第2話<失敗作>

 復興歴301年8月9日08時17分

 太陽系第三惑星〈地球〉 衛星〈月〉 


 太陽の光を受けて海原のように輝く灰色の大地。

 漆黒の空の境目を緩やかな月の地平線が描き出す無音の世界。

 そこから見上げれば、漆黒の闇の中に浮かぶ鮮やかな青い球体が目に入る。

 闇と無音の空間においてさえ、見る者に息吹さえ感じさせる母なる惑星。

 人類が生まれた惑星、地球。

 緑豊かな地上では無数の動植物がその命を謳歌し、青い海には大小様々な魚が遊弋する、生命と酸素に溢れる宇宙でただ一つの楽園。

 宇宙で暮らす、ほとんどの者たちにとって地球は憧れの場所である。

 だが、その絶対に守るべき唯一無二の惑星は、人類の仇敵により、誰もが安全に住めるような惑星ではない。

 だから、この時代に生まれてから死ぬまでの間で、一度も兵役を経験せずに生涯を終えることは、非常に希なことだ。

 そのような者は何かしらの特権的立場の者か、何かしらの不正を働いた者、そして兵役不適格の烙印を押された者たちだけだ。

 人々は課せられた兵役の義務を果たすのが、この時代の普通だった。

 いま地球には、約30億人以上の人々が再緑化リ・テラフォーミングされた大地に住んでいる。

 それでも地球は人類が生存圏を火星まで広げた、この時代に置いてさえも人類最大の繁殖地であり、同時に人類が持ち得る最大の食料生産地でもあった。

 火星を地球化テラフォーミングし、月面と衛星軌道上にコロニーを作り上げた今ですら――いや、だからこそ、地球という宝物はこの世にただ一つのものだということを強く認識させた。

 生命の楽園――地球を表す最も有名な代名詞。

 そんな人類の楽園を、生命が存在しない月の砂漠から一人の少年がヘルメットのバイザー越しに見上げていた。

 幼少の頃から、地球に関する図鑑や資料映像は説明文やナレーションを諳んじてしまうほどに繰り返し見た。

 それらはもう彼の瞼に焼き付いていると言ってもいい。

 あの青い星を見る度に焦燥にも似たものを胸の奥に感じる。

 少年が本当の自然を知らないわけではない。

 月の裏側から数十万キロ先には、少年が暮らす赤い惑星がある。

 巨大な赤い山脈と厳しい渓谷に覆われた大地。

 三百年の時を経て作り上げた、人類第二の居住可能惑星にして、地球防衛に任ずる巨大な砦――火星。

 生存可能な惑星が星系内に二つあっても、人類の存続すら危ぶまれている時代。

 今や世界のほぼ全ての大人たちは何らかの形で、種としての人類を絶やさぬ為に生きているといっても過言ではない。

 無論、少年もその一員となる。

 否。本人の希望とは関係なく、2年も前にそういう立場になった。

「護るべきもの、か……」

 少年は答えを求めず、ただ力無く、意味もなく呟いた。

 どうしても、実感が湧かなかった。

 まるで数学の方程式を暗記したようにしか感じない。

 さして長くない、これまでの人生に忘れがたいような楽しい思い出や美しい記憶はない。

 人類滅亡の危機と叫ばれる時代に身を置きながらも、焦燥に駆られるほど守りたいと思う人もいない。

 だけど、地球は守らなければならない。

 個人の意志など関係なく、少年の義務として、それはある。

 人類を守るための戦いを遂行せねばならない。

 自分自身が生き残るためにもやらなければならない。

 それは保育園や幼稚園のような子供たちが、繰り返し教えられることだ。

 しつこく繰り返すのは、盲目の希望に縋り付く為の空念仏としてか。

 それとも疑問を抱かせぬ為の洗脳か。

 はたまた、その両方か。

 式守は、そんなことに思いを馳せた。

 少年はその答えに自力で辿り着けるほど聡明ではなかった。

 幸運にも――ある意味、不幸にも――そういったことを教えてくれる大人に、たまたま出会でくわしただけだ。

 本当は誰もが薄々気付いてる。

 式守もそれは感じている。

 問題は差し迫った命の危険を、現実として受け入れることが出来るかどうかだけだ。

 それは、この時代に生きる人々に課せられた宿命であったが、少年にはそれは見知らぬ他人から押し付けられたものとしか考えられなかった。

 命の危険を感ずるのは、その場にならなければ誰も実感できない、

(結局、僕は一人前じゃ無いんだろな……)

 ふと、式守の胸中にそんな考えが過ぎる。

『――失敗作ノーナンバー!! 次の状況に移るぞ! 来い!』

 何の前触れもなく猿渡助教――訓練教官の士官を実務面で支援する下士官の声が骨振動ヘッドホンから頭蓋骨へと響く。

 如何なる戦場でも命令を聞き逃さないようにと作られたこの装備品は、時にひどく煩わしい。

「了解」

『遅れるんじゃねぇぞ!』

 恫喝と変わらない怒声が響く。

それが彼らにとっての日常。

「了解」

 少年はそれに従順な口調で答えた。

 当たり前だ。軍隊での反抗的な態度はそれなりの代価を払うことになる。

 彼はその代価を払う気など毛頭無かったし、仮に払えたとしても払わないだろう。

 失敗作ノーナンバーと、不名誉な渾名で呼ばれた少年――日本航宙軍第三艦隊隷下の第三海兵師団第一七七教育大隊第三二七教育中隊所属の訓練兵であり、同時に日本軍防衛高等学校火星分校の海兵隊課程学生である式守直也しきもりなおやは、バイザー越しの地球を名残惜しむように、跳ね上げていた強化外骨格の胸部装甲をゆっくりと閉じた。

