四十四章



 えんの用いた長針にはたしかに毒が塗ってあった。しかし沙爽に刺さった側は持ち手のほうで、命に別条はないということだった。あの一瞬のことで、はたして炎があえて逆を向けたのかはもう確かめようもない。

 とはいえ残念ながら傷つけられたのはあろうことか最も繊細な部位、その左眼はもう光を見ることはない。激昂した暎景は薔薇閣からの外出を禁じられたにも関わらず三度ほど珥懿を襲おうとして失敗した。が、いまは同盟完全締結前の重要な時期、何より沙爽自身からこんこんとさとされて不承不承、唇を血で染めたものの気をしずめ、今度は一時も離れようとしない。

 伴當はんとうたちはあのとき大広房おおひろまで何があったか一様に口を閉ざした。沙爽自身も単なる事故だと言い張るばかり、暎景と茅巻とて主の望みではない同盟反故は本意ではなく、それ以上の追及を諦めた。





 叛逆者たちの処分、戦死した者たちの全ての葬儀も終えて、暦の上では秋の終わり、領地がようやく落ち着きを取り戻した霜の降りつつある日に四泉からの使節が到着した。数はわずかに七、八人の小団はそのほとんどが従者で、正式な使者は一人だけ。とはいうものの、族主と泉主の前で微笑んで膝をついた四泉朝廷からの代表は誰であろう丞相じょうしょう。国の中枢、泉主を除いて万機ばんきを治める最高位官である三公のおびと本人が来牙したのであった。


「族主ならびに牙族の皆々様におかれましてはお初に拝顔の栄を賜ります。四泉国丞相と大司徒だいしとを兼任しております、了矯侑淵りょうきょうゆうえんと申します」


 侑淵は見目は若いが所作落ち着きともに完全に場慣れした玄人の感を漂わせる。今は由毒のせいで血色悪く白いが、もともとさして変わらない肌色だろう。儀礼通りの挨拶を終えると沙爽に再礼する。

「泉主、久しく御前にせず戦の報を聞くばかり、一同、断腸の思いで無力を噛み締めておりました。遠く泉畿せんきを離れてのご活躍ぶりは朝廷の誰もが耳にするところ。皆、お戻りを切に待ち望んでおります」

「だといいが。泉宮みやのほうは変わりないだろうか」

「特には。征南将軍以下全ての京師兵けいしへいも凱旋致しました。州軍ももとの州へ。太后たいこう陛下のご容態も今は少し落ち着いてございます」

 もともと体の弱い沙爽の母は病み上がりであったのに撫羊の死により再び床についてしまっていた。

「それは安心した」

「いまは泉主の御身を案じておられます」

 苦笑して顔半分を覆った布を触った。「こんな姿を見たらまた心配させてしまうな」

 侑淵はいいえ、と微笑する。

戦傷いくさきずは武勲の証と心得ます。とても男前でございますよ」

 そうか、とさらに笑い返した。侑淵は慰めにもわりと積極的な発言をする男で、沙爽は彼のこういうところが気に入っている。


 丞相はさてそれで、と本題を促した。

此度こたびの騒乱に関わる我が四泉と牙族との同盟、その報酬と今後の二国の共生について、ですが」

 素顔のままの珥懿が視線を投げた。

「基本に戻ろう。二泉の早期の行軍のために、そもそも我々の同盟は二段階に分かれた。現状、その前半分である二泉を倒すための共闘においての盟約しか交わしていない。その約定に基づき我々は兵力を貸し出した。実質、ただ働きということだ。盟文にもいまだ次の段階、つまり二泉を打倒後のことは具体的な取り決めはなにひとつ明記していない。とはいえ四泉主は同盟締結にあたり、我々には四泉地の割譲あるいは領地との密な親交、融和を掲げている。我々が王統譜へ名を連ねることもいとわないという言質げんちを取った」

 沙爽は頷く。

「私がはじめに提案した四泉の割譲、その形態についてもまだ曖昧だ。四泉のどこかの土地をまるごと牙族の居住地としていわゆる分割したほうがいいのか、族民を招いて希望の場所に住まわせたほうがいいのか。あるいはそんなことをせず、互いの土地に住んだまま今よりも国交を深くしていくほうが良いのか。いずれにしても私は手を貸してくれた牙族に十二分の見返りを用意したいと思う」

