ダメですか? 先輩。
「ねえ、先輩。今から私を、抱いてくれませんか?」
夜空に浮かぶ欠けた月を背にして、点崎はいつもの笑みでそう言った。
「……冗談で言ってるんだよな? 点崎」
俺はそれに、できるだけ普段通りに言葉を返す。
「違います。私だって女の子なんですから、冗談でこんなこと言いません」
「なら、どうしたんだよ? 急に。……お前、自分が何を言ってるか分かってるのか?」
「先輩こそ、私が何を言ってるか分かってるんですか? 私は、抱いてくれって言ってるんです。なら先輩は男らしく、ちゃんと答えを返してください」
「…………」
そんなことを言われても、『はい、分かりました。じゃあ、抱きます』なんて言えないし……。いやそもそも、これはいつもみたいに点崎の奴が、俺をからかってるだけなんじゃ……。
「さっきも言いましたけど、冗談で言ってるわけじゃ無いですからね」
「……なら、理由を訊いてもいいか? お前は何で急に、そんなことを言い出すんだよ?」
それが分からないと、答えを返すに返せない。
「先輩、言ってましたよね? 彼女が欲しいんじゃなくて、必要なんだって。それってもしかして、高校生のうちに彼女を作らないと、あの許婚の女と結婚させられるからとか、そういう理由なんじゃないですか? だから先輩は彼女が欲しいって言うんじゃなくて、必要だって言ったんです」
「それは……」
それは間違いでは無くて、でもだからこそ俺はどんな言葉を返すべきか迷ってしまう。
「……って、いやいや。待て待て待て。お前の言ってることは完全に間違ってるってわけじゃないけど、それが今の状況とどう関係してるんだ? 俺に彼女が必要だってことと、俺がお前を抱くことに、一体どんな繋がりがあるって言うんだよ」
「私は……私が、先輩の彼女になってあげてもいいって、そう言ってるんです!」
「なっ……! お前……え? つまり点崎は、俺のことが好きってことなのか?」
そうなると全然、話は変わってくるんだけど。
「ち、違います! そ、そういうんじゃなくて、別に私が先輩を好きとかそういうのじゃ無くて、その……あれです! 私もその……いつまでも処女だと恥ずかしいから……その、先輩と付き合ってあげる代わりに、私の処女をもらってくださいって、そう言ってるんです!」
「……いやお前」
こいつ、自分がとんでもないことを言ってるって、理解してるのか? ……つーか、付き合ってくれて、おまけにその……そういうことまでさせてくれるって言うのなら、俺からすればいいこと尽くめで、断る理由なんてどこにもない。
それに点崎の言う通り、俺に彼女が必要だっていうのも間違いでは無い。……しかも、俺は点崎のことが嫌いじゃない。
なら本当に、俺がこの申し出を断る理由ってどこにあるんだ?
「…………」
「な、なんですか! 黙り込んで! ……もしかして先輩は、あのギャルは抱けても私は抱けないってそう言うんですか! 先輩にとって……私はそんなに…………魅力が無いんですか!」
「いや……そうじゃなくて……」
「じゃあ、いいじゃないですか! 私、その……どんな風にされても我慢するし、先輩になら、その……いいですから! だから……だから私を、置いていかないで……!」
「────」
だから、点崎がその言葉を言わなければ、俺はきっと首を縦に振っていたのだろう。
「先輩はだって、童貞で。いつも私にバカにされて、怒ってるけど笑ってくれて。1人でいても寂しくなさそうで、でもどこかで誰かを求めてる感じがして……。私はそんな先輩といるのが、楽しくて……」
点崎はそこで一度、身体から熱を抜くように息を吐く。そしてそのまま、言葉を続ける。
「……でも先輩は童貞じゃなくて、綺麗な幼馴染と許婚がいて……。なんかそういうの、嫌なんです! なんか私だけ置いていかれたみたいで、我慢できないんです! だから──」
「点崎」
俺は軽い笑顔で彼女の名前を呼んで、優しく肩に手を置いてやる。
すると点崎は、何かを期待するようにゆっくりと目を瞑る。
「…………」
……けれど点崎の身体は震えていて、力強く瞑った目からは、溜まっていた涙が溢れ出す。
「……ったく、バカだな」
俺はそう小さく呟いて、そしてそのまま点崎のデコに軽く頭突きをする。
「痛っ。……ちょっ、え? なんでこのタイミングで、頭突きするんですか!先輩!」
