ごめんなさい。先輩。



 葛鐘くずかね れいは、息を切らしながら必死に夕暮れの街を走っていた。


「……はぁはぁ」


 玲は、焦っていた。車で送ってもらった方が早いとか、電話をしてから行けばいいとか、そんな当たり前のことが思い浮かばないほど、彼女は珍しく焦っていた。


 だって葛鐘 凛が言っていた、代償の話。もしその話が本当だとするなら、鏡花にはもう時間が残されていないかもしれない。


「……ずっと、嫌な予感がしてたんだし。でもまさか、こんなことになるなんて」


 玲はずっと、ささなのことを警戒していた。だって玲は、信じていなかった。ただ願うだけで、なんでも願いを叶えてくれるような都合の良い奇跡を。


「……このままだと、鏡花が死ぬ。そしたら直哉が、きっとささなに願っちゃう。そして蘇った鏡花が、またささなに……」


 そんなことを永遠と繰り返していたら、いずれ破綻するのは誰にだって分かることだ。だから玲は、そんな事態を回避する為に脇目も振らず走り続ける。



 そして息も絶え絶えで、鏡花の家にたどり着く。



 けれど、チャイムを押して出てきたのは鏡花では無く彼女の母親で、その母親は肩で息をする玲を心配しながら、こう言った。



「鏡花は友達の所に行くって、少し前に出かけたわよ」



 だから玲は、またすぐに走り出す。



 鏡花にはあらかじめ、伝えてあった。今日は直哉と一緒に母親に会うから、一緒に遊ぶことはできないって。



 だから鏡花は久しぶりに、学校の友達と遊んでいるだけかもしれない。それなら何も、問題は無い。



 ……けど、今の状況で友達の所に行ったなんて聞かされると、玲はどうしても1人の少女の所しか考えられない。




 青桜ささな。




 鏡花はきっと、彼女に会いに行ったのだろう。……もしかしてそれはただ、いつものように一緒に遊んでいるだけかもしれない。鏡花はささなによく懐いていたし、自分たちと遊べないのなら彼女の所に行ってもおかしくは無い。



 ……でも、今の玲にはどうしても、そんな楽観的な想像をすることができない。



 代償。



 そんな話を聞かされたら、誰だって嫌な想像をしてしまうだろう。




「……最悪だしっ! なんで今日なんだし!」



 だから玲はそう悪態をついて、いつもの山に向かって走る。そうすればきっと、いつものようにゆらゆらと揺れる青い花びらが見つかって、そしてそれを追えばささなに会える筈だ。



 玲はそう考えて、走り続けた。



 そしてゆっくりと日が暮れていき、辺りは闇に包まれていく。




 けれど玲は、そんなこと気にもせず走り続けて、




 そして……




「────」



 耳をつんざく叫び声を、聴いてしまった。



 ◇



 朱波あかなみ 鏡花きょうかは、1人で山道を歩いていた。


 鏡花は別に何か特別な理由があって、山を歩いていたわけじゃない。ただ今日は、直哉と玲が玲の母親と会う約束をしていたから、時間を持て余していた。


 でも何となく、学校の友達と遊ぼうとは思えず、かといって家で1人でいるのも寂しかった。



「…………」



 鏡花はとっくに、直哉と玲の許婚は形だけのものだと理解している。……でも、自分1人だけを家に残して2人が一緒にいると思うと、どうしても胸が痛んでしまう。



 だから鏡花は、ささなの所に向かった。



 彼女なら、どんな話にも付き合ってくれる。彼女と話すと、不思議と胸が軽くなる。だから鏡花はどうしてもささなに会いたくて、1人で山を登っていた。



「……あれ? 何でだろ?」



 けれど何故か、ささなは姿を現さない。いつもならこうやって山を歩いていると、自然と青い花びらが舞って、それを追うとささなに会うことができた。



 けど今日は何故か、その花びらが見つからない。



 どれだけ歩いても、どれだけ探しても、青い花びらは見つからなくて、気づけば鏡花は道に迷ってしまっていた。



「……どうしよう。なんでささな、出てきてくれないの?」


 鏡花は疲れたようにそう言って、近くの木陰に座り込む。そして、青い花びらを探す為に暗くなった空に視線を向ける。



 ……けど、見えるのは欠けた月とまばらな星々だけで、青い桜の姿はどこにも無い。



「どうやって帰ろう? ……あんまり遅くなると、お母さんに怒られるのに……」



 そう呟いて、でも鏡花はそこまで不安を感じてはいなかった。なにせ今の鏡花は、母親と話せるだけで嬉しい。……それにこうやって自分が居なくなると、直哉が心配して探しに来てくれるかもしれない。




 鏡花はそんな風にあまり現状を悲観すること無く、視線を空から夜の山に戻す。




 するとふと、視界の端で青い花びらが舞った。




「あ。……もしかして、ささな? ……心配して、出てきてくれたのかな?」




 鏡花は安堵したようにそう呟いて、そのまま青い花びらを追いかける。



 





 そして……






 その光景を、見てしまった。



 ◇



 俺は、赤に塗れていた。


「…………」


 ささなの肉体は、物語のようにどこかに消えること無く、当たり前のように俺の身体にのしかかる。




 そして、血だ。




 

