第24話 エレインの怒り

 いつの間にかうたた寝していたらしい。たてがみに触れた指先の感覚に、ロッドはハッと目を覚ました。意識が覚醒するよりも早く、身体が動く。巨体に似合わぬほどの俊敏さで身を翻し、上体を屈めて低く唸りながら威嚇すると、ロッドの視線の先でレイナが慌てたように立ち上がった。


「ロッド、私です」

「あぁ、レイナだったのか。危うく噛み付くところだったぞ」


 異界に迷い込んだあと女の魔物と戦い、さっきはアレスとレティシア二人を背に乗せて走って来たばかりだ。おまけに本来ならば今は夜で、龍神界からの旅路の疲れも確実に疲労として蓄積している。気配に敏感な獣人であれど、ロッドがレイナに気付かず寝入ってしまうことは仕方ないことと言えた。


「レイナも無事だったんだな。良かった」

「ロッド、アレスたちはどこへ?」

「いま周りの様子を見に……」


 二人が上っていった丘へ視線を向ける前に、空気を切り裂くような鋭い悲鳴が木霊した。レティシアの声だと思った瞬間、ロッドのたてがみがざわりと逆立つ。

 見上げた丘の上に、長い黒髪を靡かせた女がひとり浮いている。体の二倍ほどに伸びた巨大な右手には、レティシアの小さな体が鷲掴みにされていた。



 ***



「私から本気で逃げられるとでも思ったのか? お前は私のものだ。逃がしはせぬ」


 レティシアを捕らえたまま、けれどエレインの視線はずっと眼下のアレスに注がれている。宙に浮いたエレインに届くはずもないのに剣を構え、少しも闘志の衰えないアレスの鋭い視線。その深い緑色の瞳に映ったエレインが、恍惚とした表情を浮かべて舌舐めずりをした。


「あぁ、いいぞ。お前のその怒りすら心地良い。闘志みなぎる血潮は、さぞや美味しかろう」


 興奮したのか、エレインの体に力が入る。巨大化した右手に掴まれたままのレティシアが小さく呻き、その声を拾ったアレスが更に目をつり上げてエレインを睨み付けた。


「レティシアを離せ!」

「ほう? この女が大事か? 確かに同じ女の私から見ても、驚くほどに見目麗しい人間だ」


 アレスに見せつけるように、レティシアの頬をエレインの長く伸びた爪がゆっくりとなぞった。ぷつんと薄皮が裂け、白い頬にぷっくりとした赤い珠が滲み出る。はっと身を固くしたアレスを視界に収め、エレインの顔が嗜虐しぎゃくに歪んだ。


「この女を喰らい、姿を真似てみようか? さすればお前は私に逆らえまい」

「貴様……っ」

「まずは血を飲み干すか。それとも生きたままかぶり付くのも良いな」


 己の死を前にした人間はそのほとんどが醜く泣き喚くか、現実を受け入れて諦めるかのどちらかだ。エレインはそういう人間を多く見てきた。

 けれど右手に捕らえたレティシアは、そのどちらでもない。恐怖に青ざめてはいるものの、澄んだ青い瞳はまっすぐにエレインを見つめている。怯えでも諦めでもない、その儚い光に宿るのは――憐れみだ。


「あなたは……人の心を忘れてしまったのですか? この国を、民を思う気持ちを忘れないで」

「お前が国を語るか」

「あなたを思う人の声に耳を傾けて下さい。ここに住む人たちを大切に思うあなたなら、きっと彼らの聞こえるはずです」


 エレインの顔から笑みが消えた。僅かに項垂れ、俯いた顔からは表情を窺うことはできない。レティシアを掴む右手だけが、痙攣するように小さく震えているだけだ。


「……あぁ、聞こえている」


 低くこぼれた声音は、痛みを堪えるかのように掠れている。短く吐き出される吐息と共に一音ずつゆっくりと紡がれた言葉が、悔恨ではなく激しい憎悪を纏った瞬間、エレインの瞳が濃い赤に煌めいた。


「聞こえているぞ。平和に暮らしていた私たちを、一瞬にして死に追いやったあの光を恨む声がな!」


 怒りに連動して、レティシアを掴む右手に力が増した。体が圧迫され、呼吸が妨げられる。血の流れを遮られ、レティシアの意識がくらりと揺らぐ中、やり場のない怒りに吠えるエレインの怒号が鼓膜を激しく震わせた。


