第8話 『熱と吐息とガラス細工』


 午前10時50分。

 私は鎌倉駅旧駅舎時計台で一人、三澄君が来るのを待ち惚けていた。


 あの時送ったメッセージは読まれたあとすぐに返信が来た。

『もう一度デートをしてください』と誘ってみたら、私の恐怖とは裏腹にすんなりと了解と言ってくれたのだ。

 私の不用意なドキドキを返してくれないかと、少しばかり画面に毒を吐く。

 結局のところ、私はいつも待つべき側にいた。

 約束を待つという、落ち着くことのできない悶える時間は私の心を疲れさせることはとうの昔から知っている。

 それであるはずなのに、体は無意識に早く約束の場所へと辿り着いてしまうのだ。

 私は時計台の長針をちらちらと見続ける。

 残り10分という時間の秒針が異常に長く感じるのは、このじめりとした梅雨の湿気のせいなのか、はたまた私の緊張のせいなのか。

 パラパラと小雨の降る6月。

 紫陽花が地に咲く小さな花火のように、丸く開いて揺れている。

 その紫色の花びらに滴る雨の雫は、その重さによって下にピトりと落ちてゆく。

 私の不安は、待ち合わせのトキメキを霞の中に隠し、それが自分の小さな肺にまで流入する感触を覚え、秒針が進んでいくたびに息苦しくなっていった。

 早く会いたいという期待とは裏腹に、緊張が私の心を蝕み、嫌な鼓動が少しだけその速度を上げた。

「待った?」

 ふいに、声を掛けられる。

 傘を少しばかり上げ、恐る恐る目線を上に向けると、紺色の大きな傘で覆われるようにして三澄君が目の前に立っていた。

 あまりの緊張で握った拳が急に汗ばみ、ハンカチを取り出そうとするが、バッグのどこにしまったかと慌てふためいてしまう。

「夏帆さん」

 私の耳に自分を呼ぶ声に緊張で頭が混乱し、手が固まり止まってしまう。

「夏帆さん」

 優しく私の名前が呼ばれ、緊張で強張る肩に手がそっと置かれる。

 私の思考はそこで止まった。

 もはや頭の中で、不安や期待、緊張や羞恥といった感情が海の時化のようにうねっていく。

「夏帆さん」

 三澄君は私の傘をどかし、自分の傘の中へと引き寄せる。

 私は待ち望むかのように彼の手に引かれ、そのまま懐の中へと抱き寄せられた。

 あぁ、少し汗ばんでるな。

 彼の手も私と同じように汗ばみ、少しだけ震えていることに私は安心した。

 今思えば彼は私よりも五つも下なのだ。

 年上の女性なんて怖いだろうに、そんなことは微塵も感じさせず、めげずにアプローチを続けてくれた。

 こんなどこにでもいそうな女のどこがいいんだろうか。

 私が三澄君が好きでも拒み続けていたのは、好きになった人に価値のない自分を肯定されてしまう怖さから自分を遠ざけるためであったのかもしれない。

「三澄君……」

 私は振り絞るように名前を呼んだ。

 今の私にはそれが精一杯の勇気であった。

 彼はその勇気を掬い上げるようにして、肩を握った手に力が入る。

 二人は紺色の傘の中、私は彼の腰に手をまわし、しばし恋に溺れるかのように抱き合った。

 そこには余計な言葉なんて入る隙もなく、ただただゆっくりとした愛の時間だけが流れていた。

「ここじゃ寒いし、少し移動しようか」

 私は手を引かれるまま、三澄君の傘の中、下を俯きながら共に歩き出した。

 そのまま駅の反対口まで歩いていき、彼はそのまま喫茶店『ルノワール』へと入店した。

 相変わらず、私は今何を話せばいいのかわからない。

 彼もそれを察しているようで、温かいコーヒーを二つ頼み、それからはお互い沈黙の時間が続いた。

 客席の喧騒を遮断するように、コーヒーの白い湯気が立ち上り、三澄君は私に温かい沈黙をくれた。

 少しづつ私の心は雪が解けていくかのように融解し、先ほどの緊張や焦りが静まっていった。

「落ち着いた?」

 三澄君が、頭を優しく撫でるような声で問いかけた。

 こくりと私は小さく頷く。

 声を出そうと思っても、胸の奥が熱く苦しくなって、恥ずかしさだけが体の中を駆け上がる。

 そんな様子を察したのか、無理にそれ以上私から声を引き出すことはしなかった。

 窓ガラスから覗く外の景色は、雨が止んだようで、鈍色の雲が空を覆っていた。

 雲の間からは少しだけ青い晴れ間が見え隠れしている。

「そろそろ出よっか」

 そういうと三澄君は私の手を取り、椅子からやさしく立ち上がらせた。

 私たちはルノアールから退店したが、これからの行方はまったくわからない。

 冷えた手先を温めるかのように、三澄君は私の少しがさつく手を握り、半歩先を歩いてゆく。空気中に残った細かな水滴が、時々現れる晴れ間の光を反射させ、空を見上げると、ところどころきらきらと輝いているようにも見える。

