#∞「飛ぶ夢をしばらく見ない」
(1)根無し蔓
髪を切った。
特に理由は無い──ただ鬱陶しかったと言うだけ。
失恋したのかと何人かに心配されたけど、そんな事実は無い。そもそも「わたし」には、恋をした記憶が無い。だから、失ったものなど何も無い筈だった。
髪を切るという行為はごく自然な行為である筈だ。伸ばし過ぎて、鬱陶しく感じたから切った。ただそれだけのことである筈。其処に因果は存在しない。
──強いて言うなら。
「わたし」は、それまで「わたし」のものであった髪(モノ)を、自らの意思で手放したのだ。
でもそれで「わたし」の中身が変わる訳でもなく、「わたし」は「わたし」として、これまで通りに生きていくだけだ。
だから、髪を切る行為に意味は無く、結果として何が変わる訳でもない。皆の心配は杞憂に過ぎない。きっと、多分。だから、そう。
「わたし」は何も、失ってはいない。
初めから何も無かったのだから、何を畏れることも無い。
「………」
根無し蔓(かずら)、という植物が居る。
かの存在は自分独りでは生きていけない。根を持たない為、自らの力では大地から養分を吸い上げることができず、また光合成するだけの葉緑素も所有していない。故に彼らは他の植物の幹に寄生し、其処から栄養分を吸収するのだ。そして遂には、宿主を枯らしてしまう。彼らはただ寄生するだけでは飽き足らず、貪欲に宿主を死へと追い詰めていくのだ。其処には明確な殺意が存在するが、そのことに誰も気付いてはいない。きっと根無し蔓自身でさえ、知らずに生きているのだろう。弱肉強食、自然の摂理などという妄言に惑わされ、真実を見失っているのだ。
生きる為に仕方なく栄養分を拝借しているのなら、何も枯らす必要は無い。宿主が死ねば、根無し蔓もまた滅びる。自身を破滅に追い込む程の価値を、彼らは殺害という行為に見出しているのだ。だからこそ、彼らの存在に意味は無い。
自身を含む全ての存在に害を与えて、それでも生き続ける意味があるのか。「わたし」には分からないし、恐らくこの先も分かることは無いのだろう。
だからどうと、言うことも無い。
強いて言うなら、「わたし」が彼らと同じ名前を持っているという、他愛の無い事実について述べる位で。
それすらも、大した意味を持ってはいない。
日向蔓(ひむかい かずら)。それが現在の「わたし」の名前だ。
「………」
ごく普通の家庭の下で育ち、ごく普通の教育を受け、ごく普通に成長していく。それが「わたし」の人生の全てだった。ドラマのような特別なイベントが起きる訳でもない、平凡過ぎる位に平凡な毎日の繰り返し。だけど「わたし」にとってはそれが全てだったから、日常的に起こり得る出来事以外を考えることはできなかった。
だから今もこうして、無心に折り紙を折っている。今日は休日なので大学には行かない。知り合いが遊びに行こうと誘ってくれたけど、用事があるからと言って断った。人込みは苦手だ。奇妙なモノが、いつもよりも多く見えてしまう。
でも、こうして和紙を折り続けている間だけは、「わたし」は何かを見ずに済んだ。別にそれが嫌な訳ではなく、苦手なだけだったのだけど。
「わたし」は鶴を折った。鶴以外の折り方を「わたし」は知らない。だから鶴を折った。いつものように。そう、これも平凡な毎日の繰り返しの一つ。
何羽か折って、それらを部屋の隅に投げ捨てた後。台所に行って喉を潤した。飽きた。水道の蛇口を捻ったままにして、しばし水の流れを観察してみる。このまま放置している限り、水の流れが止まることは無いのだろう。でも、実際に確認したことは無い。もしかしたら、ある一瞬を境に水は流れなくなるのではないだろうか。だから「わたし」はしばらく見ていて、直ぐにそれにも飽きた。
「わたし」の人生は、飽きることの連続だった。
まるで飽きることが悪いことであるかのように人は言う。それが「わたし」には不思議でならなかった。飽きることは日常生活の一部分に過ぎないと言うのに。彼らは、彼ら自身の日常を否定しているのだろうか。
日常とは、そんなに質の悪いものなのだろうか。
「………」
人が死んだ。
知っている人じゃない。「わたし」が殺した訳でもない。「わたし」はただ、夕飯に何を作ろうか考えながら部屋の掃除をしていただけだ。
そんな時に、ふとそんなモノが見えた。ただ、それだけの話。
死んだのは十歳位の女の子だった。熊の縫いぐるみを抱いたその子は、何故か檻の中に居た。彼女は独りだった。誰も見にやっては来ない。ただ独り取り残された少女は、縫いぐるみの中に隠しておいた短剣を取り出した。
胸を一突き。それで、女の子の短い人生は終わっていた。
でも彼女の死に顔は安らかで、其処で映像が途切れていた。
情報が少な過ぎて、何が起こったのか良く分からない。いつものことだった。だから「わたし」は「彼ら」に対して、何の感慨も抱けずに居る。
恐らく「わたし」程多くの人の死を見た者は居ないだろう。「わたし」にとって、死は日常そのものだった。
部屋の掃除は割合早く終了したので、少し仮眠を取ることにした。
白い天井を見上げていると、また何か奇妙なモノが見えてしまいそうな気がして。「わたし」は目を閉じ、意識を闇に委ねた。
「………」
夢を見た。
いや、夢かどうか、正確な所は分からない。もしかしたら、また例のモノが見えているだけなのかも知れない。
でも、夢かも知れないのだ。だから「わたし」はそういう時、夢だと思うことにしている。そう、「わたし」は夢を見たんだ。
