何も言えません。先輩。
俺と鏡花は、結婚の約束をしていた。
小学校に入学する以前から、鏡花とはずっと一緒だった。だから俺はどこかで、鏡花のことを家族のように思っていたのだろう。
だから俺は、彼女と結婚の約束をした。
……正直その当時のことは、あまり覚えていない。けど、それでも結婚の約束をしたというのはずっと覚えていて、だから俺にとって鏡花はずっと大切な存在だった。
けどそんな鏡花との関係は、あの事件で完全に壊れてしまった。そして、辛うじて保っていた親との関係も徐々に徐々に破綻していって、中学に入る頃には俺は完全に1人になっていた。
……でも、それでいいと思った。だって鏡花はあれから1年も経てば、新しい友人を作って楽しそうにしていたし、玲は……俺と同じで1人でいることが多かったけど、それでも彼女はいつも楽しそうに笑っていた。
だから、必要ないと思った。
俺みたいな存在は、誰からも必要とされていない。俺が居なくても、彼女たちは変わらず笑っていられる。……いや寧ろ、俺なんかと関わらない方が、余計なことを思い出さずに済む。
俺は勝手にそう思い込んで、秒針の音が1番大きく聴こえる静かな部屋で、ずっと本を読み続けた。
何もないから傷つくかなくて、何もないから頑張る必要もない。そんな時間をずっと1人で過ごして、でもある時……気がついてしまった。
……自分が、泣いていることに。
本当は、寂しかったんだ。だからどんなにかっこつけた理屈で誤魔化しても、流れ出る涙を止めることができなくて……でも今更、鏡花や玲に泣きつくこともできない。けどだからって新しい友達を作るような愛想も、俺には無かった。
だから俺は、昔の想い出を支えにした。
楽しかったあの頃を。鏡花と玲とささなが居た、奇跡みたいな一瞬を。そして鏡花と結んだ、あの約束を。俺はそんな想い出を支えにして、日々の孤独を誤魔化していた。
だからきっと、俺も鏡花と同じなのだろう。
俺もどこかで、信じていた。時間が経てば鏡花はまた俺の手を取って、この静かな部屋から連れ出してくれる。そんなバカなことを、俺はどこかで……信じていた。
……けど結局俺は、その約束を信じ続けることができなくて、
また青い桜を、探し出した。
ささななら、きっと俺に笑いかけてくれる。彼女だけは変わらず、俺の側に居てくれる。そう願い、そうやって縋って俺は青い桜を探し続けた。
そしてその寂しさが、昔抱いた恋心を強く大きくして、俺は心の底からささなに会いたくて会いたくて、仕方がなくなった。
だから俺は、鏡花との約束もあの悲劇も忘れて、またあの青い桜に願ってしまった。
……でも別に、よかったんだ。代償を払うのが、俺なら。
俺はささなに会って、それでそのまま彼女に殺されたかった。だってもう、生きる理由なんてどこにもなかったから。……けど、そんな都合のいい結末は誰も許してくれなかった。
そして今になってもう一度、忘れた筈の約束を突きつけられることになった。
『あんたが約束を守る気があるのかないのか、それをちゃんと……あんたの口から、聞かせて』
そう、鏡花に問われた。だから俺は一瞬だけ過去を振り返り、そして当たり前のように答えを返した。
「ごめん、鏡花。俺はもう、その約束を守ってやれない」
そう口にすると、胸が痛んだ。でも俺は一度その約束を忘れて、ささなに縋った。なのに今更、その約束を守るとは言えない。
だから今の俺が鏡花を選ぶんだとしても、それはもうその約束とは関係ないことだ。
「……………………そ。まあ、分かってたけどね。あんたにその気があるなら、あんたはもっと早く……あたしのところに来てくれた筈だしね……」
鏡花の声に、悲壮感はない。……けど、抱きしめられた腕を通して、彼女の激しい鼓動が伝わってくる。
「お前は言い訳は聞きたくないって言ったから、俺は何も言わない。でも……」
「でもなんて、いらないわ。言ったでしょ? これくらい初めから、分かってたことなの。それに……だからって別に、今のあたしが振られたわけじゃないもん。だから……大丈夫……だもん……」
そう言いながら、でも鏡花の瞳から……涙が溢れた。……胸が、痛い。全て俺が悪くて傷つく資格もない癖に、ただ胸が勝手に痛む。
「…………ごめんね、直哉」
そしてなぜか鏡花が、俺に向かって頭を下げる。
「どうしてお前が、謝るんだよ」
「だって……全部あたしが悪いんだもん。あたしが願ったから、あんなことになった……」
「でもあれは……仕方ないことだ。誰だってあんな目に合えば、願ってしまうものなんだ」
「でも願ったのはあたしなのに……あんたばっかり、辛い目にあった」