 ふむ、と侑淵は二人の言を咀嚼した。

「拝聴致しました限り、まだ漠然としたもののようですね。それにいずれの方法をるにしても、我々はまず民の心情をおもんぱからねばなりません。今回の戦で四泉民の牙族に対しての恐怖や偏見はいくらか取り除かれたかもしれませんが、いまだ泉外民というものは泉民にとっては未知で疎遠であり我らの生活とは直接に関わりのないものです。それをいきなり牙族に土地をお与えになれば混乱は避けられません。そも全く民の住んでいないところは四泉にはございませんから、土地そのものをまるごと牙族の居住地としてしまっては、そこに住んでいた民は新たな場所に移らねばならなくなります。強制的に追い出せば反発ししこりを生んでしまうでしょう」

 沙爽は重ねて難しげに頷く。「だろう。であればやはり人を各都市に振り分けるしかないのだろうか」

おそれながらそれはもっと難しく、牙族にとってはありがた迷惑です。家族ごとに郡郷に戸籍を用意し給田を与えたとしても、彼らにとっては一族を離散させられたとしか思えません。仲間と離れ離れにならねば泉地で暮らせないというのなら彼らは来ないでしょう。また、四泉の民にとっても良い益とはならないかと思われます」

「そうか……そうだな。私は泉の恩恵を受けてもらいたいと思うばかりに、民の気持ちを忘れていた」

 恥じ入ったのに侑淵は首を振る。

「泉主がそれだけ牙族のことを親身にお考えになっているということです。族主はいかがですか。牙族自体は、具体的にどうなることを希望されているのです?」

 伴當たちが顔を見合わせた。珥懿が鉄扇を広げてあおぐ。

「我らの民は誇り高い。侮りと取ってしまうような融和は避けたい。きっと泉地に移れと言っても大多数はそうしない」

 沙爽は困り顔になる。見返してだが、と続ける。

「いちばんの危惧は地下水脈の枯渇だ。涸れれば終わる。私はその時が来るまでに湧き水を失っても民が生きていけるような体制を整えておきたい。りん族の二の舞になるのは絶対に避けなければならない。その危機へ対処するための布石としての四泉だ」


 鱗族はかつて牙族と同じように地下水脈のある土地で暮らしていたが、ある時水が涸れたために泉国の一である七泉しちせんに助けを求め、受け入れられた。しかし現状、良い結果にはなっていない。


 侑淵は沙爽をなだめるように見る。「泉主、四泉と牙族が互いに手を携えていく、これはかなり長期的な施策になります。大変ご寛饒かんじょうできかねるようなことをあえて申しますが、泉主の大御代おおみよがたとえあと百年続くとしても、完全に牙族を支えてゆけるような体制を四泉が整え終えられるか否かわからないほどです」

 沙爽は自分が思っているよりもこれは大変な事業なのだと改めて腹を据えた。

「さてしかし、そうなると一番現実的で早期に実現可能と考えられるのは泉主が先ほどおっしゃられたみっつめの提案が近いように思えますね」

「今のまま親和を深めるということか?だがそれではなにも変わらなくはないか。牙族とて水を失えば困る」

「ええ、ですので一番めと二番めの施策も徐々に取り入れながらということです。これらの二つは急激に行うべきではなく、慎重に事を運ばなければならない事柄です。互いの民どうしの偏見や軽侮けいぶを長い時間をかけてゆっくりと解消していかなければならないからです。和解とはそういうことでございます。民ひとりひとりが心を開いていけるような段階を踏まなければ、せっかく今築いたなけなしの信頼関係が台無しになります」

 和解とは本来、人に強制されて出来るものではない。個々が心の内で真に受け入れられなければ達成はできないだろう。

「我らの民はそちらほど泉民を嫌っているわけではない。ただ、泉国に対する羨望と憧憬よりも、黎泉の支配を受けていないことに優越感と誇りを持っている者のほうが多い。無論、私自身もそれは否定しない。だからその感情がいずれ泉地に住まうとなった時に妨げにならないかが心懸かりだ」

