#λ「真実の断片──Interlude──」
(1)『蒼葉』
意味の無い夢を見た。
夢の中では、小さな男の子と女の子が喧嘩をしていた。
喧嘩の原因は分からない。
男の子が殴ると、女の子は「わっ」と泣き出してしまう。
でもその後すぐに彼女は石を拾って、それを男の子にぶつけた。
今度は男の子が泣き出してしまう。
二人はなかなか泣き止まず、「わたし」はその様子をじっと見つめていた。
やがて親らしき人が来て、彼らの手を引いて帰って行った。
そこは夕暮れの公園で、「わたし」には見覚えが無い。これから何が起こるのかと「わたし」は成り行きを見守っていたが、それ以上は何も起きなかった。
結局「わたし」は、幼い男女の他愛も無い喧嘩を見せられ続けたことになる。
だからそれは、本当に意味の無い夢だった。
取るに足らない、極めて些細な──だけど「わたし」にとっては、かつて夢見た幼い願望なのだった。
それは。
いつか必ず、そんな日が来ると信じて。
永遠に訪れることの無かった、夢の一幕。
◇◆◇◆◇
朝の日差しを眩しく感じて、「わたし」は目を覚ました。
最近どうも、寝覚めが悪い。
だから「わたし」は、わざと部屋のカーテンを開けたまま寝ることにしている。朝が来ると、自動的に朝日で起こされるという仕組みだ。
まあそのせいで外からは中が丸見えになっているが、特に見られて困るものなどはこの部屋には存在していないので問題無かった。
簡単に洗面と着替えを済ませる。高校の時の制服に袖を通すのは久し振りだ。卒業してから二、三年位経つだろうか。久しく着ていなかったのだが、不思議とサイズはぴったり合った──誤解の無いよう言っておくが、「わたし」が全く成長していない訳ではない。制服の方が「わたし」に合わせてサイズを変えたんだ。うん、きっとそうに違いない。胸だってほら、人並みには出て来始めているじゃないか……。
そこまで考えた所で、空しくなって「わたし」は思考を止めた。
下らないことを考えている場合ではない。待ち合わせの時刻に遅れては困るので、早々にアパートを出発することにした。
「……っ……」
階段を一段降りる度に感じる、立ち眩みのような軽い衝動。毎朝の出来事のはずなのに、未だに慣れることが無い。
もっとも眩暈は一瞬で、直ぐに解放されはするのだが。
どうしようも無く感じてしまう、この異質感は何なのだろう。
「お腹、空いたな」
朝食を抜くのは、やはり無理があったのだろうか。腹の虫はぐーぐー鳴りっぱなしで収まることが無く、「わたし」はきょろきょろと辺りを見回した。
アパートの周辺に人影は無い。
残念ながら、食糧(エサ)らしきものは見当たらなかった。
「この際、人間じゃなくても良いんだけどな。犬でも猫でも……鼠はちょっと、物足りないかも知れないけど」
思わず呟き、己の人間離れした思考に苦笑する。
自分が人間ではないのだと思い知ってしまう瞬間、「わたし」はとりあえず笑うことにしている。
笑わなければ、とてもやっていけないと思うからだ。
「根無し蔓、か」
旧友の言葉を思い出し、「わたし」は青く澄み渡った朝空を見上げた。
「彼女」も「わたし」と同じように今、この青空を眺めているのだろうか。
そうだといいな、と思いながら。
「わたし」は、町の中心部に向かって歩き出していた。
根無し蔓(かずら)、という植物が居る。
かの存在は自分独りでは生きていけない。根を持たない為、自らの力では大地から養分を吸い上げることができず、また光合成するだけの葉緑素も所有していない。
故に彼らは他の植物の幹に寄生し、そこから栄養分を吸収するのだ。そして遂には、宿主を枯らしてしまう。
彼らはただ寄生するだけでは飽き足らず、貪欲に宿主を死へと追い詰めていくのだ。そこには明確な殺意が存在するが、そのことに誰も気付いてはいない。
きっと根無し蔓自身でさえ、知らずに生きているのだろう。
弱肉強食、自然の摂理などという妄言に惑わされ、真実を見失っているのだ。
生きる為に仕方なく栄養分を拝借しているのなら、何も枯らす必要は無い。宿主が死ねば、根無し蔓もまた滅びる。
自身を破滅に追い込む程の価値を、彼らは殺害という行為に見出しているのだ。だからこそ、彼らの存在に意味は無い。
自身を含む全ての存在に害を与えて、それでも生き続ける意味があるのか。
「わたし」には分からないし、恐らくこの先も分かることは無いのだろう。
だからどうと、言うことも無い。
