第21話 救いを乞う女

 青い空と若葉の揺れる丘の上。優しいそよ風が流れる美しい風景の中、決して混ざり合うことのない異形の影が佇んでいた。


「おのれっ!!」


 目の前で獲物を奪われた女が、走り去っていく白いライオンを爬虫類のまなこで睨み付ける。怒りからなのか体はぶるぶると震え出し、その振動に合わせて女の指が異様なほどにぞろりと伸びた。不意を突かれた悔しさを表すように、地面に着いた指先がガリガリと土を掻く。


「その女は私の獲物だ! 邪魔をするなっ!」


 女の腹や背中、頭部までもがぼこぼこと変形し始め、くぐもった音がロッドたちの耳にまで届いた。視界の端に映り込んだ女の姿はもう原型を留めておらず、ただただ醜悪な魔物が爽やかな晴天の下にいびつな姿を曝け出している。


「魔物っ!?」


 口は耳元まで裂け、ギザギザに欠けた黄色い歯が剥き出しになっている。地面に到達するほど伸びたのは指だけではなく、その両腕さえ太く長く膨張し、不自然な数個の関節を有したまま左右に大きく広げられた。

 土を掻いていた鋭い指先が自身の背中を引き裂くと、その奥からどす黒い体液にまみれた漆黒の皮膜に覆われた羽が弾き出た。


「うぉっ! あんなんで飛んでこられたら……」

「飛ぶ気です!」


 レティシアの声に重なって、皮膜の羽が風を切る音が響く。纏わり付く体液を振り払い大きく羽ばたきを繰り返した羽が、女の体を軽々と空へ持ち上げて一気に上昇した。こぼれ落ちた体液に触れ、瑞々しい若葉の緑がじゅうっと音を立てて焦げていく。


「寄越せ! 女を寄越せぇぇっ!」


 涎を垂らしながら急降下した女が、ロッドの真上すれすれを通り過ぎていく。空振りした腕がくうを掴み、その間にロッドは身を隠そうと森の中へと駆け込んでいった。


「逃がすものかぁぁ!!」


 森の木々をも震わす咆哮が、逃げるロッドの背後から物凄い勢いで追いついてくる。さざめき揺れる振動が後方から左右を通って前へ連動した瞬間、一本の太い木がロッドの進路を阻んで薙ぎ倒された。

 その大木を軽やかに飛び越えた先、目前に迫った女の巨大化した手を間一髪ですり抜けて、ロッドはなおも俊敏な動きで森を駆け抜けていく。


「何なんだよ、あいつは! それにここは一体……」

「ロッドっ、伏せて!!」


 レティシアの声を耳にするなり、ロッドが本能的に身を低く屈めた。そのすぐ真上を、何か大きなものが風を切って通り過ぎていく。前方に響いた轟音に目を向けると、先程薙ぎ倒された木が土煙を纏って転がっていた。


「どんだけ怪力なんだよ」


 投げ飛ばされた木は他の木々をも巻き込んで数本を薙ぎ倒し、ロッドの前方は一瞬にして大木の屍に埋め尽くされる。

 背後には迫る女の気配。前方には薙ぎ倒された大木の群れ。

 大木を飛び越えて行けないこともないが、僅かな時間の差は女との距離を確実に縮めるだろう。ならばと方向転換し、ロッドは右に走って森の中から抜け出した。


「逃がさないと言ったはずだ!」


 森から抜け出した瞬間に、上空から女の声が降下する。声よりも先に地面を穿つ右腕から華麗に身をしならせて、ロッドが疾風の如く宙を舞った。

 まるで重力など感じないかのように、女の攻撃をことごとく躱していく白いライオンの巨体。その激しい動きにたてがみを掴む握力が力尽き、レティシアがとうとうロッドの背から振り落とされてしまった。


「きゃあっ!」

「しまったっ……レティシア!」


 転がり落ちたレティシアに向かって我先にと腕を伸ばす女と、踵を返して唸り声を上げ駆け寄るロッド。その二人の間で、落下した痛みに耐えながら慌てて上体を起こしたレティシアのすぐ前に――柔らかな金色の髪をしたひとりの女が立っていた。


「退きなさい」


 魔物と化した女を真っ直ぐに見据えて、金髪の女が静かに告げた。水面を震わせる一滴の雫のように響く控えめな声は、それでいて猛り狂っていた女の気配をあっという間に鎮めてしまう。

