第18話 『君は透き通る群青』
「三澄君、はいこれ」
私は額に入れた一枚の絵を彼に手渡した。
「これは……すごいですね」
彼は私が描いた由比ガ浜の絵を端から端までをじっと見つめている。
私がこの病室を立ち去ってから、早いもので3日が経っていた。
あれからというもの、私は何度も家と由比ガ浜を行き来した。
それがなぜかと問われれば、「さざ波」の音をどう描けばよいのだろうとずっと悩んでいたせいだ。
「音」というものは、朝聞くものと夜聞くもので大きく差が出るものだと私は考えていた。
それは多分、体調とか、疲労とか、交感神経だとか、副交感神経だとか、身体の細かな部分が作用して、なおかつ、空気中の水分だとか、色覚情報であったりだとか、体外的な自然現象が合わさったがゆえの錯覚に過ぎないのかもしれない。
はたして彼の言う、「さざ波」とはどの音なのだろうか。
そんなことが頭の中を駆け巡り、私を惑わしていった。
元来、風景画とは、目に映った情景を描き写すという作業となる。
いうなれば、絵画とは「風景を永遠に残す窓を作る」作業に他ならないのだ。
では、今私がしようとしていることがどうなのだろうかと振り返ってみれば、朝焼けと夕焼けをを同時に描き、「さざ波」を共存させてしまう、矛盾したことをしようとしている。
風景画とも、抽象画ともいえぬ、この中途半端な絵こそが、今の私の真価なのかもしれない。
これは私自身への挑戦であった。
完璧な描写でしか描けなかった私が、曖昧でぼやけた「音」という概念を描こうとしている。
夕暮れと朝焼けを交互に見ては、赤と白の絵具を塗り重ねた。
対照的な光のコントラストを一枚の絵の中に織り交ぜ、ついに、その絵という窓枠の中に由比ガ浜の一日を描き出した。
「海の音が聞こえるよ」
彼は目を閉じ、耳を澄ませた。
陽光が柔らかな日差しが病室を照らし出し、開けられた窓からは風がそよいでいる。
一振り二振り、風がなびくたびに木々の葉を撫でる音がカサカサと聞こえ、その揺らぎの音が無機質な病室に色を与えるように、心地よく響いていた。
その音は、海の波が浜辺の砂をさらう音のようにも聞こえ、病室のすぐ外に海が広がっているような想像を掻き立てられた。
私の描いた「由比ガ浜」は、床頭台の上、本来小型テレビが置かれている場所に立てかけられ、飾られた。
「夏帆さん。昨日、おばあちゃんがお見舞いに来てくれてね」
彼は病室の外を眺めながら呟いた。
「"海斗はいい人に巡り合えたね"って言ってくれたんだ。まだ僕は思い出すことは出来ないけれども、それはきっと夏帆さんのことで、今この絵を見て、確信がもてたよ。きっと僕は夏帆さんを愛していたんだって」
彼の顔は照れを隠すように笑っていた。
私は涙をこらえながら、彼の紡ぐ言葉に耳を傾けていた。
「記憶がないっていうのは、全てではないんだ。幼いころの記憶はぼんやりと覚えていてね」
そういうと、以前、彼のお母さんが見せてくれた、私の絵葉書を取り出した。
「お母さんが教えてくれたよ。僕の宝物は、夏帆さんがずっと前に描いてくれたものだったって。僕、この絵が大好きで、ずっと肌身離さず持ってるんだ」
彼はそれから、彼の幼い日の淡い記憶を話し始めた。
「幼い時から、日本のあちこちに住んでね。それはもう大変だったよ。なにより友達が出来なかった。それでも親を前にすると、寂しいなんて口には出せなくてさ。よく、海に連れて行ってねだってたよ。お父さんが貿易関係の仕事だったから、海の近いところに住めたのは幸いだったかな」
「なんで海に行きたかったの?」
「友達のいなかった僕にとっては、変わらない海だけが僕の居場所だったんだ」
寂しさという感情がひしひしと私に伝わった。
私自身も、友達が多かったわけではない。
行き場のない感情を堰き止めるために、私は絵の中に自分の居場所を作り、その中に自分の寂しさだとか悲しさだとか、怒りだとか喜びを注ぎ込んでいた。
でもそれがいつしか、人よりもうまく描かなきゃという比較へと変わり、いつの間にか、自分の居場所すらも黒くしてしまう混沌へと、塗り替えてしまっていた。
そんな私の絵を彼は愛してくれたのだ。
絵を描く葛藤も、煩悶も、癇癪も。
そんなことはどうでもいいと、今目の前にあるあなたの絵が愛おしいと、彼は私の絵を思い続けてくれていた。
どれだけ救われただろうか。その一途がゆえの不器用な愛に。
