(2)観覧車

 最初、「わたし」は一人だった。


 母親は「わたし」と双子の妹を産んですぐに死んだそうだ。


 妹も死んだ。死因は窒息死。

 この世に生を受けながらも、彼女は一度も呼吸しないまま息を引き取ったのだ。

 初めから死んでいたのだと、言ってしまえばそれまでだが。


 父親は「わたし」を虐待した。

 母親が死んだ責任を全て「わたし」に押し付けて、彼は来る日も来る日も「わたし」を痛め付けた。

 今思えば、それが父の生き甲斐だったのだろう。

 「わたし」に憎しみをぶつけることで、彼は押し寄せる絶望の波から自らの身を守ろうとしたんだ。


 ある日、父も死んだ。

 酒に酔って車道に迷い出た所を、後ろから車に撥ねられたらしい。


 こうして、「わたし」は一人になった。


 親戚は誰も「わたし」を預かろうとはしなかった。何でも母親が奇妙な能力を持っていたようで、その性質を「わたし」が受け継いでいるんじゃないかと気味悪がられていたらしい。

 事実、「わたし」には変なモノが見えた。

 もっともそれを変だと認識できたのは、人並みに自我というものを持ち始めた頃だったのだが。


 孤児院で数週間程過ごした後、日向聖(ひむかい ひじり)という人の屋敷に引き取られた。

 彼は「わたし」に日向蔓という名前を与え、「わたし」の能力にも「観察者の眼」という名前を付けてくれた。

 だから「わたし」にとって彼は、育ての親ということになる。


 やがて「わたし」は、同じく屋敷で暮らしていた木頭蒼葉という少女と出逢った。

 彼女も「わたし」と同様、奇妙な能力の持ち主であるらしい。

 そのせいか「わたし」達は直ぐに打ち解け、一緒に遊ぶようになった。


 こうして、「わたし」は二人になった。



 それが。

 「わたし」が日向蔓で、「彼女」が木頭蒼葉であった頃の。

 生涯忘れることは無いであろう、大切な思い出だった。



 だけど「彼女」には、それを捨てることができた。


 完璧に「日向蔓」に成りきる為に、「彼女」は記憶の中の不要な部分を切り捨てたのだ。躊躇うこと無く、いとも簡単に。


 ──何て、潔いのだろうと思った。

 「わたし」には到底、真似できないと思った。


 そしてその時理解したのだ。

 「観察者の眼」の持ち主として本当に相応しかったのは、「わたし」ではなく「彼女」だったのだ──と。



 そう理解し、己が運命に絶望した。


 その時初めて、心底「彼女」を憎いと思った。



 ◇◆◇◆◇



 デートの場所として「わたし」が選んだのは、郊外にある遊園地だった。


 理由は簡単。

 手早く遊べて、それなりに満足できるからだ。


 何しろ時間が無い。「日向蔓」に逢うと決めたからには、出来るだけ早い方が良いだろう。

 今夜にでも早速「彼女」のアパートを訪問するつもりだった。


「そういう訳だから、今日一日付き合ってよね」

「何がそういう訳なのか、俺にはさっぱり分からんのだが。遊園地とヒムカイカズラの間に、一体何の関係があると言うのだ」

「あると言えばある、無いと言えば無いわ。て言うかこれが報酬なんだから、しっかり協力してよね、ダーリン」

「報酬? 待て、一体何の話だ──」


 渋い顔をするサトーの手を引っ張り、「わたし」はジェットコースターに向かって歩き出す。

 乗るのは初めてで、前々から興味のあった乗り物だ。前々から興味のあった人物と乗るのに、これ程相応しいものは無いだろう。

 と言う訳でサトーの身体を座席に固定、逃げられないようにしてから「わたし」も隣の席に座った。


 合図と共に発進。ガタンゴトン、ガタンゴトンと上昇していくジェットコースター。

 加速状態に入る前の段階が一番緊張すると言うが、なるほど、これは確かに──。


「……あ」


 良く考えたら「わたし」、高所恐怖症だったっけ。あー、思い出すの遅かったなこりゃ。どうりで他のアトラクションは乗った記憶があるのに、ジェットコースターだけ無かった訳だ。

