033 約束

 冷静に見えても、カムクも逃げることが正解だとは思っていない。

 壁で囲まれている以上どうしたって行き止まりに当たるし、市長の座についているバロックの手にかかればたとえ建物の中に潜んだところで人海戦術で見つかってしまうだろう。


 逃げられないと知っていても逃げるしかなかったのは、思い知らされたからだ。


 ……勝てない。


 さっきのゴーシュの動きでさえ、満足に捉えられなかったカムクに、それよりも速いバロックの剣撃に目が追いつくはずもない。


「分かってる、もん……っ!」


 おとなしくなったプラムが、今度はカムクの耳に噛みついた。


「なっ!?」


 レベル1の噛みつきとは言え、不意にやられたら驚く。


 痛みはほとんどないにしても、抱えたプラムを離してしまうほどの戸惑いが生まれた。

 受け身も取れずに落下したプラムは、運動神経もレベル1相当に落ちていた。


 以前までの彼女なら受け身を取るまでもなく空中で体勢を立て直し着地していたはず。


 ……本当に、今のプラムは昔のように弱い……。

 そうだ、これが本来の、あるべき姿であり、関係だ。

 決して、プラムに守られるカムクであってはならない。


「分かってるなら――」

「わたしを逃がして、そのあと、クーくんはどうするの? わたしが逃げる時間を稼ぐために、戦うの? それとも、自分の人生を棒に振って、あの人の下につくの?」


 わたしのために? と。

 どちらにしても許さないと言いたげな目だった。


 許す、許さないを選べる状況ではない。

 たとえ嫌われても……構わない。

 ここをどうにか突破しなければ、カムクの理想は叶えられないのだから。


「これが今のおれの、限界だ」

「……だとしても、こんな助けられ方……やだよ」


 じゃあどうしろって……?


 二人で立ち向かって仲良く揃って殺されるか? それこそ最悪だ。


 プラムを守ると誓った――彼女はそれを知らないだろうが、彼にとっては生きる上での芯であり……やっぱりどうしようもなく変えられない、感情だった。


 関係が変わっても、悪い方向へ発展してしまったこともあれど、根本的なところでカムクはプラム・ミラーベルという少女に好意を抱いていて、彼女に認められたくて、頼られたかった。


 だからこそ、交わらなかった両者とも言えるが――。


 プラムを守るために前に出たいカムクと、

 カムクと対等に並びたいプラムではやはり相容れない。


 どちらかが妥協するしか、交わることはないだろう。


 確かなことは、カムクは絶対に折れない。


 これだけは。

 たとえプラムの願いだろうと、聞けない。


 最高でプラムを逃がす。

 最低でも、プラムだけは生き続けられるように……。


 自分の命を懸けて立ち向かうことが、唯一の勝利条件だ。


 そうでもしなければ、たとえそれが僅かでも、可能性は生まれてくれない。


「守るって……言った」


 ぼそっと呟いたプラムの言葉に、カムクの肩が跳ねた。


「わたしに、約束してくれたっ!」

「おま……っ、聞いて……たのか……!?」


「わたしが起きてる時に言ってくれない卑怯者に守られたって、嬉しくないっ。クーくんが命を懸けて逃がしてくれたとしても、その後で一人ぼっちになったら、わたしはその場で命を絶つよ――絶対に、あてつけみたいに死んでやるからッッ!」


「ふざけんなッ! お、前が――お前が幸せになることがおれの幸せだってなんで分からないんだよッ!」

「言ってくれなきゃ分からないよそんなのっっ!!」


 逃げることも忘れて、道の真ん中で額をぶつけ合うような喧嘩を久しぶりにした。


「なんでもかんでも自分で勝手に決めて、人の意見なんて聞かないし譲る気もないしで、わがまま過ぎるよ! わたしのため? それを言っておけばなんでも通ると思ったら大間違いなんだからっ!」


「便利な言葉だから、言ってるわけじゃないっ! おれは、本当にお前のために――」

「あーもうっ、そういうのいいから! こっちも照れるから黙ってっ!」


 プラムが地団駄を踏み、


「――勝ってよ」


 シンプルに、そう言った。


「戦力差は百も承知、可能性は本当に少ない。でも、それでも、みんなのために――ううん、違くて。ただ、わたしのためだけに――勝って、よ……」


 プラムも内心、無茶な注文だと自覚している。

 バロックのレベルを考えれば、一周目でしかもレベル90にさえ到達していないカムクに勝ち目なんてない。


 黒鼻外道の弟子として鍛錬をしたとは言っても、創意工夫でどうにかなる戦力差ではない。


 ――それでも。


 カムクがバロックに勝つことが、二人一緒にこの先の人生を歩む条件になるのなら。


 ……諦めたくなかった、可能性。


「……本気で、言ってる、んだよな……?」


 プラムも覚悟を決めたようで、表情に固さがなくなっていた。


 弾むような声で、

「うんっ」


 カムクと運命共同体でいることを、彼女自身が望んだのだ。


「ねえ、クーくん」


 急接近したプラムの顔が、すぐに離れたと思えば、カムクの狭まっていた視界が一気に開け、ネガティブなことばかりで埋め尽くされていた脳内が一瞬で炸裂した。


 真っ白になって、なにも考えられなくなったと思えば、

 なにも描かれていなかった白紙の上に、彼女のお願いが消せない傷を作る。


 プラムが赤くなった顔を、見せたくないがために伏せながら、指で唇に触れ――、

 泳いだ視線に動揺を隠し切れないまま――それでも、言葉だけは忘れない。


「今度はクーくんから。……待ってるから。だから、勝って――」



「わたしを、助けて」

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