「夏帆さん。僕はあなたの前でどんな人間だった?」
ふいに、彼は真剣な目つきへと変わった。
彼はきっと、欠け落ちた記憶のパーツ、つまりは、私を愛していた確信が欲しいのだろう。
「すごく不器用だったよ。年下なのに、年上の私に気を使わせないようにって、気丈に振舞ってて。それでいて、まだまだ子供っぽいところはあって。それでもそんな一途なところが私は好きだよ」
私は彼への気持ちを吐露した。
「そっか、自分らしいのかな?」
「そんなの、私に聞かないでよ。わかるわけないじゃん」
「それもそうだね」
はははと2人は病室で笑い合った。
「でも、私は三澄君に謝らなきゃいけないことがあるの」
病室に舞い込んだ風が、2人の間を吹き抜ける。
「聞かせて?」
彼は優しく私に聞いた。
「変な大人のプライドっていうのかな。年下のあなたのアプローチをずっと避けていたの。あの時はまだ自分に自信がなくて、こんな私なんか好きになっちゃだめだよって。私はあなたが好きでいてくれていることを知っていたのに、私はそれを気づかないふりをして。それでもあなたはずっと、私を愛してくれていたわ。恋人関係になった時も、その私の陰は消えてはくれなかった。もし、水難事故が起こらなかったら、きっと私はあなたの愛に曖昧な気持ちで答えて、あなたを欺いていたと思う。私は自分が傷つくことがすごく怖かったの。怖くて、怖くて、他の人のせいにしてしまえばその分私が救われるって。だから、あなたの記憶がないって知った時、心配もしたけれどもホッとしたところもあるの。私のやってきたことが帳消しになったって」
私の涙腺からは涙があふれ出て、途中、鼻をすすりながら話し続けていた。
自分でも何を言っているのか分からなかったけれども、とにかく自分の中にあるカオスを全て吐き出したかったのだ。
彼は黙ってその言葉を聞いていた。
「あなたにもし記憶があったのなら、多分この話をきいて、私に失望したと思う。人を好きになった時の葛藤がないわけないもの。だから、この話を聞いて少し考えたいのなら、私はこの病室を去るし、きっと私からあなたに連絡は取らない。ごめんね」
言っていることと、自分の心が矛盾する。
本当は寂しくてたまらないし、私を愛してって大声で言いたいはずなのに。
今すぐにでも、彼を抱きしめたいはずなのに。
それでも、私は彼を傷つけた分、私も傷つかなきゃいけない。
今更、なにもなかったかのように、彼に無償の愛をちょうだいなんて言えるはずもない。
だからこそ、私はこの言葉を彼に言わなければならなかった。
彼は微笑んだ。
私のぐしょぐしょに濡れ切った顔を見ながら。
「おいで」と一言、私に声をかけると、そのまま顔を胸へと抱き寄せた。
彼の手が、私の頭を優しく撫でる。
私は思い切り泣いた。
彼に顔が見えないことをいいことに、体裁など気にせず、泣いた。
「好きに決まってるじゃん……ばか。離れたくないよ」
私は泣き声を枯らしながら、呟いた。
彼はそれを聞いてもなを、何も言わず、頭を撫でてつづけた。
そんな彼を不思議に思い、私は顔を上げる。
「見ないでよ」
そう言った彼もまた、泣いていた。
「なんであなたが泣くのよ」
「わからないよ。多分、すごく嬉しいんだと思う。夏帆さんから好きって言葉、初めて聞いたから」
そういって彼は笑った。
私も泣き腫らした赤い顔で笑った。
窓の外の、木々の間の木陰に、青い鳥がちゅちゅんと囀りながら、番となって羽を擦り合わせている。
「私たちみたいね」
私は彼の手をギュッと握った。
その手は、優しく私の手を握り返した。
「夏帆さん」
「なに?」
「―――好きだよ」
そして、私と彼の唇は重なった。
こんなにも塩辛いキスは初めてだった。
こんなにも優しいキスは初めてだった。
こんなにも愛しいと思ったキスは初めてだった。
彼と私の間に、ちょうど日差しが差し込み、首元のペンダントが光る。
透き通った群青は、淡い光を放ちながら私たちを包み込んだ。
愛に溺れるってきっとこういうことなんだろうな。
やがて、唇が離れ、彼は私を抱きしめた。
胸の奥が温かく感じる。
微かに、私の耳に砂をさらう海のさざ波の音が聞こえたような気がした。
君は透き通る群青 静 霧一 @kiriitishizuka
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