さえて顔を逸らした。


「私がいる限りガルフィアスはよみがえる! 何度だってよみがえらせてみせる!」


 エレインとレイナが口にした国の名前、ガルフィアス。どこかで聞いた気がする。一万年前に滅びたという、女王の治める小さな国。遡る意識に城の図書館が思い出され、呼応してレティシアの唇が滅んだ国の名を紡いだ。


 ガルフィアス。争いを好まず、自然を愛し、素朴に生きてきた人々の住む国。穏やかで平和な国は、けれども一万年前に起きた月下大戦の折に犠牲になったと、かつて読んだ書物にそう記されていたことをレティシアは思い出した。


「ここは一万年前の……虚像。エレインに必要なのは再建した国でもなく、命を繋ぎ止める生贄でもない。――安らかな、眠り」

「お願いします。姉を、救って下さい」


 レティシアを見つめるレイナの瞳が、憂いに揺れていた。涙こそ流していないが、レティシアにはレイナの心が手に取るように分かってしまった。

 龍神界でエミリオに襲われた時と同じだ。魔物と化してしまった彼を救いたいと願ったレティシアに、あの時アレスは殺すべきだと言い切った。命を軽んじているかのような言葉に驚愕し声を荒げてしまったが、あの場で一番エミリオを思い悼んでいたのはアレスだった。


『救いたいのなら、殺すべきだ』


 レティシアの代わりにエミリオを導いてくれたアレスの気持ちが、今なら痛いくらいに理解できる。


「エレインのもとへ行きます」


 見開いた青い瞳に強い決意が宿る。

 アレスを閉じ込める結界を展開しているレイナと、為す術なくエレインを見上げているロッドを振り返り、レティシアが背中の翼を顕現させた。大きく羽ばたく二枚の翼から、光の粉がきらきらと舞い上がる。数回羽ばたかせ、背中の傷が痛まないことを確認してから、レティシアがゆっくりと宙に浮いた。


「ロッドはアレスをお願いします」


 レティシアの視線を追えば、丘の麓――城下町の方から魔物と化した住人たちがこちらへ流れ込んでくるのが見える。瑞々しい緑の丘が、一瞬にして黒く染め上げられていく。


「え……これだけの相手を、ひとりで? 俺が?」


 唖然と口を開くも、レティシアの姿は既に上空のエレインへと向かっている。儚く弱い、見るからに頼りなげなレティシアが、果敢にも魔物の首領を倒そうと奮起している姿を見て、ロッドも瞬時に心を決めた。立ち上がる四肢に力を込め、たてがみを闘志に逆立たせる。

 迫り来る魔物の呻き声を一喝するように、ライオンの太い雄叫びが周囲に強く響き渡った。





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