 雨のち晴れという天気がここまで美しいと思ったのは、生まれて初めてのことであった。

 それからというもの、駅前の喧騒を抜け、車通りの多い道路をずっとまっすぐに歩いていき、いつしか車通りのない細い路地に入っていた。

 結構遠くまで歩いてきたようで、あたりの景色を見渡すと鎌倉文学館の近くまで歩いてきていた。

 三澄君は歩くスピードを緩め、ある一軒のお店の前で立ち止まった。

 二階建ての白色の住宅でありながら、一階は雑貨屋としてお店を開けており、こげ茶の木の看板が小さく吊るされている。

 看板には『Clear Palette』と店名が彫られていた。

 私は長年鎌倉に住んでいるけれども、初めて知るお店であった。

 入り口は透明なガラス張りになっており、扉の取っ手が浮いているようにも見える。

 三澄君はその扉の取っ手を持ち、外側に引くと、エスコートするように私の手を握りながら店内へと足を踏み入れた。

 店内は雑貨屋というよりかは装飾屋に近い面持ちであった。

 私は初めて入るお店に好奇心が沸き上がり、三澄君の手を離すと、ぐるぐると店内を見てわまった。

 手作りのピアスやアクセサリーなどが飾られており、少し高めのものはガラスケースに入れられ、小綺麗に飾られている。青や緑、赤などといった宝石にも似たガラス細工が埋められたアクセサリーはどれも輝かしく光を反射していた。

 まるでその色とりどりの光景は、幼き日に見たプラネタリウムの星空のように、幻想的に私を魅了していく。

 ガラスケースの中を覗き込みながら、そこに突っ立っていると、三澄君が後ろから左肩に手を回してきた。

「綺麗だね」

 耳元で囁かれたその言葉に、私は顔を赤らめる。

 きっとそれはこのアクセサリーに言ったものだと自分に言い聞かせながら、早まる鼓動を押さえつけるように胸に手を当てた。

「何かお探しかい?」

 しばらく眺めていると、お店の奥から店主らしき女性がゆっくりと歩いてきた。

 店主は思ったいたよりも若い女性で、私と同い年ぐらいのようにも思えた。

「ペアのものを探してるんです」

 三澄君は店主にどれかいいものはないかと尋ねた。

「そうだね……これなんてどう?」

 ガラスケースの鍵を開け、中から青色のガラス細工の入ったネックレスを取り出す。

 白く輝く銀のチェーンに一点、宝石にも見間違えるような透き通った青のガラス細工が埋め込まれている。

「つけていいですか?」

「あぁ、もちろんさ」

 店主に許可を取ると三澄君はそのネックレスのフックを外し、私の首の後ろに両手を回すと、優しくそれをつけてくれた。

「やっぱり、綺麗だね」

 三澄君はネックレスが輝く私を見ながら微笑むように言った。

 その言葉に私の恥ずかしさは頂点に達し、頭から湯気が上がるほど、顔を赤らめた。

「それ、買うかい?」

「はい、買わせてください」

 そういうと三澄君はちょっと待っててと言い、店主とともにレジのほうへと歩いて行った。

 私は首にかけられたネックレスのガラス細工を手に持って眺める。

 近くにあった鏡に自分の姿を映すと、その青いガラスが光を反射し私自身が輝いて見えた。

 彼から貰った初めてのプレゼントに心が躍り、私はぎゅっとその青いガラスを握りしめた。

「僕もつけてきたんだけど……どう?」

 三澄君がお会計を済ませ、私のもとへと歩み寄る。

 同じものをつけているということに一心同体というか、なにか特別な繋がりのようなものを感じ、はにかむように「似合ってる」と一言、言葉を漏らした。

「ありがとう、この子を選んでくれて」

 店主の女性が私たちに声をかける。

「いえいえ、こちらこそ買わせていただきありがとうございます」

「そんなにかしこまらなくいいよ。お客さんなんだし」

 店主は終始笑顔であった。

「ここにある物は全部私の作品であり、子供たちなんだよ」

 作品というものの思い入れに心が動かされる。

 私は今まで自分の子供と思えるほど自分の絵と向き合ってきたんだろうかと、ふと自分の画室が頭を過った。

「この子……名前はあるんですか?」

 私は無意識にそんなことを聞いてしまった。

 これは多分、一人の創作者としての心の声であったんだと思う。


「その子はね、"透き通る群青"って名前を付けてるんだ」


 その名前の響きが、私の耳の奥で残響していく。

 私は三澄君を見ると、きらりとネックレスの青からほのかに潮風の香りがしたような気がした。

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