 傷口なんて無い筈なのに、何故か彼女の血が辺り一面に広がって止まらない。ささなの身体は徐々に冷たくなるのに、その血だけはまだ熱くて、俺は思わず……叫びそうになる。




「…………」



 でも……彼女を殺したのは、俺だ。なら加害者である俺が、そんな被害者のような真似はできない。



 だから俺はどうすることもできず、ただささなの死を抱え続けて、





 そして唐突に、そんな声が響いた。






「な、直哉? あんた……何を、してるの?」




「────」




 鏡花だ。何故か鏡花が、ここに居る。



「……ねえ、直哉? なんで返事を……してくれないの?」



 鏡花は不思議そうに首を傾げて、赤くなった俺と冷たくなったささなを、ただ見つめる。



「…………」



 違うんだ、鏡花。俺はただ、お前と玲と……皆んなの為に……。だから、仕方なかったんだ。他に何も方法が無くて、違う。違う。違う。違う。違う。見るな。見るな。見るな。見るな。見ないでくれ。



 違うんだ! そんな目で、俺を……見るな!



 嵐のような感情が、頭の中で暴れまわる。けど、どうしても俺の口は動いてくれない。……いや、俺は言い訳のしようが無い罪を犯してしまったんだ。



 だから俺に、何かを言う資格は無い。



「…………ねえ? 直哉? 嘘よね? ドッキリとか、そういうのよね? だって……え? どうして……え? ささな。それ……赤くて、そんないっぱい血が出てたら……そんなの……」



 鏡花はゆっくりと一歩、俺の方に近づく。けれど俺は、何も言えない。



「な、何か言いなさいよ? 直哉。あんただって、ささなのことが……好きだったじゃん。あんたは……あたしが嫉妬するくらい、ささなばかり見てて……でも……ね? 何か言いなさいよ! 直哉!」


 そう叫んでもう一歩踏み出した鏡花は、パシャリとささなの血を踏んでしまう。


「……な、なにこれ? 血? ……なんで、血が? ねえ、直哉? もしかてささな、どうかしたの? 病気とか、誰かに……そう。もしかしてささな、誰かに変なことされて……それで……!」





「違う。ささなは、俺が殺した」





 やっと動いたと思った口は、とても冷たい声でそれだけを告げる。


「嘘よ! 直哉が……直哉がそんなことするわけ、ない!」


「したんだよ。俺がささなを……俺がささなを……! 殺したんだ!」


 そう叫んで、俺は鏡花の方に視線を向ける。すると鏡花は、まるで化け物でも見るような目でこう叫んだ。




「こ、来ないで! こっちに来ないでよ! この……人殺し!」





 そして鏡花はそんな呪いだけを残して、一目散に俺の前から逃げ出した。



「…………」



 ああでも……その通りだよ、鏡花。俺は人を殺してしまった。そんな俺がまた皆んなと笑い合えるなんて、そんなわけ……無かった。



 これで、青い桜の呪縛から解き放たれた。でも……同時に俺は、最悪の罪を犯してしまった。




「…………直哉! 今、鏡花が走って……って……」



 そして、鏡花と入れ違うようなタイミングでやって来た玲が、唖然とこの地獄を眺める。


「……ねえ、直哉。それしか、なかったの? 本当にそれしか、なかったの?」


 そして玲は、全てを悟ったような瞳で俺にそう問いかける。


「…………ああ。これしか、なかったんだよ」


「……………………そっか。でも、鏡花に……ううん。ごめん、直哉! ごめん! ごめんね……! 直哉にばっかり辛い思いさせて……。あーしが……私がもっと早くに鏡花の所に行ってれば、せめて鏡花には……!」


 ……玲は、涙を流していた。本当に、子供みたいに顔をくしゃくしゃにして、声を上げて泣いていた。




「ごめん! ごめんね! 直哉……!」



 ……けど、玲。お前が泣く必要なんて、どこにもないんだ。そもそも誰も、悪くないんだ。




 だから泣くのは、俺だけでいい。




「もういいよ、玲。お前ももう、帰れ。これは……そういうことなんだよ。きっとこれが、こうやってお前たちとの関係を終わらせることが、彼女を殺してしまった代償なんだ。だからもう……行け」


「……ごめん……!」


 玲はそう言って、鏡花と同じような顔で俺の前から姿を消す。



 すると見計らったように、青桜ささなの肉体は俺の腕の中から消え去った。



「…………」



 ささなは言った。自分を殺すのに、大した代償は要らないと。でもこれがその代償だというのなら、それはあまりにも……。




「……でも誰かが死ぬより、この方がずっとましか……」



 俺はそう自分に言い聞かせるように呟いて、遠い夜空を見上げる。




 ……そこにはもう、青い桜は舞っていない。温かだったささなの感触も、冷たいだけの彼女の感触も、赤くて熱い血も……もうどこにも無い。




「……………………」



 胸が痛い。ささなが居なくて。鏡花が居なくて。玲も居ない。でも……それが代償だと言うのなら、俺は受け入れるしかない。



 だって俺が……殺したんだ。



 俺の胸に、大きな穴が空いた。きっとそこにあったものを、俺はささなに差し出したんだ。




 だからただ、空を見上げる。ずっとずっと、そうやって空を見上げ続ける。





 そして気づけば、いつのまにか日付が変わっていて、俺は最悪の誕生日を迎えることになった。





 ……そうしてそのあと、中学2年の夏にもう一度ささなに出会うまで、俺はずっと1人で生き続けた。


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