夢の中では、小さな男の子と女の子が喧嘩をしていた。男の子が殴ると、女の子は「わっ」と泣き出す。でもその後直ぐに石をぶつけて、今度は男の子が泣き出した。二人はなかなか泣き止まない。やがて親らしき人が来て、彼らの手を引いて帰って行った。
其処は夕暮れの公園だった。見覚えは無い。これから何が起こるのかと「わたし」は成り行きを見守っていたが、それ以上は何も起きなかった。結局「わたし」は、幼い男女の他愛も無い喧嘩を見せられ続けたことになる。
少し、拍子抜けした。今まで「わたし」が見て来たモノに大した意味は無かったけれど、此処まで日常的な一コマを見せられたのは初めてだ。落胆とは微妙に異なる、不思議な感情が胸の奥に広がっていくのを感じる。
これは夢だという、漠たる実感。そうだ「わたし」は、今まで夢を見たことが無かった。いや、変なモノを見せられ続けて、夢を夢だと認識する余裕が無かったのだ。
こんな気持ちになったのは、中学一年生の頃初潮を経験した時以来かも知れない。
きっと「わたし」は、分からなくなったんだろう。何が現実で、何が幻想なのか。急に判別できなくなって、戸惑っていたんだと思う。
だから、か。夢はなかなか覚めず、「わたし」はしばらく独りでブランコを漕いでいた。
「………」
目を開けると、視界一杯に手の平が映った。男の人の手だ。それが「わたし」の顔を覆おうとして、途中で止まっている。つまり、触れてはいない。
それだけで、「わたし」が現実に存在している証明となる。
「おはよう、ヒムカイカズラ。良く、眠っていたね」
手が引っ込むと、その手に隠されていた男の人の顔が見えた。見覚えがあると言えばあるし、無いと言えば無い。空気のような存在感で、無表情に彼は起床の挨拶をした。
「おはようございます。……貴方、誰でしたっけ」
「俺の本名を君に教える訳にはいかない。偽名で良いのなら、俺は佐藤だ」
「サトー」
彼の名前を復唱する。そう、彼はサトー。「わたし」を殺しに来た男の人だ。本名は知らないし、興味も無い。関心があるとすれば何故あの時彼が「わたし」を殺さなかったのかという一点についてだけだけど。訊けばきっとその場で殺されると思って、今まで訊いてはいなかった。幾ら意味の無い生であるとはいえ、そんな些細な疑問の為に命を落としたくは無い。それに、サトーは此処に居る。訊かなくても、いずれ彼の方から明かしてくれることだろう。そして多分その時が、「わたし」の命日となる筈だ。
「後少し目覚めが遅れていたなら、君を殺せていたんだが」
「そう。それは、残念ですね」
彼の言うことは事実だ。本当に、「わたし」があのまま夢の世界を漂っていたなら、彼は躊躇うこと無く「わたし」の命を絶っていたことだろう。何となく分かる。サトーは純粋な殺人者であり、より円滑かつ確実な手段を用いて殺しを行うタイプだ。だから彼は、絶好の機会があるなら、必ずそれをモノにする。今回「わたし」が助かったのは、単純に運が良かったからとしか言い様が無い。
「残念だ。だが、これで君を殺す機会が費えた訳ではない。いつかまた必ず機会は巡って来て、その時こそ俺は君を殺すことだろう」
予言めいた口調からは、彼の殺しに対する絶対の自信が窺える。何故其処まで言い切れるのか、「わたし」には不思議でならなかったが。
その言葉が偽りの無い真実であると、頭の隅では理解していた。
そうだ。「わたし」はきっと、彼に殺される。そんなことは彼が「わたし」の前に現れた時に既に──いや。彼が現れるずっと前から、分かっていたことだった。
「わたし」には、本来見ることができない筈のモノを見ることのできる眼が有る。生まれついてのものなのか、生まれた後に移植されたものなのかは分からない。とにかく、「わたし」には変なモノが見えた。奇妙な造形をした物体を目撃するのは日常茶飯事のことで。時々、それよりも更に変なモノを見ることがあった。例えばそれは、本来鏡に映さなければ見えない筈の自分自身の姿。それも現在だけではなく、過去や未来の自分を見ることもある。或いは、自分とは全く関係の無い事柄や、行った覚えの無い場所等々……「本来日向蔓には見えない筈のモノ」であれば特に制限は無いのか、「わたし」には様々な種類のモノが見えた。
それも本人の意思とは無関係に、無秩序に、理不尽に、見せ付けられて来たのだ。
だから、当然知っていた。
──「わたし」がどのような最期を迎えるのか、ということも。
知った瞬間から、死というモノが怖くなくなった。
結末が分かっているのだから、何を畏れることも無く。
直に死ぬと分かっているのだから、生に執着することは無く努力もしなかった。
人並みに生き、人並みに死ぬ。
人並みに生きることさえ叶わなかった人達を、「わたし」は大勢目にして来た。だからきっと、「わたし」は幸せな方なのだろうと思う。大した意味の無い人生であったにしろ、それなりに生きた感触は残っているのだから。
後はただ、いずれ訪れるであろう死の瞬間を待つだけだ。
だけど、不思議なことに。
「その瞬間」は、なかなか訪れてはくれなかった。
何故生きているのか。
──何故生かされているのか。
意味の無い人生に、意味のある死が与えられるとでも言うのだろうか……?
そう言えば。
どうして「わたし」達は、一緒に住んでいるのだろう。
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