 珥懿が無表情の中に少し憂いを滲ませた。だからなおのこと、初期段階で民が困惑し嫌悪するような急流は避けなければならないのだ。

「では、具体的にはどうすればいいのだ?」

 そうですねぇ、と侑淵は筆を取り図面に大小の円を描いた。

「例えばです。四泉にも牙族にも由歩の商人がいますね?二国間の取引においてはかかる関税を軽減する、あるいは免除とします。牙族も四泉民だけには街への出入りを許す。そうしてまず流通を活発にさせます」

 二つの円を線で繋いでみせた。

「そんなことで融和が図れるのか?」

「流れるのは品だけではございません。商人にとっては牙族の領地に入れるというだけでも衝撃なはずです。馬絆食行ばはんしょくこうにはどんなに霧深い所もすすんで行く身軽で好奇心旺盛な商人が多うございます。すぐに牙領の秘郷がどんなところだったかという噂が広がるでしょう。そのうちに商人だけでなく旅人も訪れる。牙族の商人のほうも公然と身分を明かして商売できるようになる。売るだけでなく今以上に四泉の多くのものを領地に仕入れてきます。そうしてまず物流を増やし、互いの警戒を解いていくのが自然かと思われます」

 なるほど、と沙爽は図面を見つめ、隅に控えている燕麦と目配せする。

「侑淵、この案に加えて、もっと物理的な方法を施策することはできないだろうか。つまり、四泉の支流を牙族領に引くということは可能なのだろうか」

「それができれば、四泉の限られた土地に族民を入れずに牙族はこの地にとどまったまま四泉の恩恵を受けられて一番良い方策とは存じますが、黎泉がどうご覧じになられるかは分かりません。おそらく考え方とすれば灌漑事業と同じようなものでしょうが、とてつもなく大変な労力です。まず四泉では由歩の人夫は雀の涙、水工に十三翼を使うとしても二国の間は途方もなく険阻な山々と森に隔てられています。森をり山をいで、両端から掘り始めても完成に何十年、何百年の時がかかることでしょう」

「前に燕麦に聞いたのだが、たとえ牙族が四泉と同盟して融合するという意志を示しても、黎泉はこの地に泉を与えることは無いだろう、と」

 燕麦は自信なさげに俯いたが、侑淵はそうでしょう、と同意した。

「古今東西そんな話は聞いたことがございません。たとえ同盟したとしても、黎泉は大泉地より外のことには一切関わったことがございません」

「だが侑淵。支流を引くことは泉地を拡げるということにはならないのだろうか。もしそうするなら、泉水が来ているのに泉地でない土地が将来生まれることになる」

「そうでございます、なので根本的に泉を霧界に通せるのかは定かではありません。あなを掘って水を通したところで、由霧の中を流れる川がそうであるように毒に汚染され腐るのかもしれません。それにまず泉に手を加えるなら黎泉に伺いを立てねばなりませんので、来るかわからない返答をいつまでも待てませんし、このような事由で神意を求めたことも例がありません。なのでこの案は今我々が取り掛かる融和政策として採用は致しかねます」

「現実的ではないということか」

「やってみる価値はありますが、私は正直、支流を何百年もかけて引くよりもその間に人を移動させたほうがはるかに容易かと存じます」

「それはそうだな」

 珥懿が扇子を折り畳む。

「それで、流通を活発化させ、同時に族民に対して四泉での居住を認める布告を出すのか」

「左様です。これはあくまで希望者を募る必要があります。さらに族民に四泉民と同等の権利を与える」

「待て」

 手を胸の前に挙げた。

「同等の権利ということは同等の罰も与えられるということだ。そうだな?」

「ですが?」

「我らには、特に民には位階いかいの仕組みがない。家付きしもべの定めはあれど奴婢ぬひという明確な階級分けもない。皆がそれに初めから馴染めるわけはなく、むしろ泉国の厳正な身分制度を敬遠して出戻ってくる可能性は否めない」

 沙爽は、そうか、と不安げに視線を交わし合う僚班りょうはんたちを見渡した。牙族には奴隷がいない。侑淵も腕を組んだ。

「確かに泉地は夷狄ほど民の身分が曖昧で自由ではありません。けれど我が国は近年は泉賤せんせんにも土地の占有を許可する傾向があり、非道な二泉などよりはよほど寛容です。少なくとも人として扱わないなどということはございません」

