第22話 異形の姉妹

 石の天井から滲み出た水滴が落ちる音で目を覚ました。

 石壁に囲まれた、薄暗く冷たい陰気な場所だ。顔を上げると、正面に鉄の柵が見える。その向こう側にも同じような部屋があり、奥には白骨化した遺体がバラバラになって床に散らばっていた。

 体を動かそうとして、両腕が拘束されていることを知る。ジャラリと響く重い音に目を向ければ、石壁に固定された鎖がアレスの両手首に嵌められた錠に繋がっていた。


「……っ」


 壁の鎖に繋がれ、立ったまま気を失っていたらしい。中途半端に宙吊りになっていたせいで、壁に拘束されていた腕の関節がギシギシと痛む。呻きながら足に力を入れて立ち上がると、アレスは痛みに顔を顰めたまま周囲を見回した。


 薄暗く腐臭の漂う檻の中。改めて考えずとも、ここが地下牢だという事は容易に見て取れた。霧に包まれた後の記憶は思い出せないが、現状から考えるにアレスはひとり敵の手に落ちたのだろう。死に満ちた地下牢に生者の気配は他になく、ただそれだけがアレスにとって唯一の救いだった。


 瞼を閉じれば、意識せずともレティシアの姿が浮かび上がる。霧に包まれた瞬間、耳に届いたレティシアの声。共に捕らえられていない事にホッとする反面、守り抜けなかった自分の愚かさをさいなむようにアレスは下唇をきつく噛み締めた。


「もう目覚めたか。生命力の強い男は好きだよ」


 牢の前に黒髪の女が立っていた。白い肌に血を塗ったような唇が毒々しい。

 口角を上げて唇を引いたまま、女が牢の扉を開けて中へ入ってくる。血のこびり付いた石の床に、女の艶やかな黒髪が蛇のように蠢いていた。


「誘い込んだ贄の中で、お前が一番欲しかった」


 足音もなく近付くと、女は壁に繋がれたままのアレスの体に触れた。耳元から首筋、服に隠れた胸板を丁寧に撫で下ろし、恍惚とした表情を浮かべて甘い吐息を漏らす。


「若く、均整の取れた逞しい体。しなやかに動く肌に隠された熱い血潮。お前の体は、肉も血も美味そうだ。――だが、一番はお前の魂の輝きに惹かれたのだよ。揺るがぬ強さに凜と輝くその魂。お前はもう私のものだ」

「俺は誰のものにもなりはしない。俺から離れろ」

「そう邪険にせずともよいではないか。この私が、お前を気に入っているのだぞ? でなければあの二人のように贄となるだけだ」


 しなだれかかるように、女がアレスに身を寄せた。そのまま腰に腕を巻き付かせ、ねっとりとした吐息をアレスの首筋に吹きかける。言い知れぬ不快感にぞくりと肌が粟立った。


「あいつらには手を出すな!」

「言っただろう? 私が欲しいのはお前だ。もうひとりの男は獣臭くて敵わぬ。女の方は生命力が微弱すぎて腹の足しにもならぬわ。……だが肉は女の方が柔らかくて美味いからな。今頃は他の者に屠られているだろうよ」


 アレスの心情を表すように、腕を拘束する鎖の音が地下牢に激しく響き渡った。怒気を孕んだ目で睨み付けても、女には何の牽制にもなりはしない。それどころかより体を密着させると、今度こそアレスの首筋に強く吸い付いて――間髪入れずに歯をずぷり、と食い込ませた。


「……っ!」


 痛みと嫌悪感に身を捩るも女の力は不自然なほどに強く、腰に巻き付いた細腕はアレスの動きを簡単に封じてしまう。その間も首筋に食い込んだ牙は肉をちぎる勢いで深く沈み込み、迸る鮮血を一滴も溢さぬようにと女の喉が忙しなく上下した。

 血を飲まれ、体が急速に冷えていくのが分かる。だと言うのに首筋だけが燃えるように熱い。その熱はやがて首から全身に広がり、どろりとした何かが体の内側を侵食していく感覚にアレスの体が大きく震えた。


「姉さんっ!? 何をしているの!」


 牢の外から聞こえた声に、女がやっとアレスの首から口を離した。けれども腕はアレスに絡みついたまま、血に汚れた顔だけを後ろに向ける。笑みを絶やさない女とは対照的に、アレスに大股で近付いた金髪の女は見るからに眉を寄せて苦しげな表情を浮かべていた。


「どこへ行っていた? レイナ」

「街へ。皆が贄を奪い合っていたので……」

「そうか。贄は捕らえたか?」

「……はい」


 レイナがちらりとアレスを見ると、底冷えするほどの鋭い視線とぶつかった。その冷たく激しい憎悪に耐えられず、レイナが慌ててアレスから目を逸らす。


「それよりも……姉さん。彼に、何をしたの?」

「印を付けた。前の男はすぐに壊れたが、今回は長く楽しめそうだ」

「そんなことしなくても彼は逃げられないじゃない」

「保険だよ。私はどうしてもこの男が欲しい。何者にも屈さぬ、穢されぬと強くあろうとするこの男を、奈落の底まで堕としてみたいのだ。抗えぬ享楽に絶望しながら果てていくこの男を、骨の髄まで味わいたい」