 それから重力が地球の六分の一しかない月の地表を歩き出す。

 式守は強化外骨格の手で、2メートルは優にある無骨な突撃銃AKP-12Mと巨大な銃眼付きの多目的防盾を握り直した。

 ケースレス弾が詰まった弾倉が緩んでいないか目視確認した後、集合地点に遅れないようにと軽く走り出した。

 歩いても十分間に合う距離だったが、彼は走ることを選んだ。

 軍隊では予告もなく予定時間が切り上げられることがままある。

『式守! 聞こえる?』

 少年が月面を走り出して暫くした後、再び骨振動マイクが震えた。耳の奥に直接少女の甲高い声が響く。元気な、姉のような口調。

 出来るはずもない社会からの完全な自立を夢見る思春期の少年には、それは少々鬱陶しいものだった。

「聞こえてる」

 式守は先ほどの上官への返答とは打って変わり、ぶっきらぼうな口調で答えた。異性とはいえ、同期に対する返答だ。

 むしろ、こちらの方が式守の地の性格とも言えた。人は誰しも多少の裏表があるが、それは彼も変わらなかった。

『合流、急いで! 予定よりも早く地表掃射が始まりそうなの。突撃発起線まであと15分で来て!』

天羽あもう。それ、予定より10分以上早いだろ」

 今訓練で自分たちの組長役に抜擢された少女、天羽智花あもう ちかに不満を零した。

 少し気弱そうで、それでいて少しだけ斜に構えたような表情を浮かべる少年は、今年で18歳になる。

 通信相手の少女も同い年。知り合ってから今年で3年目。少年にとっては比較的古い知り合いだった。

『仕方ないじゃない。上からの指示なんだから、私がどうこう出来るわけないでしょ?』

 天羽智花あもう ちかの声音に威圧は無く、純粋に理解を求めていた。美人で気さくな性格の彼女は男女共に受けが良い。

 委員長的なまとめ役もこなす面倒見の良い性格は、式守もよく知っている。

 なんだかんだと同じ日本軍防衛高等学校火星分校の海兵隊課程の学生として、今まで訓練を共にしてきた。

 友人知人の中で最も性格を熟知している上に、気を使わずに会話を交わす事が出来る数少ない異性でもあった。

「……わかったよ」

 組長あもうの言っていることは正しい。心の中でだけ素直に返事する。

『最初から、そう言ってくれればいいのに……』

「…………」

 天羽は一言多い。そう思ったが口にはしない。

 口論するだけ体力の無駄だ。少年は、少女の言葉を無視して走り続ける。

『……あんまり、無視しないでよ』

 微かに拗ねたような、お願いのような、ささやきのような、小さな少女の声。

 それは骨を伝わり鼓膜へとしっかりと届いたが、少年は無言を貫き通した。

 天羽もそうなることは分かっていた。

 それでも零れた一言に返事は無い。

 諦めた少女は無言で通話を終了させた。

 式守は自分がなぜ訓練中にも関わらず地球を見て感傷に浸ったか、その理由は自覚している。

 それは3時間前に個人宛で送られてきた電子メールを読んだ所為だ。

 そこに書かれていたのは差し障りのない、ひどく簡素な文章だった。


『式守直也 様

 戦史専門電子書籍店<ヴァルハラ・アーカイブス>をいつもご愛顧頂き、誠にありがとうございます。

 本日、最新刊を入荷致しましたので御報告させて頂きます。

 書籍名:「冥王星遭遇戦とその対処」 著者名:506

 どうか、必ず御閲覧をお願い致します』


 数々の検閲を通り抜けて届けられた少年宛の電子メールは余りにも短い。

 誰がどう見ても営業用の短い文章。

 だからこそ、少年の元へと届いた内容。

 紹介された新刊を読む気は全く湧かなかったが、意識の中からそれを締め出せない。

 理由なんて分かっている。

 それは義務を果たさなければならないという符号だからだ。

 式守はただ無言で、攻撃訓練の為に集合地点へと向けて月面を走った。

 月の砂漠に少年の足跡が刻まれる度に白銀の粒子が後方に舞い上がる。

 集合地点には天羽智花あもうちかを含め7名の同期がいる。自分の遅れで、彼らに迷惑を掛けるたくはない。

 連帯責任は今も昔も軍隊の懲罰として標準スタンダードであり、様式美ですらある。

 懲罰を自分一人で受けることが出来ない嫌らしさは、経験しなければ決して理解し難いだろう。

 この時代、少年少女は通常15歳から高等学校等で軍事訓練を受け始め、異星生命体との戦いに駆り出される。

 誰もが知っている、変えようがない現実。

 風も音もない、何もかも死んだような白銀の世界。

 その中をひた走りながら、少年は再び地球に目を向けた。

 美しい青と白の惑星。

 数秒後、反対の方向――太陽系の外側へと視線を向けた。

 遠く、どこまでも続く漆黒の闇とまばらに煌めく恒星たち――人類の敵が潜む絶望的な空間。

 今、冥王星がどの方向にあるのか分からない。

 無線機の送信スイッチは切ってある。

 今なら、何を喋っても誰にも聞こえない。

 それを確かめてから、式守は小さく呟いた。

「…………さよなら、五十六さん。出来れば、一度くらい会ってみたかった」

 少年の声は誰にも聞こえず、宇宙の闇に儚く消えた。

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