第5話 『初めてのデート』 近代美術館鎌倉別館にて


 彼と出会った日から一週間が経った。


 私は今、鎌倉駅西口の旧駅舎時計台で一人、彼の到着を待っている。

 時刻は10時50分を指し、あと10分で顔を合わせると思うと、その気がなくても体がソワソワし始めた。

 結局あれからチャットでの会話は進み、鎌倉の案内をすることとなってしまい、私は今ここにいる。

 いくつになっても待ち合わせの出会う寸前の緊張は苦手だ。

 胸が妙に高鳴り、手からは汗がべとりと滲み出す。

 私はそれを一生懸命ハンカチを握りしめ抑えてつけながら、彼がくるのを待っていた。

 この時計台で誰かを最後に待ったのは、高校生の時以来だろうか。

 地元の高校に進学し、初めての彼氏も同じクラスの男の子だった。

 進学した高校は古く歴史のある高校で、男子は学ラン、女子は飾り気のない紺のブレザーであり、色恋に興味が出てくる年頃なだけあって、悶々とした日々を過ごした。

 あの日の待ち合わせは、7月の初夏であった。

 ニイニイゼミがジージーと鳴き声を聞こえ始め、首筋を撫でる爽やかな夏風が、私の服の袖を吹き抜けていったのを覚えている。

 今と同じく、手から汗が滲みだし、それをぎゅっと握るようにしてハンカチを手にしていた。

 いつもは学ラン姿な彼氏が、休日のその日は白い半袖シャツにベージュのチノパン姿で現れた。

 高校生らしいというか、特別おしゃれでもなかったけれども、初めて見た彼の私服姿は輝いていた。

 夏の暑さと恋の熱情にやられていたのか、お互いが握ったその手には、緊張の震えともどかしさの感触が今も手に残っている。


 彼が来るまであと5分。

 時計台が指す長針を見ては、そわそわと体の芯が身震いする。

 ふと、ふわりと夏風が首筋を撫でた。

「待った?」

 時計台を向いていた私を覆うようにして、人影が差しこむ。

 潮の香りと、男の子の独特な本能をくすぐる匂いが鼻孔をついた。

 私は緊張した面持ちで、その影に振り向く。

 そこには優しく微笑む三澄君が30センチの距離に立っていた。

 あぁ、こんなにも近い。

 少し顔を赤らめながらも、そんな素振りなどないようにして私は三澄君を見上げた。

「待ってないよ」

 ちょっとだけ嘘をついてみる。

 あんなにそわそわしながら待っていたのに、まるで何もなかったように平気な顔をした。

「ごめん、待たせてちゃってたね」

 三澄君は、そっと私の手に水の入った冷たいペットボトルを渡した。

 まるで私のことをわかっているような、そのさりげない優しさが私の奥に隠れた恥じらいが顔を出そうとしている。

「ありがとう」

 一言呟いたあとに、ぷいっと照れが見られないように下を向く。

 ペットボトルの蓋を開けようとその蓋を捻ると、もうすでにそれは開封されていた。

「よし、行こうか」

 彼の右手が差し伸べられる。

 私はその差し伸べられた右手の指先をちょこんと握るようにして、後を惹かれるように彼に着いていった。


 ◆


「大人用のチケット2枚ください。」

 三澄君は財布からお金を出すと、入館チケットを買った。

「あ、あの・・・お金」

 あまりの手際の良さに、私は財布を出すタイミングをすっかり失ってしまっていた。

「あ、いいよ。今日は僕が誘ったんだし。」

 はいと入館チケットを手渡されると、私はぼそりと「ありがとう・・・」といい、それを受け取った。

 デートに誘ってきたのは彼のほうだが、神奈川県立近代美術館鎌倉別館に行きたいと言ったのは私のほうだ。

 それに彼のほうが年下で、私のほうが年上である。

 割り勘であったほうが少しは私も平静を保てたのだが、これでは私の立つ瀬がなくなってしまうではないか。

 少しだけ、私の顔に陰りが差した気がした。

「そしたらさ、どっかでコーヒー奢ってよ。」