──彼らが根無し蔓で、「わたし」が「木頭蒼葉(きとう あおば)」である以上、それは仕方の無いことなのだ。
だから、それについて言及する意味は無く。
強いて言うなら、「わたし」が彼らと似たような性質を持っているという、他愛の無い事実について述べる位で。
そのことすらも、大した意味を持ってはいない。
◇◆◇◆◇
待ち合わせ場所として指定されたのは、通い慣れた一軒の喫茶店だった。
喫茶店「Choko De Chip」。
何十年と続く老舗の喫茶店で、今時珍しい赤レンガで造られている。茶色を基調とした内装はシックな感じに整えられており、前時代的な雰囲気が漂っていた。
ちりん。ドアノブに括り付けられた鈴を一回鳴らすと、すぐにウェイトレスが「わたし」を迎えに出て来た。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「はい。……ああでも、もうすぐ連れが来ると思いますので、それまで待たせて頂いても宜しいでしょうか?」
「分かりました。では、こちらのお席にどうぞ」
お決まりの会話を交わした後、「わたし」は窓際の席に案内された。
店内に客はまばらで、あまり繁盛しているようには見えない。もっともそれは、今が中途半端な時間だからなのだろうが。
人込みでは理性を保てる自信が無いので、都合が良いと言えなくもない。
それにしても美味しそうなウェイトレスだ。肉付きはそれ程良いとは言えないが、店内を歩くその出で立ちは颯爽としていて、そそるものがある。
「わたし」の場合は主に食欲だが、男性客の中には情欲を掻き立てられる者も居ることだろう。
「知らなかった。お前に同性を愛する気色があったとはな」
しばらくの間彼女に見入っていた「わたし」を我に返らせたのは、そんな失礼極まりない物言いだった。
待ち合わせの相手が、テーブルを挟んだ向かいの席に座っているのが見える。
一体いつからそこに居たのだろう、まるで気配を感じなかったのだが。
「おはよう、キトウアオバ。遅くなって済まなかった」
言葉こそ謝罪の形を取ってはいるが、無表情なその男の顔からは感情らしきものを一切感じ取ることができない。
いつものこととはいえ、抑揚の無い声でフルネームを呼ばれることにも抵抗がある。
つくづくこの男とは、相性が悪いらしい。
大体、「わたし」は彼の本名を知らないのだ。そんな奴に何故呼び捨てにされなければならないのか。
「おはよう、サトー。謝らなくても良いわよ、わたしだって今来たばかりなんだから。それより訂正しておかなければならないのは、わたしに同性愛の趣味は無いということよ」
「そうか。俺はてっきり、お前が遂に本性を現したものとばかり思っていたんだがな」
本気とも冗談とも取れない口調でサトーは言って、通り掛かったウェイトレスにモーニングセットを注文した。
ついでに「わたし」も何にするか訊かれたが、
「それじゃあ、お水を下さい」
と応えると、ウェイトレスは笑って水の入ったグラスを置いて行った。
「お前いつも水を注文しているのか? 店員に変な客と思われてるぞ、絶対」
「いいのいいの。どうせコーヒーとか頼んだってお金と限りある地球資源の無駄遣いになるんだし、お水で充分よ。それに、わたしの分まで貴方が払ってくれるんでしょう? 何だか借り作るみたいで嫌じゃない、それって」
「ふむ。別に朝食代くらいで貸しとは思わないのだが」
釈然としない様子で、サトーは運ばれて来たコーヒーカップに口を付ける。
と、何かを思い出したかのように、急に顔を上げて来た。
「そうか。お前は、もう」
「ええ。まともな生物体じゃないから、普通の食事から栄養分を摂取することはできないのよ。……わざとやってんのかと思ったけど、まさか素で忘れていたとはね」
苦笑して、「わたし」は水を一口飲んだ。途端に猛烈な吐き気が込み上がって来て、堪らずグラスの中に戻す。
鮮血で赤く染まったグラスを置き、「わたし」は「ほらね」と応えてみせた。
「ご覧の通り。ただの水でさえこの有様なんだから、固形物なんか飲み込もうものならもう大変。腐り切った内臓が破裂して、そこら中に血溜まりができるでしょうね」
そう、今の「わたし」には他の生物体を喰らい、消化吸収する力が無い。
だから、別の方法でエネルギーを補給する必要がある訳だ。
「キトウアオバ。良くそんな状態で、今まで生きて来られたな。運命に見捨てられ、既に死んでいるはずのお前が……奇跡としか言いようが無い」
