(19)サトーⅡ

「く」

 短く呻き声を漏らし、ヒムカイカズラの肉体は機能を停止する。どうやら、少々強く殴り過ぎてしまったらしい。幸いなことに、死にまでは至っていないようだが。

 彼女の手から転げ落ちた黒犬の縫いぐるみを拾い上げ、当分目を覚ますことの無いであろう、ヒムカイカズラの脇に置く。

「さて」

 俺が目を遣ると、其は「あ」と身体を震わせた。怯えている。無理も無い。俺は其にとって唯一と言って良い、天敵と為り得る能力を持っているのだから。

「言葉は、分かるか?」

 俺がそう尋ねると、其はこくりと頷きを返して来た。

「ならば訊く。この惨状を作り上げたのは、貴様か?」

「……分からない。あたし……あたし、何も……え、あたしが、鷹斗君達を、殺した、の? 何で……どうして……!?」

「落ち着け。貴様が誰を殺そうと、実は俺には何の関係も無い。ただ、確認してみただけだ。貴様が設楽木飛鳥か、それともプロトエンゼルなのかを、な」

 俺がそう言っても、其が落ち着く様子は無かった。肩を震わせすすり泣きを始める其を前に、俺はどう説明してやれば良いか思案する。

「良いか、よく聞け。貴様は──」

 慎重に言葉を選び、俺は事件の一部始終を説明した。


「ちっ、全く。『聖域』の効かない人間が居るなんて、思いもしなかったぜ……運命の奴も、少しは利口になったと見える」

 倒れた男の、笑みの形に吊り上がった口の端から一筋、赤い液体が零れ落ちる。

「設楽木大和として転生したのが貴様の運の尽きだ。人間として生きる内に大部分の力を失ってしまったようだな、プロトエンゼル」

「へへっ……た、確かにそれもあるだろうが……お前さんの、その右手。

 『殺人者の手』、とか言ったな? ははは、反則だぜあんなの。まさか、『聖域』ごと殺されるとは……ごふっ……!」

 血を吐き出しながらも、男は笑っていた。俺の右手を指差し、「はは、全くどっちが化け物なんだか分かりゃしねぇ」などと楽しそうに笑っていた。

 ──化け物なのは男の方だ。俺の右手は本来、触れただけで相手を死に至らしめる力を持っており、それ故に「殺人者の手(マーダーズ・ハンド)」などという呼び名が付けられている。本来それは、即死の効果を持っているはずのものだ。

 だが。男の顔面に右手を置いてなお、男が死ぬことは無かった。仕方なくそのまま近くの木に男の身体を叩き付け、一旦戦闘を強制終了させたのだったが。

「後一回。もう一度お前さんが俺に触れりゃ、俺は死ぬだろうな。ははは、成る程、確かにその力なら、設楽木大和を包んでいた『聖域』も破壊できるかも知れねぇ。

 ……だが、まだ後一つ、解せねぇ点が有る。確かにお前さんの力は強力だが……その右手だけじゃ、『聖域』を探し出すことは出来ないはずだ。どうやって、見つけた?」

「知り合いに、観察者が一人居る。全てを見通せる、観察者の眼に覗けぬモノは無い」

「あー、成る程、観察者、ね……何だ運命の奴、今回はやけに手回しが良いじゃねぇか」

「………」

 本当は、全くの偶然だった。ヒムカイカズラは見ようと思って見た訳ではないし、俺も見つけようと思って見つけ出した訳ではない。殆ど偶然、居合わせたようなものだ。そして俺は、設楽木大和という「かつて人間だったモノ」を、躊躇無く排除した。それが俺の仕事であり、果たすべき役目でもあったからだ。

 ──そしてその時。俺は設楽木大和の命と一緒に、彼の記憶をも奪い取っていた。殺害した相手の記憶を吸収する。それもまた「殺人者の右手」の力の一端であり、それがあるが故に普段俺は出来るだけ右手を使わないようにしているのだが。

 設楽木大和は、自らの死以上に、「それ」の死を望んでいた。

 転生を繰り返し、人間に生まれ変わってなおも苦しみ続ける「アスカ」を──楽にしてやって欲しい、と。

 確かに、俺の右手ならば可能かも知れなかった。

 確かに、そうすることが俺の仕事でもあった。

 だから俺は、設楽木大和に成り済ましている「それ」の前に現れた。

「この分だと既に、設楽木大和の身代わりなんてモノまで用意されて居そうだな……はは、最早俺に、帰る場所は無くなってしまった訳だ」

「貴様だけではない。貴様が創り出した、娘もだ」

「ああそうか。飛鳥も……考えてみれば、アレが一番不幸だったのかも知れんな。人ではない意思を内包しながらも、人として生き、人として成長し……これからだと言う時に、人生を終えてしまう訳か。ああ、何と儚く、哀れな娘なのだろう」

「そう仕向けたのは貴様だろう。貴様は所詮、自分の幸せしか頭に無い、エゴイストだったと言うことだ」

 そうだ。完全な存在である神は、そうであるが故に、不完全な他者に目を向けることが無い。本当の意味で他者を理解することができない。完全であるが故に、不完全な者の気持ちが分からない──それが、神と呼ばれる存在の限界なのだ。

「そうだな。あんたの言葉は正しい。俺は駄目な父親だ。この世に生きる全ての人間を救おうとして、結局自分の娘一人、幸せにしてやれなかった」

「………」

「ああ、もっと早く気付けば良かった。俺は、在り方そのものを間違えていたんだな。人間を殺し、人間を創造し、人間を愛し……俺は、人間になるべきではなかったのだ。元より、そんな資格は無かったのだ。人の気持ちを真に理解することのできない俺に、人間が務まる訳が無かったのだ……」

「そうだな」

 男の言葉に頷いて、

「だが、設楽木飛鳥の父親は貴様だ。他の誰でもない、貴様という人間だ」

「ふっ……暗殺者風情が、嬉しいことを言ってくれる……」

 差し伸べられた手に、俺は右手を添えた。


「そんな。それじゃ、父さんは」

「ああ。もう居ない。俺が、この手で殺した」

「あ……そんな……」

 俺がそう告げた途端に、彼女は力無くへたり込んだ。

「皆……皆、死んじゃった……父さんも、鷹斗君も、愛美ちゃんも……子供達皆……そ、それに瑞希まで……あ、あたし、誰にも」

 誰にも、死んで欲しく無かったのに。小さな声で、飛鳥はそう呟いた。それ以上は言葉にならなかったのか、ぽろぽろと大粒の涙を零し嗚咽する。

 純白の翼を生やした天使が泣きじゃくるその様は、見る者に確かな儚さを伝えて来た。

「一つだけ、皆を生き返らせる方法が無い訳でもない」

 だから、なのだろうか。俺は自ら、その術を彼女に伝えようとしていた。

 ──俺にとって、ここに居る連中はどうでも良い奴らばかりなはずだ。ここに来たのも、「アスカ」を殺し、ヒムカイカズラを連れて帰る為──それで、俺の今日の仕事は終わるはずだった。

「だが、それにはお前の力が必要だ。お前の、人以上にヒトたるモノとしての力がな。

 力を貸してくれるか? 設楽木飛鳥」

 だが、俺の意思とは無関係に、俺の口からはそんな言葉が飛び出していて。

 俺の言葉に、飛鳥は強く頷いていた。

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