ふらふらですね。先輩。

 


「……直哉。あたしは、あんたが好き。今度こそ何があっても、あんたの側を離れないって約束する。だからあたしと……結婚してください」



 鏡花は真っ直ぐな瞳でそう告げて、銀色に輝く指輪を差し出す。それはいつか俺が渡したおもちゃの指輪とは違い、決して安くはないであろう本物の指輪で、だから俺は思わず息を飲む。



「……鏡花。お前……」



 ドキドキと、壊れるくらい強く心臓が脈打つ。唐突な展開に、頭が真っ白になってしまう。



 それくらい俺は今の状況に驚いて……いやそれ以上に、鏡花の美しさに惹かれていた。



 淡い光に照らされた、照れたような可愛い笑顔。ずっと長いあいだ俺だけを想い続けてくれた、真っ直ぐな想い。そして、俺が約束を守れないと言った直後なのに、こうやって告白してくれた強い心。



 どこをとっても鏡花はとても魅力的な女の子で、だから俺は今すぐにでも指輪を受け取って、鏡花のことを強く強く抱きしめたいと、そう思う。



「…………」



 ……けどなぜか、身体が動いてくれない。




 まるで見えない何かに押さえつけられているように、身体が重くて動かすことができない。だから俺はこのまま黙って、ただ鏡花の……。





 ……いや、それじゃダメだ。




 ここで答えを返せないようじゃ、今までと何も変わらない。だから俺は、この肩にのしかかる重さを振り払ってでも、想いを伝えなければならない。そうじゃないと、いつまで経っても前に進めない。



 ……きっとこの肩にのしかかる重さは、美綾や玲やささなへの想いなのだろう。彼女たちと過ごした時間も大切だから、ここで答えを出すのを躊躇してしまう。



 でもいつまでも、そこで立ち止まっているわけにはいかない。



 誰も傷つけたくないから、とか。まだそれでも、ささなのことを忘れられないから、とか。いつまでもそんな言葉を繰り返していたら、俺は永遠に誰かを選ぶことなんてできない。






 だから俺は他の全てを置き去りにしてでも、今の自分の素直な想いを言葉に変える。





「ありがとう、鏡花。俺もお前が──」





 好きだよ。

 


 ……そう告げる筈だったのに、俺が言葉を言い切る前に、唐突にまた唇が塞がれる。


「……いや、鏡花。俺は──」


 そして俺がいくら口を開こうとしても、鏡花はまるでそれを遮るように、何度も何度もキスをする。深く激しく、口の周りがベトベトになっても構わず、彼女はキスを繰り返す。



「……直哉。左手、見てみて?」



 そして、何もかもがふやけるくらいキスをし続けたあと、鏡花はそう言ってニヤリとした笑みを浮かべる。


「……左手って……あ。お前……いつの間に……」


 ふらふらとした頭で言われた通りに左手に視線を向けると、さっきの指輪がいつの間にか薬指にはめられていた。


「ふふっ、驚いたでしょ?」


「……そりゃまあ驚いたけど、でも……そんな真似しなくても俺はちゃんと、受け取るつもりだったぜ? だって俺もお前が──」


「好きだって言ってくれるの? なら今ここで、あたしを抱いてくれる?」


「それは……」


 改めてそう問われると、言葉に詰まってしまう。 ……いや正直に言うと、もう本気で我慢するのがきつくなってきた。だってあんなに激しいキスを何度もされて、しかもここにはあの甘い香りが漂っている。



 だからもうこのまま鏡花を受け入れて、彼女の全てが欲しい。そんな風に思ってしまう。



 ……でも、このまま鏡花を抱いてしまったら、俺は絶対に後悔する。そんな想いがどうしても頭から離れてくれなくて、だから俺は……言えなかった。



 お前が欲しい。だから俺と、結婚してくれ。



 たったそれだけの言葉が、どうしても言えなかった。


「ごめん、鏡花。俺は、まだ……」


「あんたが謝る必要なんて、どこにもないわ。だってこれも、分かってたことだもん。あんたはきっと、今のあたしを抱いてはくれない。それはさっきのお風呂のキスで、何となく分かった。だからあたしは……作戦を変えることにしたの」


「作戦を変える……? どういう意味だよ? それ」


「ふふっ。実はあたしね、今すっごくエッチな下着をつけてるの。もうほとんど見えちゃってるんじゃないかってくらい、エッチな下着。それをね、このTシャツの下につけてるの……」


