番外編

#CAT「ある平和な日常──One Life Style──」

「にゃー」


 簡単に状況を説明すると。


「にゃー」


 朝起きたら、


「みゃー?」


 猫になっていた。



 鏡に映った、変わり果てた自分の姿を見て。


 ほんの少しだけだが、泣きたい気持ちになった。



 ◇◆◇◆◇



 違う。本当に猫になった訳じゃない。


 単に猫の目線になっているだけで、本来の自分は「日向蔓(ひむかい かずら)」という人間としての個体を維持している。

 そう、「わたし」は何も変わってなどいない。

 こんなにも容易く、運命から脱却できる訳が無いのだ。


 「わたし」には「観察者の眼」という特殊な能力が備わっている。

 それは一言で言えば「本来日向蔓には見えないはずのモノを見る力」──今回の場合は、その力が特異的に作用したのだろう。


 すなわち。本来日向蔓が目にすることのできない、猫の視点から見た世界を「観察者の眼」は「わたし」に見せたことになる──。


 思考がそこまで及んだ所で、不意に部屋の戸が開いた。

 恐らくはこの部屋の主人なのだろう、十歳前後と思しき女の子が入って来る。


「みーちゃんっ。今日は何して遊ぼっかー?」


 満面の笑顔を浮かべて、彼女は「わたし」を抱き上げた。


「にゃー」


 と、猫としての「わたし」が鳴き声を上げる。

 猫の目線を手に入れても、「にゃー」はやはり「にゃー」としか聞こえなかった。


「そーだ、公園に行こー!」


 少女は言って、「わたし」はそれに従った──身体の自由が利かないのだから、従わない訳にもいかなかった。

 この目の持ち主はあくまで猫の「みーちゃん」であり、「わたし」は単に視点を共有させて貰っているだけに過ぎないのだから。



 自転車のカゴに乗せられる。

 お世辞にも乗り心地が良いとは言えない網の中で、「みーちゃん」は一生懸命ペダルを漕ぐ飼い主の姿をじっと見上げていた。



 ◇◆◇◆◇



 砂場で女の子が山を作る様子を、「わたし」は滑り台の上からじっと観察していた。


 黙々と砂を集める彼女の眼には、一匹のちっぽけな猫の姿などもはや映ってはいないのだろう。

 こちらとしては好都合だ。正直、子供の相手は疲れる。


 「みーちゃん」も「わたし」と同じことを考えていたのだろうか。

 滑り台から音も無く飛び降り、そのまますたすたと公園を後にする。


 目指した先は、川原だった。


「よぉクロ公。今日は大物が釣れたぜ、ほら」


 何人かの釣り人がそう言って、「わたし」に向かって小魚を放って来た。

 「にゃー」とお礼を言ってそれらに喰らい付く「みーちゃん」。

 なるほど、ここは「みーちゃん」の餌場なのか。恐らく彼女はいつもこうして、釣り人のお零れを頂いているのだろう。


 程無くして全ての魚を平らげた「みーちゃん」は、今度は川原から少し離れた草むらの方へと歩き出した。

 そこには一体何があると言うのだろう。少し緊張しながら、「わたし」が見守っていると。


「にゃー」「にゃー」「にゃー」


 いくつもの声が、「わたし」達を出迎えてくれた。

 「みーちゃん」そっくりの黒い子猫が三匹、段ボールから顔を覗かせて鳴いている。


 ──お母さんだったんだ。


 恐らくこのことは誰も知らないだろう。

 知ればあの少女のこと、真っ先に飛んで来るに決まっている。

 だからこそ「みーちゃん」は、こんな場所に隠れて出産したんだ──自分の子供達を、人間達の好奇の視線に晒したくは無かったのだろう。


「…………」


 何か、秘密の現場を覗いてしまっているような気がして。

 少し、居心地の悪さを感じた。


 子猫達に乳を与え始める親猫「みーちゃん」。

 母乳を与える感覚までは「わたし」には伝わって来ないが、それはきっと心地よいものなのだろう。

 「みーちゃん」の瞳が、ゆっくりと閉じていく──。



 ◇◆◇◆◇



 何分間かまどろんでいた後、「みーちゃん」はふと身を起こした。

 警戒するように周囲を見回し、誰かが近付いて来るのを確認してそっと段ボールから抜け出す。


 ──見覚えのある黒服の青年が、その「みーちゃん」の頭を撫でた。


「差し入れ、持って来たんだが」


 そう言って、彼はスーパーの包みを開く。

 出て来たのは牛乳と何枚かのアジの干物、そしてカンパンだった。


「遠慮無く食え。俺は要らないから」


 牛乳とアジの干物を差し出し、自身はカンパンをちびちびと齧り始める青年。

 相変わらずと言うか何と言うか、自分の食事に気を配らない所は実に彼らしいと思う。


 母乳を吸われてお腹が減っていたのか、「みーちゃん」はまず牛乳をちろちろと舐め始めた。


「栄養付けて、美味い乳をたんと飲ませてやるんだぞ。子供達を護れるのは、お前だけなんだからな──かずら」

「にゃー」

「よしよし。良い返事だ」


 「みーちゃん」の頭を撫でる、青年の顔には微笑が浮かんでいた。


 ──それは、初めて見た彼の笑顔だったはずだが。

 何故か「わたし」はそれを、懐かしく感じていた。



 こういうのを既視感と言うのだろうか。

 「わたし」には良く分からない。

 だってそれは、まるで白昼夢のように淡く、融け消えそうな程に柔らかな、今まで体験したことの無い、不思議な感覚だったのだから。



 ──ああ、きっと。


 こういうのを平和って言うんだろうな。



 ◇◆◇◆◇



 平和な夢は、呆気無く終わりを告げた。


 そこは「わたし」の部屋。

 鏡に映るは、日向蔓の姿のみ。


「終わっちゃった」


 ぽつりと呟き、「わたし」は窓の外を見た。



 アパートの塀の上に、一匹の黒猫が寝そべっていて。


 幸せそうに、夢の続きを見ていた。




 了

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