「止してよ。こんなのが奇跡だなんて、あの子に言ったら笑われちゃうわ。わたしのはただ単に、他の生命を奪っているだけ。こんな風にして、ね」
「──っ──!?」
指先から伸びた細い糸が、サトーの心臓を貫いた。痛みは感じないはずだが、異物感は拭えないのだろう。自身の胸を押さえ、苦しげな吐息を漏らしている。
ああそう言えば、常人にはこの糸が見えないんだっけ。
目視できるのは使い手であるこの「わたし」と「彼女」だけ。サトーには何が起きているのかすら分からないのだ。
「『高貴なる線形芸術(ノーブル・ラインアート)』については、貴方も知っているわよね? これはその応用技。幻像の糸を通して、他者から直接エネルギー──端的な言い方をすれば魂かな──を吸い取るの。こうすればわたしでも貴方達と同じように食事を摂ることができるわ。もっともわたしの場合は、相手が生きていなければ意味が無いんだけどね。
ああ、苦しい? ごめんね、お腹空いてたから多めに吸っちゃった」
言うだけ言って、ようやく糸から解放してやる。
サトーはそれでもしばらく胸を押さえていたが、やがて落ち着いたのか、手を離した。
その様子を見ながら、「わたし」はサトーの魂を味わっていた。
決して不味くはないが、特に美味いという訳でもない。要するに、ごくごく普通の平凡な味だった。
期待していたような異次元の味ではなかったのが少し残念だ。折角今まで朝ご飯を我慢して来たというのに、これでは努力が報われないと言うもの。
こんなことなら、ウェイトレスの方を先に食べておくべきだったのかも知れない。
「キトウアオバ。お前はいつも、こんなことをしているのか」
「そうよ、悪い? 誰だってお腹が空いたら他の生物を食べるでしょう? わたしはその対象が肉体じゃなくて魂というだけ、貴方達と何ら変わらないわ。
……そうね、でも。食べ過ぎて殺してしまった時は、流石に罪悪感を感じたわ。だけど仕方が無いと諦めて、今まで食べ続けて来たの。こんな身体になっちゃったけど、それでも死にたくはないからね。
信じられる、サトー? わたしね、今、呼吸さえしていないのよ。本当に、死んでいるのと何も変わらないの。それでも生きたいと思ってしまうのは……変なのかな?」
何で「わたし」はこんな奴に、独白なんかしているんだろう。
そう疑問に思いながらも尋ねるとサトーは、
「さあ。それらの是非までは、俺には分からんが。とりあえず分かることは、お前がヒムカイカズラと真逆の人生を歩んでいると言うことだ」
と、実に彼らしい応えを返してくれた。
偽りの無い、ただ思ったことを真っ直ぐ言葉にしたような、そんな言い方。
そこには何の感情も込められては居らず、残酷な真実だけが「わたし」の胸に突き刺さる。
「日向蔓(ひむかい かずら)」。
それは木頭蒼葉の旧友にして、今では決して逢うことのできない人物の名前だった。
「あの子、元気にしてる?」
そんなどうでも良い質問が、「わたし」の口を突いて出た。
逢えもしない人物の身を案ずるなんて、何て愚考。そう思いながらも、尋ねずには居られなかった。
「日向蔓」は恐らく、「わたし」のことなんか覚えていないはずだ。
だからこそ「わたし」がこうして未だに存命できている訳だし、それで良いとも思っている。
でも「わたし」は「日向蔓」のことを忘れることができない。忘れたくとも、忘れられないのだ。
それはやはり、「彼女」が「わたし」にとって、特別な存在だからなのだろう。
「ああ。お前に比べたら遥かに健康だ。あくまで身体的には、だがな」
「身体的には……? つまり、精神が病んでいるということ?」
「ああ。先月『リセット』を確認した。俺が見ただけでも、もう四回目になる」
サトーの口からもたらされた事実。それは、「わたし」の予想を遥かに超えるものだった。
リセット、つまりは取り消し。今まで歩んで来た人生そのものの否定にして、究極の自己防衛反応。それを「彼女」は、少なくとも四回以上経験していると言うのか。
「そんな馬鹿な……積み重ねて来た人生を否定するってことは、それによって形成される人格を破壊することと同じなのよ? 予め複数の人格が用意されていると言うのならともかく、たった一つしか無い人格を失ってしまったら、それはもう人間とは呼べないわ。廃人以下、何しろ自己否定の塊なんだから、生きて居られるはずも無い。肉体が生きることを放棄してしまう可能性だってある。なのにあの子は、それを四回も為し得たと言うの?」