点崎は顔を真っ赤にして、俺を睨む。
「お前が、バカだからだよ。……お前、鏡見てみろよ? そんな風に泣いてて震えてる女の子を、抱けるわけ無いだろ?」
「そ、そんなの別にいいじゃないですか! 私がいいって言ってるんだから、いいんです! 先輩のそういう下手くそな気遣いは、ほんと童貞っぽいです! 女の子は我慢してでも、抱かれたい時があるんです!」
「知るかよ、んなこと。だいたいお前は……お前は、分かってねーよ。お前が何を不安に思って、何を心配してくれてるのか知らねーけど、でも別に……俺はどこかに行ったりしねーよ」
「────」
俺の言葉を聞いて、今度は点崎が目を見開く。
「俺は明日もいつも通り、オカルト研究会の部室で本を読んでる。だから、お前はまた俺をバカにしに来いよ。……今はまだ、それでいいだろ? …………まだまだ時間は、あるんだしさ」
俺の過去に、色々なことがあったのは確かだ。でもそれはしょせん過去で、だからそれで俺たちの明日が変わるわけじゃない。
鏡花や玲と久しぶりに話して、懐かしいことを思い出した。でも、ここからまた彼女たちと仲良くなるような未来は、俺には想像できない。
だからきっと明日も俺の隣に居るのは、この生意気な後輩の点崎で、だから無理して泣いている女の子に手を出す必要なんて、どこにもないんだ。
「つまり……あれだよ。お前が俺のことを好きって言ってくれたら、その……抱いてやるよ」
「…………」
「何で黙るんだよ」
「ぷっ! だ、だって、何ですか? それ。直哉先輩、童貞じゃなかったとしても、その台詞は無いです。……ぷっ、ふふふふふふふっ! あはははははははは!」
「あー、もう、うっせ。お前こそさっきまで泣いてたくせに、実はもう俺のこと好きなんだろ?」
「違います。私は小悪魔ですから、そんな簡単に誰かを好きになったりしないんです!」
そうして2人、笑い合う。
「…………」
まあ今は、これでよかったんだと思う。点崎の予想は完全に当たっているというわけでは無いけれど、それでも俺に彼女が必要だというのは間違いでは無い。……しかしまあ、そこまで切羽詰まってるわけでも無いし、やっぱり点崎には生意気に笑っていて欲しいと思う。
だからこれで、よかったのだろう。
「それじゃあ──」
帰るか。そう言おうとして、しかしふと懐かしい声が耳朶を打つ。
──相変わらず優しいね、風切 直哉は。
「────」
だから俺は慌てて、背後を振り返る。
しかし無論、そこには誰の姿も無い。
「……? 先輩、どうかしたんですか?」
「…………いや、何でもない。つーかもう、帰ろうぜ? 明日も学校あるんだしさ」
「はい、そうですね。……でも、もちろん先輩は、私を家まで送ってくれるんですよね?」
「……まあ、面倒だけど、そうしてやるよ」
「ふふっ、送り狼って奴ですか? 気をつけないと、私食べられちゃいますね」
「うるせーよ。いいから行くぞ?」
そうして2人、歩き出す。
「…………」
けどその途中、一度だけ立ち止まって空を見上げる。欠けた月に、それを彩る小さな星々。夏を目前にした遠い遠い夜空。
俺が彼女を抱いたのも、思えばこんな夜だった。
「なに、かっこつけてるんですか? 先輩。早くしないと、置いて行きますよー」
「……分かってるよ」
そう答えを返して、歩き出す。これからはきっと、楽しいことが待っている。だからくだらない過去なんて忘れて、今は未来に期待しよう。
そんなことを考えて、俺は過去を振り切って前に進む。
しかしこの時の俺は、まだ理解していなかった。
これから先に待っているのは、過去では無く未来だ。それはとても当たり前なことで、だからあまり過去にこだわっても意味なんて無い。それは、その通りなのだろう。
……けど、だからって別に過去の行いが消えて無くなるわけじゃない。寧ろ過去はいつも俺を狙っていて、だからいくら目を背けても決して逃れることはできない。
だからここから、始まるのだろう。
俺、
……そして、俺と関係を持った彼女、
その5人で始める楽しい楽しいラブコメが、ここから本格的に動き出す。
無論その結末を、俺はまだ知らない。
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