 彼が振り向きながら、笑顔でこちらに振り向いた。

「うん」と一言、私は頷いたがそんなタイミングが来るのだろうかと、少し心に靄を残した。


 旧神奈川県立近代美術館 鎌倉館は2016年に閉館している。

 旧鎌倉館は、日本初の公立近代美術館として1951年に開館した。

 戦後間もない日本で、芸術家の作品を発信する場を欲しいと声があがり、復興への希望の象徴として建築されたとされる歴史がある。

 旧鎌倉館は、当時の優れた日本の建築家であった板倉準三が手掛け、西と和を調和させたモダニズム建築として設計されていた。

 幼いころ、母に連れられ初めて訪れた美術館が、旧鎌倉館であった。

 レンガ調の白く角ばった壁に、水の庭園が広がる美術館。

 子供ながらに、それは見慣れた住宅街にはない、異世界とも思える線と空間に佇む造形美に感動したことを覚えている。

 私には、その頃から芸術的な美しさを感じる感性を持ち合わせていたのかは定かではないが、今私が絵描きをしているのはこの感動が原点にあったのだと今更ながら思っている。

 この頃、私の日常が無機質だと感じるようになってきていた。

 絵を描くことは好きだし、画力も少しづつではあるが、確実に上達をしている。

 小さい部屋の小さい画室で、ただ黙々と自分の自由を描いていく。

 たまに外に出ては、海や山、道や花を描くこともあるが、ふと、私ではない誰かが今この筆を握っているのではないかと錯覚することがある。

 何度見返そうと、その手は自分であり、その絵も自分である。

 そう思ってしまうと、手がコンクリートで固められたように筆が止まってしまう。

 私が書いた絵の飛び立つ先は、一体どこにあるんだろうか。

 きっと他の誰かが描くであろう絵を、私がたまたま書いているだけではないだろうかと。

 私は多分、静かなる霧の中に一人でぽつりと立っている。

 霧が晴れる風がほしい。

 こんな不可解な蟠りを誰かに理解してもらおうとは思ってもいないが、どこか助けの一縷を無意識に求めていた。

 そんな矢先、彼からデートの誘いがあった。

 私は何か心の中に変化が生まれるだろうかということを期待して、すんなりと受け入れた。

 美術館を指定したのも、新しく建築された鎌倉別館を訪れたことはなく、もう一度、幼き日に抱いた感動を原点回帰するためでもあった。


 私は一枚の絵の前で立ち止まる。

「どうしたの?」

 彼が私の隣に立つが、そんなことも気づかずに絵を凝視し続ける。

 その絵には『中禅寺湖夜景』というタイトルがついていた。

 作家名をみると、本多錦吉朗と書かれている。

 中禅寺湖を包む夜の微睡の中に、ポツンと黄色く光る満月が一つ。

 昼間であれば、自然が生い茂り、青々とした山の展望が望める景色が広がっているのだが、この絵にはその緑の木々はなく、夜の陰に覆われている。

 空気の静寂をも描く本多の絵は、その夜の温度を纏っているかのように、冷たく湿っていた。

 夜の世界は私の写し鏡のようだ。

 私の描き出す風景には、透き通る水を流れ、柔らかな風をそよぎ、逞しい土を盛っている。

 他の人が私の絵を見ると、「まるで写真のようだ」と口々に感想を言う。

 その「写真のような描写」に私はいない。 

 当の私は無機質な白黒で、脆弱。

 色の影に隠れた緑の夜景は、私というパレットから色を欠いた抜け殻のようにただ静かに淀んでいた。

「ごめんね。次いこっか」

 何もない素振りで、その絵から立ち去る。

 彼は、私が絵をみる後ろをとことこと着いてくるだけであった。

 絵画をみて、ふむふむと頷く男子などそういるものでもない。

 思い返せば、赤の他人と美術館に行くというのは初めてであった。

 いつも隣にいるのは母か妹のどちらかで、妹に関しては私よりも絵は断然うまく、遥か上の目線で絵を見ていたのだろうとつくづく思う。