「それでもはじめはある程度の許容が欲しい。少なくとも四泉で牙族の移住がふつうのこととして見られるようになるまでは」

 珥懿の言葉に配下たちも同意する。希望を持って泉地へ旅立ったのに慣れない扱いを受けて帰ってきてしまってはただ泉地への心象を悪くしただけになる。そうなれば彼らは二度とそこで暮らしたいと思わなくなる。

 侑淵は少し悩んだ。「かと言って過度な特別扱いをすれば泉民の反感を煽りますし。根本としてある序列の枠組みから逸脱させた者が増えれば制度そのものが崩れかねません」

「崩れてはいけないのか?」

 首を傾けた沙爽に、数拍の間があった。侑淵は微笑んだが面白いものを見るような目だ。

「どうぞ、お続けください」

「牙族の民には位がないのだろう?でもうまくやれているように私には見える。泉国においての身分とはそもそも当人がどれだけ徳高い人物かを誰が見ても分かるようにし、その人々を中心として国が円滑に営まれるように出来たものだと三師さんしから教わった。だから高位の者は敬われるべき者なのだと。しかし、今はそれが全く逆転している。為人ひととなりよりも先にその者が自分より上なのか下なのか、地位が優先だ。どんなに位の高い人間でも中身の伴わない者は大勢いるし、逆に市井にいる無学な者でも義にあつい者はいる」

 沙爽は斉穹や桂封侯や、二泉で助けてくれた者たちを思い出しながらそう言った。受けて珥懿が口を開く。

「もともと我ら一族と泉国では成り立ち自体が異なるもので、これは比べてもどうしようもない。我らの掟を泉国に適用しようとするのは難しいし、逆もまたしかり。しかし、民の自発的な融和をすすめるのであればつまづきそうな部分も彼らがそれを受け容れる準備が出来るまで待ってやってもいいのではと考える」

「私もそう思う。それに、泉柱せんちゅうには必ず無爵位や泉賤せんせんを作らなければならないとは書いてないはずだ。大きく妨げになるのであれば、せめてそれらの改革もするべきではなかろうか」

 侑淵は顎に手を置いた。図面の大きな円の中に小さな円をまたひとつ描き、それを黒く塗り潰した。

「ふむ、御二方のご意見はごもっともです。しかしこれも、今日議案を出してすぐ実行出来るような類のものではございません。であれば先んじて、牙族が四泉でほんのちょっぴり特別扱いを受けるに足る目に見えるものが必要でございます。加えて民全てが納得できるようなものです」

「目に見えるもの?」

「ええ。同盟とはいくら書面でしたためようと民の目には見えません。これから牙族と手に手を取って、それこそ恒久的に和平を築いて行きますよという証が必要です」

「どのような方法が?」

 丞相は微笑んだ。いかにも文官というような柔らかい印象を与える男だが、腹の内を読ませない顔をしている。

「同盟の証として有用なのは首長どうしのご婚姻であると昔から相場は決まっております」

 珥懿の顔色が変わった。沙爽はなおも首を傾げる。

「だがそれは無理だ。私も牙公も男……だし。泉根は今や私ひとり。であれば、…………もしや、牙族に傍系ぼうけいの姫を嫁がせるのか?」

「泉主。これは四泉においての牙族への対応を考えてのことでございます。それにこちらへと人を移動させたいのに、逆に嫁がせては人心は離れがたく意味が無くなるのではありませんか」

「まあそれは、そうか。では私が牙族のだれかと?」

 すると侑淵はさらに図面を眺めて薄く笑った。


湶后せんごう――――嫡妻ちゃくさいに牙族の子女をお迎えなさいませ」

「湶后に」


 ゆるゆると現実味を帯びてきて沙爽は目を見開いた。僚班たちが小声で騒いでいる。伴當たちも頷く者あり、狼狽する者あり、成り行きを見守る者あり。

「しかし、それで諸官が納得するだろうか」

「四泉滅亡の危機を救ってもらっておいて今更文句など言えるはずもございません。自らは高みの見物で泉畿で安穏としていた者たちでございますよ、私含めて。いまや降勅なさり、自ら兵を率いて乱を平定なされた泉主に誰が不満を垂れましょう」

