第17話 『果報と消失』③
由比ガ浜に到着した頃には、既に日は傾きかけていた。
波がざざ、ざざ、と浜辺の砂を引いていく音が聞こえ、夏の日の喧騒がまるで残響を残した霞に漂い、風に乗って吹き消えていった。
潮風が私の首を掠めながら、黒い髪の毛をふわりと撫でていく。
砂浜に一歩、足を踏み入れると、シャクリという音がして、スニーカーであるはずなのに足の裏に熱を感じた。
私はいつもの定位置まで歩いていくと、そこにイーゼルを立て、画材道具を用意する。
慣れた手つきで、波打つ由比ガ浜の海岸線を下書きしていく。
さっさっと、ある程度の枠組みを描き終えたところで、私はカランと鉛筆を置いた。
地平線に差し掛かった夕暮れが、海の水面に赤い光を乱反射させ、眩く景色を染めていく。
私はただただ静かに揺らめく海の赤火を細目で眺めながら、幻想的な自然美に自身の寂しさを流すかのように、遠くのほうへと思いを馳せていた。
「絵、描けそうですか?」
ふいに後ろから声をかけられた。
私は驚き、後ろを振り向くと、以前、由比ガ浜の絵を描いていたお婆さんが立っていた。
「はい。私にも描きたいものが見つかりました」
「それは、嬉しいですね。以前のあなたは迷子の子猫ちゃんでしたよ」
お婆さんは優しく笑うと、「強くなったわね」と私に囁いた。
「彼のためにさざ波を描きたいんです」
私はそういうと、「私と三澄君」との出会いから、今彼が記憶喪失になっていることを話した。
お婆さんは、その話を静かに頷きながら聞いていた。
「私もね、ここに戻る前は大切な人が居たのよ。もう、私の遥か手の届かない場所へ旅立ってしまいましたけどね」
お婆さんは海岸線に沈んでいく夕日を見つめながら、思い耽ったようなか細い声で呟いた。
それからというもの、お婆さんは私に、その彼女の半生を語ってくれた。
まだお婆さんがまだ18歳の頃、彼女はこの鎌倉に住んでいた。
彼女の父は画家で、絵を描くために自然の豊かな場所に住みたいと、家を鎌倉に構えたそうだ。
だが、絵描きだけの収入ではやっていけず、生活は困窮していった。
彼女の父は以前、絵の技術を学ぶために、その時代では珍しい海外留学に行った経験を持っていた。
そんな経験もある事から、英語を多少話すことができ、その経験を生かさないかと、知人から海外製品の輸入代理店に誘われたそうだ。
だが、その知人が会社を構えているのは長崎で、その話が決まってから、彼女の家族は長崎へ引っ越しをすることとなった。
鎌倉で過ごしていた彼女には、すでに婚約を心に誓った人が居た。
彼女は家の事情で長崎へ行かなければいけないことを告げたが、恋人は涙ながらに行かないでくれと迫ったそうだ。
その当時は駆け落ちができるほどの財力もなかったがゆえに、半ば強引に長崎の住所だけを伝え、彼女は家族とともに旅立っていった。
それからというもの、長崎での知人の事業は成功し、会社も大きくなった。
そのおかげで豊かな生活も出来たし、父の紹介ではあったけれども、裕福な家庭の5つ年上の男性と結婚をし、子供を授かることも出来た。
彼女の旦那となった男性は海外の大学を卒業したエリートで、彼女が50歳を数えるころにはその会社の社長となっていた。
だが、不幸とは突然やってくるもので、その旦那が70歳になる年、くも膜下出血によって急死した。
子供たちも巣立ち、独り身となってしまった彼女は、ふと、18歳のときに別れた彼のことを思い出し、今は途切れてしまった彼女宛の手紙を探した。
その手紙には、鎌倉市の住所が記載されていた。
彼女には長崎を離れることに未練はなかったようで、自分が青春を過ごした鎌倉で余生を過ごそうと、長崎の家を売り払い、鎌倉に一軒の家を買ったそうだ。
「それでね、手紙に書いてあった住所を尋ねてみたのよ。もう50年近くも前のことだから、もう何も残ってないかなとは思っていたけれども、なんだかまだ彼がそこで待ってくれてるんじゃないかってね」
私はその話に引き込まれるように、耳を傾けていた。
「それで……お会いできたんですか?」
「いいえ、もう彼も10年以上前に亡くなっていたわ。だけどね、まだ家はあったのよ」
彼女は自分の首につけた赤いガラス細工が施されたペンダントの光るネックレスを見つめた。
「彼の住所にはね、"Clear Palette"っていうお店が立っていたわ。どうも、彼のお孫さん夫婦が経営されているお店みたいで、私が彼のことを聞いたら嬉しそうに話してくれましたよ」
私は自分のつけたネックレスの青いガラス細工のペンダントを見つめる。
これは偶然なのだろうか。
私は驚きを隠しながらも、話の続きを聞いた。
「彼は私が長崎に行ってから、ガラス職人のもとで修業をしていたみたいで、私の好きだった風鈴を作るっていってガラス細工のお店を構えていたみたいでね。でも私がそれに間に合うことが出来なくて、結局会うことは出来なかったけど、代わりにこれをって渡されたのがこの赤いペンダントのネックレスよ」
奇跡は起こるべくして起こるものなのだろうか。
人の縁とか繋がりというのは、見えない何か大きな力が働いているのだろうかと誤解するほどに、摩訶不思議なことを引き起こす。
そのお店は、私が三澄君と訪れたお店で、そこで彼との思い出に"透き通る群青"をプレゼントされた場所であった。
「最近、息子夫婦もこっちに戻ってきていてね。私は孫に会えるから嬉しいのよ。あの子ったら、由比ガ浜の絵が大好きで、小っちゃい頃からよくせがんでいたわ」
以前、由比ガ浜で絵を描いていたのもそのせいよと、彼女は悪戯に笑った。
「お名前……聞いてもいいですか?」
私は彼女に尋ねた。
私の鼓動が徐々に上がっていき、脈打つ音が体の中に響き渡る。
「私の名前はね、三澄 智子よ。宜しくね」
彼女は私の目を見つめると、優しく微笑んだ。
夕日が半分ほど沈んだ、赤く照らされる由比ガ浜の海岸線。
浜辺では、見知らぬ恋人たちが今日も愛を走り回求めるかのように、ちゃぱちゃぱと走り回っていた。
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