 私が美術館へ行く理由は、絵の世界への没入感と浮遊感を楽しみ、画家の世界観を旅するためである。

 要は、誰と行こうが結局は一人なのだ。

 大人ながらにデートに行く選択肢を間違えてしまったと、美術館を出てすぐに少し凹んだ。


 私たちは美術館を後にし、ほどなく歩いた場所にある「歐林洞」へと足を運んだ。

 英国の上流レストランを思わせる店構えに、年下の彼に少し戸惑いが見えた。

 店内に足を踏み入れれば、間接照明がほのかに所々を灯しだし、見渡す限りにアンティーク調の家具に囲まれ、モダンなヨーロッパの朝を彷彿とさせる気品さえ感じる内観となっている。

 そんな異国情緒なカフェで、私たちはコーヒーとケーキを注文した。

 彼は真っ白に飾られ、真ん中には苺が紅を差す、四角いショートケーキを頼んだ。

 まるで新雪を手で掬い上げた柔さのように、それを崩すにはあまりにも可愛らしいケーキに私は思わず見惚れてしまった。

 私は、幾つもの線が層を織りなし、粉雪がその色合いに一層の深みを与えるモンブランを注文した。

 お互い、オリジナルブレンドコーヒーをセットとしている。

「歐林洞」のコーヒーは、年代ものの大きなコーヒーマシンで一つ一つ丁寧に挽いて提供され、喫茶店には珍しくシナモンスティックがついている。

 シナモンスティックでかき混ぜることにより、コーヒーとシナモンの香りが鼻孔を通じて交じり合い、私の気分を高揚させてくれる逸品となっていた。

 ケーキを口に頬張れば、お互いが蕩ける様にして、その奥深い甘さに舌鼓を打った。

「さっきはごめんね。私だけ好きに館内回っちゃって。」

「大丈夫だよ。美術館は楽しめた?」

「うん。お陰様で充分堪能することが出来たよ。」

「こちらこそ、貴方の笑顔が見れて嬉しいですよ。」

 不意に彼は優しい言葉を投げかけた。

 デートとはお互いが楽しみ、笑い、共感するものであるが、どう考えても私一人が楽しんでいたようにしか思えていなかった。

 それでもなお、彼は「楽しいし嬉しい」と付け加えてくれた。

 私の中に歓喜と罪悪感が渦巻き、これを言葉であらわせと言われればどうにも難しく形容しがたい感情が心の内を弄んでいる。

 優しさの毒に魘されながらも、私はカップに残った少しばかりのコーヒーをごくりと飲みほした。


「今日はありがとう!」

 私の携帯の通知に一言、お礼の通知が表示されていた。

 結局、歐林洞でコーヒーとケーキを頂いて、そのままどこかに行くこともなく、私たちは解散した。

 涼し気であった夏の風は、いつしか人混みにまぎれた湿った埃臭い風となっていた。

 歩き別れた彼の姿を、振り向きざまに眺める。

 肩を下ろしたどこか寂しげな背中をした彼がわたしの目に映った。

 気づけば、慣れない疲れに体が固まり、自室のベッドにうつ伏せにして横たわっていた。

 私にはやはり、男の子とのデートは荷が重すぎる。

「ありがとう!」という言葉が私の背中に重くのしかかり、返信しようと指を動かそうとするが、どうもその指さえも今は全くと言っていいほど、動かなくなっていた。

 多分、私はあの人に一目惚れをしたのだろう。

 緊張の強張りから、私は彼に心にすこし距離を置き、今日を過ごしていた。

 愛する元気はあっても、愛される可愛さを持ち合わせてはいない。

 大人になり切れない私の目には、少し潤むようにして涙がたまっていた。

 春は向かうものに訪れ、待つものには訪れることは決してない。

 だからこそ「ありがとう」という言葉は、私にとっての罰にも思えるほどに、酷く残酷な言葉として、私の心を抉っていく。

 そして少しづつ、着かれた体を小さな悪魔が引っ張る様にして、夢の中へと私は眠りに落ちていった。

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