 沙爽はしばし無言になる。牙族の王統譜への入籍。新しい由歩の血。それが本当に叶うのなら願わしいと思っていた。

 だが、と老人に顔を向けた。

烏曚うもうどの。そなたは前に話してくれたな?このことを」

「泉国の王統に夷狄がった前例はない。近年の例としては一泉だが、これは逆に公主がかく族に降嫁したから王統からは離脱している」

「初めての例ということだな」

「さらに、気がかりはある。伝え聞くところによると公主と角族主の間にはいまだ子ができていない。夷狄と泉根がはたして血を交わらせることが可能なのか、定かではない」

「肝要なのは民に和合を示すことです。もちろん両国の融和の真の証として御子みこを授かるならば申し分ありませんが、主眼はそこではございません。さすがに湶后と同一族をないがしろにはできないという意識を民の間に持たせるのです。牙族はみな族名ぞくみょうを頭に持っていますから、なおのこと泉民にとっては湶后と同姓だという敬意が生まれるでしょう。それを多少なりとも族民の融通策にかそうということです」

 侑淵は笑みをたたえたまま、先ほどから無言のほうを見た。

「族主。なにか意見はございますか」

「……王統譜の話ははじめから出ていたことだ」

「では、特に反対ではないと。やはり国母である湶后陛下となる方ですから、牙族の間でも名の通った家のそれなりの身分の方が良いと思いませんか?」

 不穏な空気を感じ取って臣下たちがぴたりと静まり返る。侑淵はさらに重ねて言った。

「ときに族主。家には相応ふさわしい方がおられますか?」

 珥懿は睨み据え言を被せた。「いない」

「おや、そうですか?たしか紅家は当主家としては伝統ある名家とか」

「そうなのか、牙公」

 無邪気に尋ねた沙爽を無視してさらにそっぽを向く。

「相応しい者はいないと言った。別に当主家である必要も無い」

 言いながら手を振る。これ以上は混みいった審議だ。それで臣下たちは一礼すると次々に広房を後にし、牙族の重臣は十牙じゅうがと監老だけが残った。

「一族に名家なら数ある。女も多い。そこから選べば良い」

「お待ちを、当主。名家といえど民にも知られた家でなければ支持を得られません。ここはやはり五翕家ごきゅうけのいずれかから秀でた者を探すべきでは?」

斂文れんもんどの、その五翕家というのは?」

「次期当主が選出される家のことです。名の通り五家が任じられ、城での強い権を得ます。五翕はその一家の隆盛やひと世代にどれだけ聞得キコエの逸材を輩出したかによって常に入れ替わります。固定された家はありませんが能の高い一家は世代を通じて名を連ね、民の間でも尊崇を集めます」

 烏曚も頷く。

「当主はひとつの家の血にらず、高い能力を有する者が一族を率いるに相応しいとみなされる。とはいえ、名家はそれだけ質が落ちないよう気を配り聞得の能の高い者を家に取り入れ続けるから、昔からだいたい同じ家がひとつふたつはずっと五翕に入っておるのです。その筆頭が紅家です」

 沙爽は不機嫌そうに黙っている珥懿を見た。

「紅家は今現在、当主家として十二代続く名家。他の四家はもう家、らん家、ちょう家、そしてりん家です」

かく家は入っていないのだな」

 霍家総代は自嘲するように笑んだが背筋を伸ばした。

「先代の御世に鈴家に取って替わられました。しかし、霍家の能は蘭家にも劣らぬと自負しております。今代での五翕入りを目指します」

「たまたま続いた名家といえど紅家はすでに落ち目だぞ。そうまで言うならお前の娘をくれてやれ」

 紅家総代は顎に手をついて言った。

「私の娘はまだ三つです。いくらなんでもそれはどうかと」

「では姚家ならどうか。あそこはほぼ女ばかりだし、四泉にもあかるい」

「姚家は姚綾ちょうりょうどの亡き今、新たな大人かとくさえ決まっておらず落ち着いておりません。同様に蘭家も二泉で多くの家人を失い湶后を選ぶどころではないでしょう。我が鈴家もしかり」