「それは……」
「あたし……全部知ってたの。あんたの家の事情も、あんたが本当は……寂しかったことも、あたしは全部……気づいてた。だって、ずっと見てたんだもん。ずっと……好きだったんだもん。でもあたしは臆病だから、何も……できなかった」
そこで不意に、ロウソクの光が消える。だから辺りは、完全な闇に包まれる。けど俺は気にせず、言葉を返す。
「……いいんだよ、それで。俺はそれで、よかったんだ。だって俺は……」
俺は確かに寂しかったけど、でもお前が笑っていてくれたことは、俺にとって救いだった。
「よくない! よく、ないよ……。あたしはずっと卑怯で、ずっと逃げてて、なのに今更こんな約束を持ち出して……ずるいって、分かってる……! でも……好きなんだもん! あんたのことが、好きなの! どうしようもないくらい、あんたが好きなの! だから……!」
「────」
暗闇の中で、また唇を塞がれる。身体中に、鏡花の体温を感じる。だから今はもう、あの秒針の音は聴こえない。
「だから絶対に、あんたを死なせない。……あの約束がなくなっても、あたしは絶対に諦めない! どんな手段を使っても、あんたの心を手に入れてみせる……!」
そしてまた、激しいキスが世界を覆う。
……俺は、約束を守ってやれないと言った。そう言えば鏡花が傷つくと分かっていて、そう答えた。
だから確かに、鏡花は泣いてしまった。
けど彼女は少しも折れることなく、ただキスを繰り返す。泣きながら、それでも彼女は俺が好きだと言ってくれる。
「…………」
だから俺はそれ以上なにも言わず、離れ離れだった過去の埋め合わせをするように、長い間キスを続けた。
「……そういえば、ロウソクの火……消えちゃったわね? あたしちょっと、マッチ持ってくる」
そして長いキスを終えた後、鏡花は唐突にそんなことを言って、机の方に足を向ける。
「……足元、気をつけろよ?」
暗闇に目が慣れてきたけど、それでもほとんど何も見えない。だから俺は一応、そう鏡花に声をかける。そしてそのまま、大きく息を吐く。
「…………」
心臓が、まだドキドキしている。あんなに激しいキスを何度もして、しかも部屋にはまだあの甘い香りが充満している。
だから俺は一度大きく息を吐いて、思考を切り替える。……そうじゃないと、このまま何もかも忘れて、鏡花に溺れてしまいそうだ。
「じゃあもう一度、火をつけるわね?」
そんな風に何度か深呼吸を繰り返していると、鏡花がゆっくりとした足取りで戻ってきて、ロウソクに火を灯す。
だから甘い香りが、また辺りに漂い出す。
「ねえ、直哉。これ、覚えてる?」
そして鏡花は淡い光の中で、何か小さなものを俺に見せる。
「なんだ? 小さくてよく見えない……って、これ指輪か。いやどっちかっていうと、子供のおもちゃか」
鏡花の掌に乗せられているのは、指輪のおもちゃだ。だから俺は一瞬、首を傾げる。だってこのタイミングで鏡花がそんなおもちゃを見せる理由が、分からなかったから。
でも……。
「これね、あんたがあたしにくれた指輪なんだ」
そう言われて、思い出す。確かにこれは、俺が鏡花にプレゼントしたものだ。
「……そういえば、そうだったな。俺はこれをお前に渡して、結婚の約束をしたんだった」
「うん。……ほら、見て? あたし指細いから、頑張れば左手の薬指につけられるわよ?」
鏡花はそう楽しそうに笑って、その指輪を指にはめる。
「…………」
……俺はもう、その約束は守ってやれないと言った。なのに鏡花は楽しそうに、そんなことをしてみせる。
……その意味が俺には、分からない。
「……ふふっ。別にあんたに当てつけする為に、これを持って来たんじゃないわ。でもね、思い出したのよ。あたしはこんなに可愛い指輪を貰ったのに、あんたに何もお返ししてないって。だから──」
そこで鏡花は、ポケットから指輪を取り出す。今持っている子供のおもちゃとは違う、本物の指輪を。
「直哉。あたし、言ったでしょ? あんたが約束を守る気がないのは、分かってたって。だからあたしは、これを持ってきたの。ここでもう一度、同じ約束を結ぶ為に」
そして鏡花はただ真っ直ぐな瞳で俺を見つめて、そのまま言葉を続ける。
「……直哉。あたしは、あんたが好き。今度こそ何があっても、あんたの側を離れないって約束する。だからあたしと……結婚してください」
甘い香りが漂う夜に、鏡花はそう言って俺に指輪を差し出した。
だから長い夜は、まだ明けない。
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