ダメですからね? 先輩。



 2人でただ海を眺める静かな時間を過ごして、俺たちは別荘に戻った。そして一緒に夕飯を食べて少しのんびりしたあと、鏡花は何か企むような笑みで口を開く。


「あんたちょっと、お風呂に入って来なさいよ。あたしはその間に、ちょっと準備しておきたいことがあるから」


「別にいいけど、準備しておきたいことってなんだ? ……いや、もしかして聞かない方がいいことか?」


「うん、それは内緒。……だからあんたは今のうちに、ゆっくりお風呂に入って今日の疲れをとってきなさい。そして覚悟ができたら、あたしの部屋に来て。とびっきりのサプライズで、あんたを驚かしてやるから」


「りょーかい。でもあんまり、無茶な真似はするなよ?」


「ふふっ、それは約束できないわね。だってあたしはもう、手段を選ぶつもりはないから……」


 鏡花はそこで、ニヤリと意味深な笑みを浮かべる。だから俺は少し不安に思いながらも、言われた通りに風呂に入ることにする。


「……じゃあとりあえず、先に風呂をいただくことにするよ」


「そうしなさい。……じゃあまた後でね、直哉」


 そんな鏡花の言葉を背中で聞いて、まずは自分の部屋に戻る。そして着替えを持って、そのまま風呂場に向かう。


「そういや最近は、シャワーだけで済ませることが多かったな……。なら今日は久し振りに、のんびりお湯に浸かるか」


 この別荘の風呂は、ちょっとした温泉くらいの広さがあって、しかも綺麗な海を見渡すことができる最高のロケーションだ。だからのんびりするなら、これ以上の場所はない。


「……って、何か良い匂いがするな。玲は温泉は出ないって言ってたから、誰かが温泉の素でも入れたのかな?」


 服を脱いで風呂場に入ると、肩から力が抜けるような良い匂いが鼻腔をくすぐる。だからきっと、美綾か玲が先に風呂に入って温泉の素でも入れたんだろう。



 そんなことを考えながらシャワーを浴びて、白く濁ったお湯にゆっくりと身体を浸す。そして身体から力を抜くように、大きく息を吐く。







 するとまるでそれに返事をするかのように、風呂場の扉が開いて声が響いた。



「入るわよ、直哉」



 鏡花は当たり前のようにそう言って、風呂場に足を踏み入れる。


「ちょっ、鏡花! お前それは流石に──」


 だから俺は慌てて目をそらして、そのまま文句を言おうとする。……けど、今日の鏡花の様子を思い出して、一度口を閉じる。


 さっきも思ったことだが、今日の鏡花はかなり積極的だ。だからここで俺が何を言っても、彼女はきっと聞かないだろう。……それにいくら鏡花でも、裸で来たりはしない筈だ。



 俺はそう結論づけて、大きく息を吐いてから鏡花の方に視線を向ける。



「────」



 けどすぐに、視線をそらす。だって鏡花は、当たり前のようにバスタオルを外して、シャワーを浴びていた。



 そしてその下には、何も着ていなかった。



 だから危うく、見てはいけないところを見てしまうところだった。


「ふふっ。あんた今、あたしの身体見て変なこと考たでしょ? でも……いいのよ? あたしはあんたになら何されても……ううん。あたしはあんたに、触れて欲しいって思う。だから、いいよ? あたしを、もっと見て……」


 鏡花は蕩けるような声でそう言って、そのまま俺の隣に腰掛ける。……幸い温泉の素でお湯が濁っているから、鏡花の身体も俺の身体もよく見えない。


 ……けど、肩が触れ合うような距離に、一糸纏わぬ鏡花が居る。そう思うとどうしても、落ち着くことができない。


「……つーか、鏡花。お前、部屋でなんか準備してるんじゃなかったのかよ」


「それはもう、終わったわ。だから、あんたの背中でも流してあげようと思ったのよ。……悪い?」


「いや、悪いとかじゃなくて……そもそもお前、恥ずかしくねーの?」


「あんたやっぱり、バカね。恥ずかしいに、決まってじゃない。……でもあたしは、恥ずかしい程度じゃ止まらない。 ……だってあたしは、あんたが好きなの。だからどんな手段を使ってでも、あんたを振り向かせる。……それだけよ」


 鏡花は熱い吐息を吐きながらそう言って、逃がさないと言うように、強く強く俺の手を握る。


「ふふっ、あんた顔真っ赤。……ううん。きっとあたしは、もっと真っ赤なはず……。でもあたしは、もうあんたから目をそらさない。だからあんたがどれだけ逃げようとしても、この手は絶対に離さない」


