夢現の眠れぬ夜に

青夜 明

哀夢

『おかあさん、つぎはどこにいくの?』


 小首を傾げると、母は優しげに振り返り、暖かく手を握り直してくれたことを覚えている。




 郁乃いくのアイは夢魔と人間のハーフだ。

 夢魔という者は、狭間の空間に生まれる概念的存在で、存在意味を保つ為に主を見つけるのが性である。ただし、夢魔は主と恋に落ちてはならない。主と従者という関係が崩れてしまうからだ。

 夢魔である母は主に選んだ父と結ばれ、子をも作る禁忌を犯した。母と、血を受け継ぐ子供達に追手が迫り、アイと母は故郷に父と妹を残して、あらゆる世界を移動することとなった。妹はまだ赤ん坊である為に同行していない。夢魔の力もまだ覚醒しておらず、誤魔化す形で父と共にいる。

 母とアイははぐれないように手を繋ぎながら、旅人として異世界に泊まり、追手に見つかっては逃げるを繰り返した。夢魔は夢を司り、夢の力を魔法として扱えるが故に、異世界を渡り歩くことは容易く可能だ。

 アイは慣れていない夢魔の力をその都度母に制御してもらい、段々と扱えるようになっていった。


『……おかあさん、ついた?』


『はい、着きました。アイは上手だね』


『うん!』


 新しい世界で褒めてくれて、頭を撫でてくれる母が、アイにとってはかけがえのない大きな存在だ。

 異世界の旅はアイが五歳に満たない時から始まり、年月を重ね、やがてアイは人間を理解し出していく。アイから見た世界は、時に平和でない場合も多かった。迫害や戦争など、人間の行うことを哀しみ、同時に愚かだと思ってしまう。


『アイ、行くよ』


 アイが周りに目を向けては、母が笑いかけて優しく手を引いた。それでも、アイの目の奧には人間の残酷さが残ってしまう。どこかで他人事のように思い、どこかで他人に失望していった。

 対して、夢魔である母の優しさは大好きだ。母は背が高い分だけ歩幅も広く、まだ幼いアイは追いかけるだけで精一杯だったが、その背中も嫌いにはなれない。むしろ、抱きついてしまいたいぐらいだ。幼い頃のアイには夢魔の残酷な一面が分からないこともあり、物心ついた頃から母が全てのように感じていた。

 ある日、借りた宿のベッドに寝転がりながら、アイは母に質問をしたことがある。


『おかあさん、どうしてわたしはアイなの?』


 母は笑って、アイの頭をなぜた。


『お母さんからね、哀しみと愛情を貰っているからだよ』


『哀しみって、お母さんの力だよね?』


 アイは母から教わったことがある。母は哀しい夢を司り、空から涙を流すこともできるのだと。

 母はアイを抱きよせ、窓に近寄って片手で開ける。生憎の雨だが、母がいるからか、アイには心地の良いものに思えた。


『そうだね。哀しい力を操るから、私はカナと言う。でもね、アイ、君は哀しみだけが全てじゃないから、沢山愛を知りなさい。お母さんが傍にいるからね。……いや、そうだな、』


 母が何かを言いかけたが、宿の入口から聞こえた怒鳴り声にかき消されてしまう。


『ここに化け物が泊まってるって言うんだよ! 子連れの女だ! あいつら人間じゃねえ、出せ!』


『おかあさん……』


『心配いらないよ、大丈夫。哀しい夢からは覚めてしまわないと』


 母が床を蹴ると、二人の姿は喧騒がドアを叩く前に世界から消えていく。

 ──そして、二人は真っ暗なだけの狭間の空間に降り立った。


『アイ』


 アイは哀しい顔を誤魔化すように、母の体に顔を埋める。母は優しくアイを撫で、ふと、冗談めいた口調で笑って言った。


『帰ろうか、お父さんとレンの所に』


 レン、とは妹のことである。

 アイは数度目を瞬かせ、母を期待の顔で見上げた。


『いいの?』


『ああ、構わないさ。内緒というやつだ』


『……うん!』


 アイは久しぶりに満面の笑みを浮かべることができた。



 ● ● ●



アイと母が故郷に戻ると、嬉しそうにはにかむ父や、何だかんだと言いつつも歓迎してくれる妹が迎え入れてくれた。

 父がいとこの一家を紹介してくれ、何度も接点を持つようになっていく。

 アイは家族以外にあまり興味がなかったが、壱という一つ上のいとことは一緒にいることが多かった。仲が良い、という訳ではないのかもしれない。壱は寡黙だったが優しく、アイが居場所を求めるように隣に行くと、黙ってそれを許してくれるような関係だ。