 納得し、同時に「わたし」は今更ながらに戦慄する。


 どうやら、人間やめても怖いものは怖いままのようである。


 加速。最高度からの急加速を前に、「わたし」は咄嗟に眼を閉じようとして。

 顔面に吹き付けて来る猛烈な風の圧力に、それを阻まれた。

 駄目だ、地面が果てし無く遠い。その高さに意識が飛びそうになる。

 両眼が白く霞み、やがて何も見えなくなって──。


 一瞬。

 視界の隅に、白い服を着た少女の姿が見えた、ような気がした。


 だけどそれも、すぐに見えなくなって。

 「わたし」の意識は、深い闇の底へと真っ逆様に落ちて行った。



 何が悔しいかって。

 サトーの前で気絶という醜態を晒してしまったことで。

 気が付いたら彼に膝枕で介抱なんかされていて。

 思わずそれに赤面なんかしてしまったことだ。


 あー、これはかなり、屈辱的だ。

 こんな姿、とてもじゃないが「彼女」には見せられない。



 だけど、不思議と、何故か。

 サトーの膝の上は心地よくて、嫌な感じはしなかった。

 だから、しばらく起き上がらなかった。


 するとサトーは困ったような顔をして、早く起きろとばかりに膝を揺するのだ。

 口で言えば良いのに、不器用な彼にはそれができないのだろう。


 その様子が、何だか可笑しくて。

 思わず「わたし」は、笑ってしまった。



 何年か振りに、心の底から笑った気がした。


 楽しい、と。忘れかけていた感情が、胸の奥から染み出して来て。

 今更手遅れだと、「わたし」の中の「木頭蒼葉」が、それを抹殺した。



 だから、笑ったのはほんの数秒の間だけ。

 その数秒間に、「わたし」はこの三年間の全てを込めた。



 ──ああ、本当に。

 楽しかった、な。



 好きな人と観覧車に乗って夕焼け空を眺めるのが、子供の頃からの夢だった。


 その相手がおよそ遊園地に似つかわしくないサトーであると言うのも妙な話だが、この際贅沢は言っていられない。

 願いが叶うのだから、多少のことには眼を瞑らねば。


 二人黙って、徐々に小さくなっていく町並みを見下ろす。高所と言うことで多少の緊張は感じるものの、恐怖は感じなかった。恐らく観覧車には、人の心を和ませる効果があるのだろう。

 外界と完全に遮蔽された空間に、「わたし」達二人だけが居て。夕日に照らされたサトーの横顔を見ているだけで、「わたし」は安心できるのだ。

 彼が確かにそこに居て、「わたし」が確かにここに居る。

 そう、実感することができて。


 不覚にも、涙が零れそうになってしまった。


「キトウアオバ。何だ、俺の顔に何か付いているのか?」

「いや。近くで見ると割と良い男なんだな、と思ってね」

「? 褒めても何も出ないぞ?」

「分かってる。貴方鈍いもんね。言ってみただけだから、気にしないで」


 そこで、再び途切れる会話。だけどこの沈黙は、決して不快ではなかった。

 サトーの口数が少ないのは昔からのことで、むしろその変化の無さが「わたし」を安心させてくれる。

 どんなに長い年月が経過して、お互いの環境が大きく変化したとしても、決して変わらないものがあるのだと。

 そう、実感することができて。


「……屋敷に、戻るつもりは無いのか?」


 やがて彼が訊いて来たのは、そんなつまらないことだった。


「無い。何度も言うけど、わたしは既に死んだはずの人間よ? お墓だってあるんだから。それが今更、どの面下げて戻れると言うの? 聖さんだって、そのことは納得してくれているはずだけど」

「それはそうだが。お前に逢いたがっている人間は大勢居るぞ。お前は過剰な程に明るかったからな、居るだけで屋敷の中が明るくなると、みんなが口を揃えて言っていた」

「うっわ何それ、わたしって照明代わりに使われてた訳? なるほど、道理でいつも廊下の電球が切れていた訳だ」

「茶化すな。俺は真面目な話をしているんだぞ。いいか、お前が思っている程には、世間はお前を見捨ててはいないんだ。お前を必要としている人間は大勢居るんだってこと、忘れないでやってくれ」


 勿論それは俺も含めてのことだ、と。サトーにしては珍しく、気の利いたことを言ってくれた。

 みんな、か。そう言えば屋敷を飛び出して以来、誰にも逢っていない。例外としてサトーと、担当医である有川先生に定期的に逢う位で、それも今回のように用事がある時に限られる。

 基本的に、「わたし」は独りなのだった。当然と言えば当然のことだが。

 死人と付き合える酔狂な奴は、そうは居まい。


 だけど、まあ。

 それでもやっぱり、必要としてくれるのは嬉しかった。


「サトー。みんなに宜しく言っておいてくれないかな? それから、戻れなくてゴメンね、って。多分もう二度と帰れないけど、みんなのこと一生忘れないからって」

「……了解した」


 そうだ、「わたし」は「彼女」とは違う。あの子程簡単に思い出を切り捨てられないし、みっともなくてもそれにしがみ付いて生きていくしか無いんだ。

 だって「わたし」は、他者に依存してしか自分を保つことができない、根無し蔓のような存在なんだから。


 だけどあの子は違う。たとえ一人になったとしても、あの子なら生きていける。自分さえ捨て去ることのできるあの子なら、どんな孤独にも耐えられる筈だ。

 否、耐える必要すら無い。あの子はあの子のままで、「日向蔓」を演じ続けることができるだろう。


 ──けど、それで良いのだろうか。

 空っぽの心に「日向蔓」という客観視することしかできない偽りの人格を詰め込んで、それで「彼女」は幸せなのだろうか。


 自分を保つ為に過去にしがみ付いている「わたし」と、自分を壊してまで現在を生きようとしている「彼女」。確かにサトーの言う通り、「わたし」達は正反対の生き方をしている。