 レティシアへ伸ばしていた腕をだらりと力なく垂らし、戦意をなくし立ち尽くす。けれども未だ名残惜しくレティシアを見つめる赤い目に、今度は少しだけ語気を強めた声が凜と響いた。


「二度は言いません。この者たちは、私が城へ連れて行きます」


 逆らうことのできない絶対の命令に無言のまま頷いて、女があっけないほど簡単に去っていく。その姿が完全に視界から消えてなくなるまで、丘の上にはぴんっと張り詰めた空気が漂っていた。


 ロッドが獣化を解いてレティシアへ駆け寄ると、金髪の女もまた心配そうに眉根を下げて後ろを振り返る。敵か味方か判断しかねる状況に、ロッドは警戒心を少しも緩めないまま女を鋭く睨み返した。


「あんた、一体何者だ? あいつの仲間じゃないのか?」

「あの者の無礼をどうかお許し下さい。私はレイナ。この国を治める女王エレインの妹です」

「国? そもそもここは一体どこなんだ? 俺たち夜の森で霧に包まれたと思ったら、真っ昼間の丘の上ここにいたんだけどさ」

「それについて詳しくお話している時間はありません。お連れの方がもうひとり、姉に捕らわれています」


 レイナの言葉に、レティシアがはっと息を呑む。あの魔物の女も同じ事を言っていた。

 負傷し万全な体調ではないレティシアならともかく、若く強靱な肉体を持つアレスが為す術もなく捕らわれているとは、にわかには信じがたい。けれど二人を見つめるレイナの真摯な眼差しに謀略の気配は感じられず、どうすべきか逡巡したロッドが探るように口を開いた。


「この場所のことは一旦置いといたとしてさ、あんた何で俺たちにそんなこと教えるんだ? あの化け女がいる国を治める女王ってのも、きっと化け物なんだろ。そしてその妹である……あんたも」


 迷いながらも告げられた言葉に、レイナがかすかに睫毛を震わせて俯いた。


「そう……ですね」

「なら、何で俺たちを助けるんだ? 親切心で俺たちを騙すつもりか」

「そんなつもりはありません!」


 きっぱりと言いきったレイナが、顔を上げてまっすぐにロッドを見つめ返した。その強い眼差しに、続く言葉が喉の奥で立ち止まってしまう。


「私は……待っていたのです」


 そよぐ風に揺れる金髪を靡かせながら、レイナが遠く聳える白亜の城へと目を向ける。


「気の遠くなるような、長い……長い時の中。あなたたちのような人を、ずっと」


 城から再び戻された視線が、射抜くようにレティシアを見つめる。その強い眼差しに敵意はなく、ただ揺らぐことのない強固な意志が垣間見えたような気がした。


「不躾なお願いで申し訳ないのですが、あなたたちには姉を救って欲しいのです」

「救うって言われても……」

「姉は命と若さを繋ぐために、ここへ迷い込んだ者を……食べています。その悪行から姉の体は既に人を捨て、影響は国の民にも及んでいます」

「食べるって……待って下さい。それではアレスは……」


 顔面蒼白のレティシアへ頷くことで言葉の続きを肯定し、レイナが悔しげに唇を噛み締めた。


「生命力の強い者ほど真っ先に狙われます。彼はおそらく城の地下牢へ捕らわれているはず。時間はありません」

「だったら急がなきゃ! 俺の足でも間に合うか!? それより飛竜で飛んでった方が……って、飛竜は森に置いてきちまったな。ここからじゃ呼べないか」


 聖獣である飛竜ならば、この国に潜む闇をその猛火で浄化することも可能だろう。けれどもここは得体の知れない場所であり、何よりロッドとレティシアには飛竜を呼ぶ術もない。唯一の竜使いであるアレスは敵の手中だ。


「私が城へ案内します」


 完全に行き詰まった思考を遮って、レイナの凜とした声が響いた。


「その代わり、どうか……どうか姉を、この国を救って下さい」


 切なる願いをまっすぐに向けられ、僅かに躊躇したレティシアが視線を彷徨わせて俯いた。けれどすぐに顔を上げて、静かに深く息を吸う。


「どうして、私たちなのですか? あなたが私たちを選んだ理由は、何なのですか?」


 訊ねたものの、レティシアには何となくその答えが分かるような気がしていた。


「あなたの中に、力を感じました。私たちを、すべてを無に帰す強大な力。……あなたには酷かも知れませんが、どうかその力で私たちを救って下さい。それができるのは、あなたしかいないのです」


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