 丞必が言い、隣で斬毅ざんきも唸った。

「儂のところはそも当てはまりそうな者がおらぬ。ほとんどすでに伴侶を得ておるし、他はどれもおおよそ湶后に相応しいと差し出せるような器量を持ち合わせておらぬ。一人選べば良いだけだが、四泉と我らを繋ぐ重要な役目を負ういわば同盟の要。ここで勝手に名指しすることは容易だが、そもそも本人が泉宮において四泉朝廷と対立するような人格や思想の持ち主では困る。加えて泉主ともそりの合いそうな者でなくては。主眼でなくとも入内じゅだいは御子という希望を託し同盟のいしずえとして安定させたいという目的もあろう」

 人々は同意した。同盟が一代限りで終わってしまうようなことを避けるためにも、それは必要だ。

 烏曚がさらに髭をしごいた。

「しかし、やはりはたして継嗣を産み参らすことができようか」

「泉地に定住する一族の末裔とて泉人と子をもうけている。そうでなければ融和にもいずれ障りが出ることになる。能の高い聞得においても問題なく子をせるのは例があるだろう。おぬしのところのあれは何と言ったか」

 斬毅に振られて思い出したのか眉を上げた。

「ああ…………仄夏そくかか。たしかに泉人の血が入ったとしても烏家の能力が受け継がれた例ではあるが」


 じっと考えるようにしていた沙爽が何かを言いかけて口を開いたが、結局はつぐむ。そんな彼を珥懿は一瞥した。


 侑淵が続けた。「王統とて人ではあります。しかし神代より源泉である黎泉からの血を絶やさずにきた聖なる方々。たしかに角族の例は軽々に見るべきではございませんね。もし牙族の異能の血の為に支障が生じるのを危惧しておられるなら、泉主と同じく不能渡わたれずから選んだら良いのではございませんか」

「しかし五翕家はなべて由歩だ」

 そう言ったところで皆一様に押し黙った。主がひどく気を乱しているのが分かったからだ。ただならぬ様子に沙爽と侑淵が顔を見合わせる。沈黙が場を満たしたところで、開扉の号令が聞こえた。


 入ってきた少女は二人。扉の前で叩頭こうとうし、壇上の前まで進んだ。

 珥懿が向かいを恐ろしい形相で睨む。

「お前が呼んだのか」

「いや、あの、玉璽ぎょくじと同盟文が必要かと思って。預かってもらっていたから」

 侑淵が、ほう、と袖を口に当てる。砂熙さきに付き添われ、もう一度頭を下げた少女は大切そうに箱を差し出した。

 受け取った沙爽は蓋を開き、丸めたものを緊張して解く。黒い文字に花押かおうと赤い血判。その中に一つだけ、明らかに異なる色の印。

「……本当に、色が変わってる」

「当たり前だ。お前に神勅がくだったのだから」

 ほれぼれと見つめた。自らの血璽けつじを生まれて初めて見た。

「すごい……」

「泉主がなにかを勅定ちょくじょうなさるたびに飽きるほど見ることになります。ですのでお身体からだの為にも、強引な策はこれからなるたけ控えて頂かなくてはですね」

「己の指も切れないのがそうそう使うわけはない」

 珥懿に馬鹿にされてむすりとしたのを見て微笑み、侑淵は退さがろうとした少女を呼び止めた。

「貴女。玉璽と同盟書を泉主から預かるとはよほど信頼を勝ち得ているご様子。良ければせつめにも芳名をお聞かせ願いたく」

 はい、と珥懿を窺いながらひざまずいた。

「牙ぎょう歓慧と申します」

「暁さま。本姓ですか、それともぼう姓?」

「……傍姓でございます」

 そうですか、と満面の笑みでさらに問うた。

何処いずこの名家の方か、お聞かせ願えますか」

 歓慧は珥懿をさらにはかる。渋い顔をした主は無言で逸らし、それでしばし俯く。やがて、不思議そうに自分を見つめる沙爽をまっすぐに見返した。意を決して口を開く。

「わたくしの家は、牙族五翕家、紅家にございます」

 ばつの悪そうに眉尻を下げた。

「わたくしは牙族族主牙紅珥懿の妹です」

 目の前の彼はしばらく唖然としたままだった。




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