 果たしてどちらの生き方が正しいのだろう。

 それとも、どちらも間違っているのか。


 思考を止めた。

 あまり長く考えていると、脳の血管が破裂してしまう。


「サトー。そう言えば大まかにしか話してなかったわよね、三年前にあった出来事について。事件の一部始終を、知りたくはないかしら?」


 話したくなかったことを、話しておかなければならない気がした。

 知られたくなかったことを、知っていて欲しいと思った。

 自分でも良く分からない、不思議な感情が「わたし」の心を支配していて。

 サトーはそれに、無言で応えた。


「そもそもの始まりは、日向蔓が木頭蒼葉の最期を見てしまったことにある」


 そう、全てはそこから始まったのだ。


 一度生じてしまった綻びは、縫い合わせる暇の無いまま、際限無く広がっていき。



 やがて、全てを喰らい尽くした。



 ◇◆◇◆◇



 見えたのはほんの一瞬。


 だが確かに蒼葉は死んでいて、日向蔓はそう認識した。

 その一刹那にも満たない僅かな時間で、木頭蒼葉の人生は決定してしまった。


 ──「観察者の眼」の恐るべき効力。

 それは、目視した未来を絶対的なものとして固定化してしまう点にある。


 日向蔓は何とかして蒼葉を助けたかった。

 だが、普通の方法で未来を変えることはできない。発想の転換が必要だった。

 そして日向蔓は、程無くしてその結論に辿り着いた。

 単純極まりない、だけど自分達に唯一実現可能と思われる結論に。


 ──簡単な話だ。蒼葉の代わりに、自分が死ねば良い。


 その日から、日向蔓は木頭蒼葉として、木頭蒼葉は日向蔓として振舞うようになった。

 蒼葉は不思議がっていたが、素直に蔓の指示に従ってくれた。

 着る物、髪型、性格に至るまで全て取り替えた。

 「眼」と「糸」の力を組み合わせれば、造作も無いことだった。


 幸いにも、二人が入れ替わったことに気付いた者は誰も居なかった。

 そう、蒼葉の恋人だったサトーですらもだ。

 蒼葉に成り切った日向蔓は、ずっと憧れていた束の間の幸福を手に入れることができた。


 だが、その幸せが長く続くことは無かったのだ。



 運命の日は、あまりにも唐突に訪れた。

 ──「木頭蒼葉」は、「日向蔓」自身の手によって刺し殺された。


 理由は明白で、その時には完全に「日向蔓」となっていた蒼葉が、「木頭蒼葉」となった蔓に嫉妬したから。

 でも現実は、そんな一言で済ませられる程単純なものではなかった。蒼葉はずっと思い悩んでいた。恋人を親友に取られて、けれどその気持ちをどうしても表に出すことができなくて。

 日向蔓とサトー、その両方を想うあまり、蒼葉は自分というものを殺し続けて来たのだ。


 やがて葛藤は煩悶へと変わり、疑惑は絶望へと変わっていった。


 全ては、それに気付けなかった日向蔓の責任だ。悪いのは蒼葉ではない。

 本当に悪いのは、木頭蒼葉の命を助けると言う名目の下、彼女から全てを奪ってしまった日向蔓なのだ。

 そう、日向蔓はずっと、木頭蒼葉に憧れていた。彼女のようになりたいと、目指し続けて来た目標だったのだ。


 そうして目標に辿り着いた途端、日向蔓は木頭蒼葉を疎外するようになっていった。

 せっかく手に入れた幸せを、二度と失いたくはなかったから。


 ──馬鹿な話だ。日向蔓が「木頭蒼葉」になった時点で、死は決定的であったものを。

 その時になってようやく手に入れた仮初の幸せにすがり付いて、一体何の意味があったと言うのだろう。


 結果として、未来視の通りに「木頭蒼葉」は死んだ。


 だが所詮は偽物。運命を欺こうとした罪は重く、こうして無様に生かされ続けている。


 かつて木頭蒼葉が所有していた能力を与えられ、元々日向蔓が持っていた「観察者の眼」を失って、それでもなお。

 未だ死に切ることは無く、虚構と現実の間を彷徨い続けているのだ。



 生れ落ちたのがそもそもの罪で、生き残れたのは罰に過ぎないのだとしたら。

 「わたし」という存在は、これからこの世界で何を為すべきなのだろうか……?

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