 鏡花はそう言って、大きい胸を見せつけるように両手で胸を持ち上げる。……すると薄いTシャツを通して、赤い派手な下着が透けて見える。


「ふふっ。見てる、見てる。……あんたやっぱり、エロい男ね」


「だからそれは、知ってるって。それよりその下着で迫ってくるのが、お前の作戦だったのか?」


「そう。……ロウソク、消えたでしょ? あれ、わざとなの。ほんとは、そうやってロウソクが消えた隙にね、服を脱いであんたに襲いかかるつもりだった。……だってあたしは、そこまでしてでも……あんたに抱いて欲しかったから……」


 鏡花は遠い目をして、普段とは違う大人びた表情で笑う。だからドキドキと、また俺の心臓は早鐘を打ち始める。


「……なあ、鏡花。前から思ってたんだけどさ、何でお前はその……そういう行為に拘るんだ? ……俺が言えた義理じゃないけどさ、できればそういう行為は……ちゃんと付き合ってからにした方がいいと思うんだけど……」


「それは、そうかもね。……でも、今そんな悠長なこと言ってたら……あんたが死んじゃうかもしれない。……それにあたし……処女なのよ。あんたは経験してるのに、あたしだけ処女。そんなのあたし、嫌なのよ。なんか、あたしだけ子供のまま置いていかれたみたいで……寂しいじゃない。だからあたしは少しでも早く、あんたに抱かれたいの」


「…………」


 確か美綾も、同じようなことを言っていた。……けど俺は、そういう行為をしたからって、何か変わった訳じゃない。



 ただ傷ついて、言い訳を重ねて、ささなを抱くことで現実から目を背けた。



 だから俺は、何も変わってなんかいない。いや寧ろ、逆に傷ついただけだ。そしてだからこそ、そういう思いを他の誰にもして欲しくはないと思ってしまう。


「……いや、でもお前は……そこまで強い想いがあるのに、その作戦を辞めてまで……俺に、プロポーズしてくれた。その理由は、なんなんだ?」


「……分かっちゃったのよ。さっきも言ったけど、何となく分かったの。今のあたしがいくら迫っても、あんたはあたしを抱いてくれないって。……ううん。もし抱いてくれたとしても、それは……あたしの求める行為じゃないって……」


 鏡花はそう言って、どこか縋るように俺の方に手を伸ばす。だから俺は優しく強く、その手を握りしめる。


「……でもあたしはね、諦めたわけじゃないの。そういうやり方がダメなら、別の作戦をとればいい。すぐにそう決めて、だから……こうやって指輪を渡してプロポーズしたの。……ふふっ。でも、一度やってみたかったんだ、こういうの。だから指輪も、用意してきたんだしね」


 鏡花は笑う。俺がいつか渡したおもちゃの指輪を本当に大切そうに見つめながら、肩から力を抜くように優しく微笑む。


「……正直、びっくりしたよ。まさか告白をすっ飛ばしてプロポーズされるなんて、思ってもみなかったからな」


「でも、喜んでくれたでしょ? きっとあんたはこういうやり方の方が、笑ってくれる」


「ああ。驚きはしたけど、それでも本当に……嬉しかった。だから、ありがとな。……いやでもお前は、俺の答えを聞かなかったよな? それは……どうしてなんだ?」


「……まだ届かないって、分かったから。そうやってプロポーズしても、まだささなには届かない。だからキスして、無理やり指輪をはめたの。これからもあたしはあたしのやり方でグイグイ行くぞって、あんたに分かってもらう為に」


 そう言って鏡花はまた、キスをする。ぎゅっと強く手を握り合って、溶け合うようにキスをする。



 それはとても……脳がとろけるくらい、甘い時間だ。……だから柄にもなく、思ってしまう。



 時間が、止まればいいのに。



 そんなバカなことを願ってしまうくらい、今の時間はとてもとても幸福だった。


「……ふぅ。でも今日は、キスだけで我慢してあげる。……ううん。その代わり、キスは絶対に我慢しないから覚悟しなさい?」


「分かってるよ。……いや、俺もお前と……もっとキスしたい……」


 そうして俺たちは、キスをする。もうどちらがどちらを求めているかなんて分からないくらい、何度も何度もキスを繰り返す。


 そうやって甘い香りが漂う部屋で、1時間も2時間もキスをして、そして俺たちはいつの間にか眠ってしまっていた。




 そんな風にして、鏡花との1日は終わりを告げた。





 ……そう思っていたのに、夜はまだ明けなかった。




 鏡花と抱きしめあって眠りながら、俺は夢を見た。……いや、それは夢と呼べるほど曖昧なものではなく、確かな感覚を持ったもう1つの現実。




 そしてそんな世界で、彼女の声が響いた。




「やあ、風切 直哉。こんな所に呼び出してしまって、申し訳ないね。でも……どうしても君と、話しておきたいことがあったんだよ」




 だから夜は、まだ明けない。


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