 時が経つとお互いに話しかけるようになり、中学校に通い始める頃には会話をするのが当たり前になった。クラスメイトには冷やかされたが。


『おっ! 夫婦がいる!』


『ラブラブじゃん!』


 うるさいよ、と反論するのはいつもアイで、壱はやはり何も言わない。壱はアイ以外の人間といることは少なく、彼の本心を知っているような友達もいないように見えた。

 壱は自分のことをどう思っているのか、というアイの疑問は解決しなかったが、いつの間にか恋心と呼べるそれになっていく。

 アイは、自分が恋をしても禁忌に入るのかと何度も悩んだが、幸せそうに笑い合う両親を見て、それでも構わないと思えた。

 悪夢が家の扉を叩くまでは。


『お母さー……お母さん?』


 母の背中を見て、ふと、違和感を覚えた。

 何てことはない、いつもの母の筈だ。だが、それは嫌な予感とでも言うべきか。アイの心の内を不安が侵食していく。

 もうすぐ夕飯の時間で、それが終わったら風呂に入り、おやすみと笑い合って布団に潜る。それで良いのに、母は玄関を見たまま、振り向いてくれない。


『……お母、』


『アイ、レンと裏口に回りなさい。いいね』


 アイは言葉を詰まらせた。脳裏を殴られるかのようなそれは、もはや決定打と言っても過言ではなかった。

 同時にアイは理解する、幸せの終わりを。脳裏によぎるのは、幼い頃に見た夢魔の追手だ。


『……嫌だ』


『アイ』


『嫌──』


 わがままを言おうとして、アイは裾を引かれる。振り向くと、妹が静かに首を横に振っていた。


『お父さんが、お母さんと二人っきりにしてほしいって。行こう、あたしたちがいてもおじゃま虫になるだけだよ』


『でも……』


 ためらうアイの背中を押すように、母は優しい声音で言い聞かせる。


『アイ。お姉ちゃんだからね、レンのことよろしく頼むよ』


『……』


 もはや、何も言えなかった。

 アイはレンの手を引き、裏口へ向かう。かつて母が自分にそうしてくれたように。だが、もう母の手を握ることすら敵わないだろう。

裏口を開けると、外は霧のような雨模様だ。

 空が自分の代わりに泣いてくれるようにも思え、アイは振り返らないことを決めた。

 レンと二人で、故郷の中を走る。哀しみの性質を受け継いだ二人は、涙のような雨に濡れることはなかった。


『アイ』


 声をかけられ、アイは目を見張る。足を止めて振り向けば、大きな傘の中に壱がいた。


『壱……』


 口を開いたのに、一度閉じる。

 本当は泣きついてしまいたかった。母の代わりを求めるように抱きついて、愛しさを感じたい。

 けれど、自分の恋心は両親のように認められることなく、哀しく終わるような気がした。追手から逃れられても、人間から非難を受けるかもしれない。

 壱を巻き込んではいけない、とアイは思った。


『……、悪いけど、もう人間とは関わりたくない。さようなら』


 返事が来る前にアイ歩き出す。雨音が壱の気配すらもかき消したが、本当は振り向いてしまいたかった。

 見かねたのか、レンが声をかけてくる。


『よかったの?』


 アイは、自分に言い聞かせるように答えた。


『うん、いいの。これで』


『ふうん……あ、お姉ちゃんこっち』


 レンに手を引かれ、二人は路地裏へと消えていく。空はいつまでも泣き続けた。



 ● ● ●


「……、夢か」


 アイは体を起こす。涙が頬を伝い、質素な布団に落ちた。


「……哀しい夢……」


 アイは目元を拭う。

 隣を見てもレンはいない。男の元へ遊びに行き、そのまま泊まっているのかもしれない。

 レンはそうやって生きているが、アイはレンが連れてきてくれたアパートに引きこもってばかりの日々だ。

 あれから数年が経ち、アイは高校生になった。学校は人間に会いたくなくて、あまり行けていない。

 噂によると、両親は追手に捕まったらしい。父は人間だが、アイやレンの罪を肩代わりしたようだ。

 ハーフであるアイとレンは、二人でようやく夢魔として一人前になる。それは罪も同じで、背負った末路がどうなるかは知らないが、赦されることではないだろう。

 アイは窓を見つめ、目を伏せる。空はあいにくの曇り模様だが、──暗闇の向こうから雫の落ちる音がした。

 目を開けると、世界に小雨が降り注いでいる。誰かが急ぎ足で駆け抜け、静寂が訪れた。


「……空が、泣いてくれている」


 アイは膝を抱え、そのまま寝転んだ。睡魔を呼び寄せ、再び眠りに落ちる。

 哀しい夢をもう一度見るかもしれないが、構わなかった。

 もう一度両親に会いたい。また、皆と幸せに笑い合いたかった。



 了

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