第4話 『一抹の夢』


 自転車を長時間漕いだせいなのか、それとも慣れない男の子との会話したせいなのか。

 家の自室に戻った私は、ショルダーバックを床におろすと、そのまま仰向けにベッドへと転がった。

 白い天井が映り、白い空白に何かを描きたいという絵描きの性なのか、私は今日見た竹林を思い出しながら宙を指でなぞり始めた。

 ふと、絵をなぞる指が途中で止まる。

「はぁ」と変な息を漏らしながら、突き出した右腕を布団におろした。

 左の二の腕で目を押さえながら視界を覆うと、もう一度「はぁ」と変な吐息を口から吐き出す。

 竹林に佇む彼の美しさは、その幻想的な自然美との調和そのものであった。

 それと彼のくしゃりと笑った笑顔は、どこか私の心を惹きつけるものがあった。

 一目惚れとは少し違う恥じらいが、私の中で込みあがってくるのが手に取るようにわかる。

 それを思い出すたびに、私の少し目頭が熱くなった。

 視界が覆われた闇の中、疲れからなのか私はいつの間にかすやすやと寝息を立て、夢の中へと堕ちていった。


 目を開けると、そこは高い煙突の上であった。

 その光景を見た途端、私はすぐにこれが夢の中なのだと気づいた。

 天高く伸びる煙突には、ところどころに蔦が巻き付き、罅割れた隙間からはオオイヌノフグリの小さな青い花やカラスノエンドウの紫の花が綺麗に咲いている。

 視線の先には遠く透き通った昼の三日月が浮かび、下に目を向けると、点々と白い雲が悠々と流れていた。

 髪を撫でるようにして、春の匂いがする風がふわりと私をすり抜けている。

 どこまでも青く、白い絨毯は、見渡す限りどこまでも続く大海のように無限の自由を私に与えてくれた。

 誰かに押されるようにして、一歩足が前に出る。

 裸足の足に宙を蹴り、そのまま空へと落ちていき、私は雲も突き抜ける。

 いくつかの雲を抜けた先、パッと私の視界には、白い波が立つ晴れやかな鎌倉の上空を飛んでいた。

 黒い瓦と白い外壁が織りなすレトロな街並みとそれを囲むように生い茂る山森が、まるでミニチュアのように小さく見える。

 私はあの小さな街並みの、小さな家の、小さな部屋の片隅が私のいる世界なんだ。

 絵が描けない窮愁も、体を自由に動かせない歯痒さも、理解されたいのに相手の肩を突き飛ばす苦しい矛盾も、あの小さな家の小さな片隅の出来事なのだと思うと、何もかもが馬鹿らしく思えた。