「私たちが何をした!? ここでただ静かに暮らしていただけだ。戦いの巻き添えを食らい、何も知らぬまま死んでいいはずがない! 私たちには生きる権利がある。再びあの静かな時間を取り戻す権利がある!」


 メキメキッと音を立てて、エレインの口が大きく裂けた。剥き出しの鋭い歯は奪った命の分だけ赤黒くくすんでおり、新たな血を求めて生臭い唾液がねっとりと絡みついている。その醜悪な姿に、レティシアの顔から更に血の気が失せた。


「誰にも邪魔はさせない。あの時の私たちがそうだったように、今度はお前たちが死ぬ番なのだ!」

「エレイン、やめろ!」


 耳まで裂けた口が大きく開かれた。レティシアに頭からかぶり付こうとしているエレインに、地上のアレスは叫ぶだけで手立てがない。捕らえられたレティシアも、眼前に迫るおぞましい姿に声が出ない。焦りばかりが募り、愚策としてアレスが手にした剣をエレインめがけて投げつけようとした時、ふいにレティシアの胸元で青白い光が炸裂した。

 目を突くほどの鋭い光を放ちながら、それはレティシアに喰らい付こうとしていたエレインの顔面を瞬く間に弾き飛ばした。粉砕するほどの力はないが、エレインの牙を遠ざけるには充分だ。

 僅かな隙を好機と捉え、アレスがレティシアを捕まえているエレインの右腕に狙いを定める。エレインの足を掴んで飛び上がれば、届かない距離ではない。そう瞬時に判断して一歩踏み出したアレスの耳に、エレインの恐怖に怯えた声が届いた。


「こ……この光は……っ、まさか」


 走り出したアレスの目の前で、エレインが汚物を捨てるかのようにレティシアの体を放り投げた。


「……っ、レティシア!」


 予想だにしない行動に一瞬判断が遅れたものの、幸いにもレティシアの体はアレスに近いところへ落ちてくる。その小さな体が地面に叩き付けられる前に、アレスは必死に伸ばした両腕にレティシアの体を抱きとめた。


「無事か?」

「え、えぇ……ありがとうございます」


 安堵する間もなく空を見上げれば、そこには激しい憎悪に体を震わせるエレインが、赤い瞳を釣り上げてレティシアを睨み付けていた。


「おのれ……おのれぇっ! まだ殺したりぬと言うのか! 一万年もの時をかけて作り上げた国を、お前はまた私から奪うのか!」


 空気をびりびりと震わせるエレインの怒りは、ただひとり――レティシアに向けて発せられている。けれどもその怒気を敏感に感じ取ってしまったのは、エレインに印を付けられたアレスの方だった。


「許さぬっ! 許さぬぞ! この国は私のものだ。もう二度とお前になど奪わせやしないっ!」


 尽きることのない怒り。憎しみ。そして悲しみ。激しく渦を巻く感情の荒波が直接脳を揺さぶり、アレスの意識を体から弾き飛ばそうとする。鈍い頭痛にこめかみを押さえたまま蹲ると、手を突いた地面からも数多の声が流れ込んできた。


『痛イ……痛イヨウ……オ母サン』

『死ニタクナイ! ナゼ私タチガ、コンナ目ニ』

『アノ光ガ、スベテヲ奪ッタノダ!』


 怨嗟にまみれた声が響く度に、激しい頭痛がアレスを襲う。明滅する視界の隅にレティシアの姿が見えたが、それすらモノクロに点滅し、声はおろか肩に手を置かれたことにすら気付けない。


「やめ……ろっ……エレイン!」

「アレス! 大丈夫ですか!?」


 頭を抑え蹲るアレスの首筋に、赤い血が蠢いていた。傷を負っていた場所、既に固まりかけていた血が、まるで生き物のようにアレスの首筋を這い回っている。やがてそれはレティシアの見ている前で傷口を覆い隠すように集結し、その場で赤い蜘蛛の形を成した。


「何なの……これは」


 触れようとして、そのおぞましさに思わず躊躇ちゅうちょする。アレスの首筋に浮かび上がった蜘蛛の印が、レティシアの指先で赤黒く不気味に輝いた。――かと思うと、次の瞬間。レティシアの細い首はアレスの手によって鷲掴みにされていた。


「殺せ! その女を殺すのだっ!」

「ア……レス……っ!」


 上空で吠えるエレインの怒号に合わせて、アレスの美しかった深緑の瞳が毒々しい赤に煌めいた。

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