 アレスの髪を掴み、項垂れていた顔を自分の方へ向けさせると、女が血に濡れた唇をそぅっと耳元へ近付けた。


「仲間の前で、気高きお前を陥落させてやろう……なぁ?」

「下種がっ」


 アレスの非難もさらりと受け流し、女がやっと体を離して地下牢を後にした。入り口で突っ立ったままのレイナをすれ違いざまに一瞥し、ほんの少しだけ歩みを止める。


「捕らえた者は向かいの牢へ入れておけ。終わったら私の所へ来い。話がある」

「……はい、エレイン姉さん」


 来た時と同様、足音もなく去っていく。姿は見えなかったがねっとりとした気配が消え、エレインと呼ばれた女が完全に出ていったことをアレスは肌で感じた。

 体に絡みつく不快な腕から解放されホッとしたのも束の間、今度は噛み付かれた首筋の痛みに敏感になる。何かをされたことは確実だ。けれどそれを確かめる術を持たないアレスは、近付いてきたレイナへ怒りの矛先を変えて、深緑色の瞳を更に冷たく凍らせた。


「誘い込んだ人間たちを喰らう魔物の巣窟だったとはな」

「静かに。いま鎖を外します」


 アレスの言葉に目を伏せたのは一瞬で、レイナが周囲に警戒しながら素早く錠の鍵を外した。呆けたアレスに説明する間もなく、今度は牢の外へ出て通路の奥――行き止まりになっている壁に向かって手をかざす。レイナの音なき呪文に合わせて壁が揺らぎ、その中からひょっこりと顔を覗かせたのはロッドだった。


「ロッド!?」

「アレス、無事か! 良かった」


 アレスを目視するなり、ロッドが満面の笑みを浮かべた。その後ろからレティシアまでもが現れ、さすがのアレスも思考を混乱させて二人とレイナを交互に見やる。


「ちょっと待ってくれ。何が何だか……」

「説明している時間はありません。この道はあの丘へ続いているので、お二人は今すぐ彼を連れてここから逃げて下さい。私の力は弱いので、姉に気付かれる前に……早く!」

「分かった!」


 レイナの口調に急かされて、ロッドが未だ釈然としない表情のアレスを壁の歪みへ誘導する。触れた指先に反応して波紋を広げる壁の先は見えず、状況の急な変化に戸惑うアレスはなかなか前へ進むことができない。見かねたロッドが「えいっ!」と背中を押すと、短い呻き声と共にアレスの体が壁の向こうへとぷんと消えた。



 ***



 エレインの部屋は、えた臭いが充満していた。

 レイナにとって嗅ぎ慣れた臭いとなっていても、不快感を覚えずにはいられない。

 薄暗い部屋。充満する臭いに色を付けるならば赤黒く、それは部屋の奥へ行くほどに濃く重く漂っていた。

 奥にはエレインの寝台がある。薄い天蓋に覆われたベッドの上には、黒い影が積み重なって散らばっているのが見えた。その影が何であるかを知っていたレイナは、おぞましい現実から逃げるように目を逸らした。


「従者から聞いたぞ。お前はまだ食事をしないそうだな」

「食べなくても、身体は動いているわ」

「私がこの国を維持している間は、お前も民も、誰ひとり消えさせない。……だが、お前の存在は日に日に弱っている。いい加減、意地を張るのは止めろ」


 赤い液体の揺れるグラスを差し出され、レイナは首を振ってそれを拒絶する。そうなることが分かっていたように失笑すると、エレインはグラスの液体を一気に飲み干した。


「このままではお前は消えてなくなるぞ、レイナ」

「こんな体で生き長らえるよりは……いいえ、姉さん。私たちは生きていると言えるの? 私はもう、そんな姉さんの姿を見たくは……」


 鋭い音を響かせて、エレインの手の中でグラスが割れた。破片で肉が裂かれ、白い腕を鮮やかな鮮血が伝い落ちていく。


「幸せだった日々を取り戻すことの何が悪い? 私たちは奪われたのだ!」


 激情に呼応して、床を這うエレインの黒髪が蛇のように蠢いた。


「私が……私の民が望むのは、穏やかに続くはずだったあの日々だ。お前と二人で治めていた国を、優しい民が住むこの国を、何の非もなく蹂躙されたのだぞ!」

「エレイン姉さん……」

「それをお前は許せるのか!? 生きたいと叫ぶ彼らを、その願いを、お前は否定するのか!?」


 割れたグラスの突き刺さった手のひらに、もう傷はない。その現実がひどく悲しくて、レイナは下唇を噛んだまま項垂れてしまった。

 優しかった姉はもういない。けれど目の前のエレインも、レイナにとって唯一の肉親であることに変わりはない。


「お前を責めているわけではない。お前は私のたったひとりの妹。私はお前を失いたくないだけだ」

「……姉さん」

「つまらぬ感情など捨てろ」


 言葉を失い俯いたレイナの頬を、エレインの冷たい両手が覆う。はっとして顔を上げれば、そこには懐かしい笑みを浮かべたエレインがいた。その笑みに過去の残像を重ねて見たレイナが口を開くよりも先に、荒々しく部屋の扉が開かれた。


「エレイン様、大変です!」

「何事だ?」

「贄が牢から逃げ出しました!」

「何だと!?」


 鋭い視線で睨まれ、兵士が怯えた足で一歩後退する。


「すぐに追っ手を……」

「――よい」


 先程の怒りを瞬時に静め、エレインが思案するように窓の外へ視線を巡らせた。その口元には歪な笑みが浮かんでいる。


「贄には印を付けてある。私から逃げられるものか」


 獲物を狙う獣の目。窓の外、遠くに見える丘の一点を見つめたまま、エレインがべろりと赤い唇を舌舐めずりした。


「行くぞ。贄はあの丘にいる」

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