 空に落ち続ける私は体の向きを変え、視界を反転させる。

 視界は鎌倉の街並みから、遠ざかっていく白い群雲へと切り替わった。

 あぁ、空を飛ぶのは限りない自由だと思っていたけれども、思ったよりも窮屈で身動きは取れない。

 そのまま体が風圧で動かせずに垂直落下していく。

 自分が望む自由は、こんなにも見えない何かに縛られているのだろうか。

 雲を見上げながら、空の手のひらを見つめ、広大な空を孤独に一人落ちていく。

 やっぱり、落ちるのなら誰かの手を握って落ちたほうが少しは笑えるのかな。

 急速に視界が狭まり、また私は闇の中へと堕ちていった。


 ハッと息が詰まる感覚とともに、私は布団から飛び起きた。

 未だ浮遊感の残る体の違和感に、額からは冷や汗は流れ出る。

 こんなにもはっきりとした夢をみたのはいつぶりだろうか。

 そんなことを考えながらスマホの画面をつけると、15:42という数字を表示していた。

 4時間も寝てしまったと後悔しながらも、お腹を摩ると「ぐうっ」という空腹の音が部屋に鳴り響き、その音に合わせて「お腹すいたなぁ」と声が反射的に口から漏れ出した。

「よしっ」という意気込みとともに布団から足を出し、床に足をつける。

 すると、パーカーのポケットからヒラヒラと一枚のメモ用紙がポトリと落ちてきた。

 それを拾い上げ中を開けると、そこには090から始まる電話番号がボールペンで記載されていた。

「あっ・・・」

 あの男の子から、去り際に一枚のメモを渡されていたことを思い出す。

 私は布団に置きっぱなしにしてあるスマホを手に取ると、メモの番号を打ち込み登録をした。

 新規登録画面には、打ち込んだ番号が表示され、名前が空欄となっている。

「あれ、名前なんだっけな・・・」

 いくら頭を捻っても、あの男の子の名前が出てこない。

 あまりの緊張に名前を覚える余裕すらもなかったんだと思うと、自分が恥ずかしく思え、気落ちしていく姿に情けなさも覚えた。

 とりあえず「名無し」とだけ打ち込み、番号の登録を済ませる。

 コミュニケーションアプリを起動すると、友達の自動追加登録機能が起動したのか、先程追加した電話番号が友達に追加された。


「Kaito Misumi」

 ローマ字表記の名前がそこには表示された。


「かいと・・・みすみ・・・、あっ三澄海斗!」

 頭の霧が一気に晴れたようにして、今朝の記憶が目まぐるしく蘇る。

 そうだそうだと一人でにはしゃいでいたが、ふと私は思い出したかのように落ち着きを取り戻した。

「連絡して・・・いいんだよね?」

 自問自答をしながら、恐る恐る彼の名前をタッチすると、プロフィール画面が表示される。

 それは白いサーフボードで波に乗る、躍動した彼の姿であった。

 その姿に、指が固まってしまうほど思わず見惚れてしまった。

 それは勿論かっこいいということもあるだろうけども、海の波で私の知らない自由を謳歌しているその姿に強い憧れを抱いたのかもしれない。

 私はプロフィールからトーク画面へ飛ぶと、緊張した面持ちで文字を打ち込んだ。


『初めまして!今朝、報国寺で挨拶した千歳夏帆と言います!宜しくお願いいたします(絵文字)』


 なんと淡白で、可愛げのない文章なのだろうか。

 これでも精一杯考えたつもりだったのだけど、本当に大丈夫なんだろうかと、一抹の不安が私の中で右往左往している。

 考えても仕方ないと、送信ボタンを震える親指で押すと、ピコンという音に合わせ、私の打った文章がメッセージとして表示される。

 これ以上先を考えると怖いという思いから、すぐさまアプリを閉じ画面を消すと、布団の上にスマホを放り投げた。

「ぐうっ」という空腹に耐えかねた私の食欲に命令されるかのように、私は駆けるようにして食卓へと向かっていった。

 私はキッチンに入ると、食器棚の下をごそごそと漁り、その戸棚に隠してあった小倉デニッシュの菓子パンを引っ張り出した。

 賞味期限は1日過ぎていたが、特に気にする素振りもなく封を開けると、それをむしゃりと頬張った。

 デニッシュの茶色い欠片が口につき、それを舌なめずりしながら取っていく。

 行儀を気にすることもなく、食べ歩きをしながらリビングにおいてあるテレビリモコンを手に取る。

 刷り込まれた無意識行動のように、私はテレビの電源をつけた。

 テレビでは夕方のニュースの始める前、ちょうどテレビショッピングの時間帯であった。

 最新式の掃除機を今だけ特価と連呼する男性販売士の溌溂とした声が耳に飛び込んできたが、あまりにも耳障りであったためにすぐさまその電源を落とし、自室へと向かっていった。

 自室のドアを開けると、暗がりの部屋の中に一点、白い光が灯っている。

 照明をつけると、布団の上に放り投げたスマホに通知が一件表示されていた。

 スマホを手に取り、横にスライドするとアプリには30分前に送ったメッセージに返信が返ってきていた。


 『ありがとうございます!僕は三澄海斗です!宜しくお願いします(絵文字)』


 淡白なメッセージのあとに、可愛らしいマシュマロのようなキャラクターの小さな手を挙げるスタンプが送られてきていた。

 これは会話を続けてもいいんだろうかと、私の頭に疑問符が湧いてきた。

 空欄のメッセージの上に指を置いたまま、少しの間黙り込んだ。

 考えても仕方ないと思い、とりあえずプロフィールで目についたサーフィンの話題を振る。

 『サーフィンやられてるんですか?』

 可愛げな文章を作ろうとするも、どんな顔文字を使えばいいのかが見当つかない。

 そうして打ち込まれた言葉に、なぜか落ち込みを覚えてしまった。

「はぁ」とため息交じりにもう一度布団へとごろごろと横に転がる。

 普段とは違う誰かの言葉を待つという行動が、脇腹をくすぐるようにして体にむず痒さを走らせる。

 意味もなく携帯の画面をじっと眺めながら、ポチポチと意味もなくアプリを巡回し始めた。


 ピコン

 思っているよりも早く、メッセージが届いていた。

 恐る恐る通知をタップすると、『そうだよ!』という短い文章の後に、1枚の写真が添付されていた。

 海パン姿の2人の男性が肩を組み合ってこちらにピースを向けている写真だった。

 真ん中に写るのは三澄君、左隣には白髪交じりで短髪の彼に似たおじさんがいる。

 多分、彼のお父さんなのだろう。

 私は思った通り、『隣はお父さん?』と文字を打つとそのまま送信ボタンを押した。

 たった少しの会話でも面として話さなければ、どうも文字を打つ気力が湧いてこない。

 彼とは話を続けたいのだが、文字だけは少しだけ肩を凝る。

 ベッドの隅にある充電器にスマホを接続すると、吸い込まれるようにしてまたベッドへと横になった。

 一階のキッチンからは、ガシャガシャと食器を取り出す音と、冷蔵庫を開ける音が聞こえる。

 母が夕飯の支度をし始める時間かとふと、スマホを見るともう時間は18:00になろうとしていた。

 夕食が出来上がったら、起きればいい。

 そんなことを頭で考えながら、私はゆっくりと瞼を閉じた。

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