第9話 『悪因悪果』


「お、久しぶりじゃん」

 私が珍しく本屋で本を探していると、そこには見知った顔の男が立っていた。

 見知ったという言葉には少し弊害があるかもしれない。

「あ、うん……久しぶり、小野君」

 反射的につい、その男に声を返してしまった。

 私は正直なところ、戸惑ってもいるし、この場を一刻も離れたいとも思ってもいる。

「本探してるの?」

「うん」

「何の本?」

「美術の本」

「へー、まだ絵描いてるんだ!前から上手かったもんね!」

 彼は自分のことのように笑みを浮かべた。

 彼とは中学と高校が一緒で、けして知らない仲というわけではない。

 学生時代の野球部だったころの丸坊主だった姿はなく、髪がふさふさと生えた姿はどことなく違和感があった。

「そういえば千歳、これから時間ある?」

「あ、いや、時間は……」

 時間はある。ただその時間を彼に割く時間は持ち合わせてはいなかった。

「そっか、まぁしょうがないようね、急だし。あ、そしたら連絡先教えてもらっていい?」

 そういうと、彼は私の有無を聞かずに、すかさず目の前にスマホを差し出す。

 その動きはずいぶんと手慣れた動きだった。

 私はそんなもんに簡単に乗らされ、気付けば連絡先を交換し、彼はすでに本屋を退店していた。

「やっぱり慣れないな……」

 私はそんなことをぼそりと呟いた。


 家に帰ってからスマホを確認すると、通知が2件表示されている。

 小野君からであった。

『メッセージ送れてるかな?』

『久しぶり!ずいぶんと綺麗になってたからびっくりしちゃったよ!』

 すごく馴れ馴れしい文章に、どう返事をすれば良いのか分からず、既読をつけたままスマホをベッドへと放り投げた。

 私は小野君との秘めた記憶を遡る。

 記憶の紐を手繰り寄せていくと、それは高校の卒業文集とどうもつながっているみたいで、私はそれを本棚から引っ張り出した。

「文化祭……」

 彼との接点といえば、多分ここが最初だったんじゃなかったかなと思う。

 高校の思い出の3年間の写真が載ったページを一枚一枚捲っていく。

 そんなに活動的でなかった私はほとんどの写真に写りこんではいなかったが、唯一写りこんでいるものとすれば、クラスの集合写真と文化祭の教室での準備風景であった。

 そこには一生懸命黒板にチョークで絵を描く私の後ろ姿と、ピース姿で男友達と肩を組みながらニコリと笑う小野君の姿があった。

 確かこの時、私は初めて彼と話した。

 男子と話す習慣なんてなかった私は、この時すごく緊張していたのを覚えている。

 おかげで、その時何を話したのかいくら記憶を辿っても思い出せない。

 中学の時から小野君のことは知っていた。

 クラスも一度だけ一緒になったが、私は美術部で彼は野球部に所属していたために、話す接点などなかった。

 多分、文化祭の準備をしていたこの日、私は彼に打ち解けたんだろう。

 そして、文化祭の当日。小野君は私に告白をした。

 最初はなんでこんな陰湿な私に告白なんかと戸惑った。

 だが、私はとくに断る理由もなかったために、その告白を受け入れた。

 私にとって初めての彼氏だった。

 正直に言うと、私は当初、彼に好意を抱いてはいなかった。

 それでも告白を受け入れたのは、よく美術室の窓から外を眺めていた時に目に入った、彼の野球に打ち込む姿に憧れを抱いていたことに他ならなかった。

 彼とはなんだかんだで1年は付き合っていたと思う。

 別れた原因は、私にあった。

 彼は私の気持ちがまだ追い付いていないことを感じていたのか、積極的にアプローチをしてくれていた。

 メールを送るのも、デートの行き先を決めるのも、面白い話をしているのもずっと彼からだった。

 決して私はそれが嫌なわけではなかった。

 彼への好意が徐々に高まっていく中で、私は彼が疲弊していることに気づいてもいなかった。

「なぁ、夏帆。いい加減にしてくれよ」

 デートをしている最中、私は不意にそんな言葉を彼から言われた。

 一体何が彼をそうさせてしまったのか、私は当時、その答えを知ることはできなかった。

 その後、私から初めてメールを送ってもみたが、メールが返ってくることはなく、自然消滅という形で私の恋は終わった。

 私はそっと、その卒業文集を閉じた。

 今ならその理由がわかる。

 私は彼に甘えていたのだ。

 誰だって、無償に愛をくれる存在がいれば嬉しいものだ。

 地球上の生物を見渡せば、そのほとんどが、子孫を残すために雄が雌に求愛を仕掛ける。

 そして選ばれた雄だけが子孫を残すことができる。

 だから、男子からアプローチをすること自体は間違ってはいない。

 むしろ、そうあるべきなのだ。

 だが、人間にはその他生物に持ちえないものを持っている。

 それが「感情」だ。

 この感情こそが求愛への嬉しさや悲しさを生み、そして愛を育んでいる。

 私にはそれが欠けていた。

 決して何も感じなかったわけではない。

 彼のアプローチは嬉しかったし、私も時折、妄想に耽っていた時期もあった。

 だが、それはあくまで自己満足であって、相手の気持ちを考えたことにはならない。

 きちんとお返しをするべきであった。

 与えるだけの愛ほど、無情なものはない。

 私はそんな耐えがたい苦痛を彼に与えてしまったのだ。

 ベッドに横になると、私はセンチメンタルな気分に浸り、ため息をついた。

 この時の失敗は、今も私の心の隅で、動かない石像のように小さく飾られている。

 私は未だあの時の自分のままだ。

 三澄君との日々を思い返してみたが、私がしてあげられたことなど何一つなかった。

 待ち合わせと一緒。

 ただ待つだけの私。

 私はまた同じような失敗を繰り返そうとしている。

 もう、昔の自分とは違うのだ。

 私の頭の中で、サイコロが転がってゆく。

 当てもなく答えなどない白紙の上で、意味もなく賽の目を出すそれは、私の心の気色を伺うように、その数字をパタリパタリと何度も変えていった。

 結局、答えなどない。

 答えは自分で決めなければならない。


 今日の夜は、なんだか不可解にも永く感じた。

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