「でも……お前、これは流石に洒落にならないだろ……」


「いいのよ、それで。あたしだって、冗談でやってるわけじゃないんだから」


「…………」


 そう言われると、返す言葉がない。きっと鏡花は、覚悟を決めてここに居る。そして俺も、色んな覚悟を決めてこの合宿に来た筈だ。


 ……でも同時に俺は、誰か1人を選ぶまでは誰にも手を出さないと、そう強く決めている。だから俺は、泣いてせがむ美綾の願いを断ったんだ。



「……あんたがね、軽々しく女の子に手を出さないのは知ってる。でもあたしは、そんなあんただからこそ……抱いて欲しいって思うの。それにきっと、そんなあんたの想いを覆してこそ、ささなからあんたを奪ったって言えるんだと思う」


 少し考え込んでしまった俺を見て、鏡花は一度、俺から手を離す。そして真っ直ぐに俺を見つめて、囁くように言葉を続ける。


「だから直哉、あたしを見て。あたしの身体に触れて。そして何もかも忘れちゃうくらい、あたしを愛して……」


「鏡花、俺は……」


 俺は、何なのだろう?


 自分でも分からない。ただ俺は、そこから先の言葉を紡ぐことができなくて、そしてだから鏡花はそんな俺に……抱きついた。




「────」



 どうしようもない感触が、身体中に押しつけられる。だから俺は、凍りついたように動きを止める。



 どうすればいいのか、分からない。だって俺は……ちゃんと誰か1人を選ぶまで、誰にも手を出さないと心に決めている。



 ……けど、ここまでされて手を出さないのは、どうなんだ? ……いやこれはただ、我慢できなくなってきた自分への、言い訳なのか?




 ……分からない。




 ただ心臓が、ドキドキと跳ねる。まだ10分もお湯に浸かっていないのに、頭が沸騰するくらい熱い。



「……直哉。いいんだよ、無理しなくて。あんたが、今日のことを内緒にしたいって言うなら、あたしは誰にも言ったりしない。だから……来て。あんたの熱さを、あたしにちょうだい……」



 蕩けるような、鏡花の声。ドキドキとした鏡花の鼓動。身体中に押しつけられた、柔らかな感触。




 そして、ゆっくりと迫ってくる唇。




 ……正直に言おう。触れたいと、強く思う。俺だって男なんだ。だからこんな風に迫られると、どうしても……きつい。だからもう他のことなんて忘れて、このまま鏡花に触れたいと思ってしまう。




 ……でもだからこそ、俺は言った。



「……悪い、鏡花。やっぱり……今はダメだ」



「…………どうして? ここまでしたのに、どうして抱いてくれないの? あたしってそこまで……魅力ない?」


 鏡花はそう言って、けれどそれでもまだ俺から手を離さない。だから俺は鏡花の感触を感じながら、言葉を続ける。


「いや、お前は魅力ありすぎだよ。……誰か1人を選ぶまでは、誰にも手を出さない。そう決めてたのに……正直、今すぐにでもお前が欲しいって思ってしまう」


「なら、いいじゃない。…………それともあんたはやっぱり、さななじゃないと……ダメなの?」


「違う。そうじゃなくて……俺はまだ……」


 お前が好きだと、言ってやれないんだ。そしてそんな状況でお前に手を出してしまったら、俺はきっと……嘘でもお前を好きだと言ってしまう。



 ……でもそれだと、ささなの時と一緒なんだ。だからきっとそれじゃ、ダメなんだ。そんな風に流されて抱いてしまうと、俺はきっとささなと鏡花を重ねてしまう。



 ささなの代わりに、鏡花を求めてしまう。



 ……それだけは絶対に、嫌なんだ。



「……なあ、鏡花。もう一度、こっち向いてくれないか?」


 だから俺は、真剣な声でそう告げて鏡花を真っ直ぐに見つめる。



「…………」



 すると鏡花は、少し不満そうに……それでも何かを期待するように、俺の瞳を見つめてくれる。



 そして俺は、鏡花が何か口を開く前に……




 彼女の唇に、キスをした。



「────」




 激しく深く、他の全てを忘れてしまうくらい強く強く、鏡花の唇にキスをする。



「……ごめん、鏡花。今はこれだけで、満足してくれ」


 そして俺は、唖然とした鏡花にそれだけ告げて、逃げるように風呂場から立ち去り、手早く服を来てから一度外に出る。



「…………頭が、沸騰しそうだ……」



 吹きつける風は、夏のものとは思えないほど冷たい。けどそれでも、頭は全く冷えてくれない。



 だから俺はしばらくそうやって、鏡花の柔らかさと温かさを思い出しながら、ただ黙って遠い夜空を見上げ続けた。


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