「信じられない気持ちも分かるがな。ヒムカイカズラの場合、どうやら人格破壊による後遺症は残っていないようなのだ。記憶にも整合性が取れている。いや、むしろ以前よりも鮮明になっている節すらある」
人生のリセットによる記憶の鮮明化。サトーから告げられたその言葉は矛盾に満ちていて、そこにこそ「日向蔓」の秘密が隠されているような気がした。つまり、「彼女」は。
「リセットする度に、自己を客観視している……主観を取り除いた分、物事をよりクリアに見ることができるようになる訳か」
確かにそう考えれば、四度に及ぶリセットに耐えられたのにも合点がいく。
リセットの原因となった出来事ですら他人事として片付けられるとしたら、後には何の障害も残らない。
「彼女」はそうやって、今まで耐えて来たのだろう。本来見ることのできない物事を目視する能力──「観察者の眼(オブザーバーズ・アイ)」の持ち主、「日向蔓」として。
それがどれ程の苦痛を伴うものであったか、想像するに難くはない。
「だが、それでも確実にヒムカイカズラの心は壊れていく。否、ヒムカイカズラとしての心が、と言うべきか。何しろ自己の客観化を四度以上行っているんだ。精神は肉体から離れていく一方で、やがて両者は完全に乖離してしまうことだろう」
「つまり、いずれあの子は死ぬのね。たとえ貴方が、あの子を殺さなかったとしても」
「ああ。俺ではヒムカイカズラを真の意味で救うことはできない。だが、お前ならばできるかも知れない……かつて日向蔓だった、お前ならば」
「…………」
今更、その話を持ち出されるとは思わなかった。珍しくサトーの方から呼び出しがあったかと思えば、用件はそんなことか。
やはりサトーにとって重要なのは「彼女」の方で、「わたし」はオマケみたいなものなのだろう。
何となく腹が立つ。良くもまあそんな理由で、呼び出してくれたものだ。
こっちは今を生きるのに必死で、他人のことを考える余裕なんて無いと言うのに。
「あの子に逢えと言うの? 無茶を言わないでよ。貴方、わたしに死ねって言うの?」
「無茶は承知の上だ。だが、どうしてもお前の力が必要なんだ」
確かにサトーより「わたし」の方が、「日向蔓」に近い位置には居る。逢えば何らかの手立てを思い付けるかも知れない──が、「彼女」にとって「わたし」は既に死んだ存在だ。
「日向蔓」が「木頭蒼葉」の末路を見てしまった時点で、二人の関係は破綻していたのだ。それが、今更逢えるものか。
紆余曲折の果てに、ようやく手に入れたこの平穏を「わたし」は失いたくない。そしてその気持ちは、「彼女」も同じはずだ。
「生れ落ちたのがそもそもの罪、生き残れたのは罰に過ぎない。そんな二人が出逢ってしまったから、こんな痛みを味わうことになったのよ……だからこそ、別れることになった。
サトー、貴方はあの子を救いたいと言うけれど。もしも、救いなんて初めから用意されて居なかったとしたら、それは」
「その時は、俺が彼女を殺すまでだ」
参った。どうやらこの男の頭の中には、現状維持(ゲンジツトウヒ)という選択肢は無いらしい。
まあ、元恋人が壊れていく様を毎日のように見せられ続けたら、何とかしたいと思うのも無理からぬことではあるのだろうが。
それにしたって、こんな真剣な顔のサトーを見るのは初めてで面食らってしまう。
それだけ「彼女」の容態が深刻と言うことなのだろうが。
「……どうなっても知らないわよ。責任は、取らないからね」
サトーの勢いに押されて渋々「わたし」が承諾すると、彼は言葉を発することなく、ただ黙って頷いてみせた。
当の昔に覚悟はできている、と。
そう言いたげな表情だった。
こうして。
肉体を病んでいる「木頭蒼葉」は、精神を病んでいる「日向蔓」に逢うことになった。
それは酷く懐かしく、絶対に無いと思い込んでいた再会。
足してやっと一人前になる、不完全な二人の再会だった。
その代償は、あまりにも大きく。
もしかしたら、「わたし」は消えてなくなるかも知れない。
──三年前、「木頭蒼葉」がそうなるはずだったように。
だから「わたし」は、先に報酬を貰うことにした。
日向蔓として歩むはずだった、この三年間の縮図。
それを、サトーに払って貰うことにした。
制服を着て来たのは正解だった。
おかげで心身共に、あの頃に戻ることができる。
片思いの相手に想いを告げる暇すら無く、ただ生き急いでいたあの時代に。
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