第四話 名前

 栗花落からの告白を「仮カノ」という形で受け止めた帰り道。誰かに見られないように、できるだけ細い道を通って彼女の家に行った。


「はい。どうぞっ」


 地下鉄の駅に近いマンションの六階。彼女は恥ずかしそうに笑いながら玄関を開けた。あまり笑顔を見ることは多くない分、可愛さの破壊力は凄まじい。


「お、おじゃまします……って、え?」


「あら、いらっしゃい。高橋君? だっけ」


 玄関を入ってすぐの廊下を女の人が掃除していた。栗花落のお母さんだろうか。


「え、えっと……はい」


 なんで、名前知ってんの……?


「雫から聞いてるよっ。あ、うち来たってことは、したのかな?」


「え」


 俺は後ろの仮カノを振り返る。


「う、うんっ……」


 妖精は顔を赤く染めて頷いた。それから俺の腕に抱きついて肩に頬を乗せた。


「まだ、、なんだけど……」


 心拍数がバグる。

 女子との接触なんてろくにない小学五年生には刺激が強すぎる。っていうか、栗花落ってこんな女の子だっけ?


「そうなのね。まあゆっくりしてって。高橋君」


「は、はいっ」


 当たり前のように声が裏返った。お母さんはにっこり微笑むと、奥のリビングの方へ姿を消した。





 栗花落の部屋は壁も家具も全体的に白くてきれいだった。俺の部屋とは大違いだ。

 

 汚れたり傷ついたりすると一瞬で分かるんだろうな、この色。っていうか、めっちゃいい匂いすんなこの部屋。栗花落の匂いなのか、香水とかなのかわからんが。


「おまたせっ、拓哉君」


 しばらく待っていると、彼女が扉を開けて入って来た。その手にはジュースとクッキーの乗ったおぼん。


「あぁ、うん……。え、?」


 彼女は俺が座っている床の前におぼんを置いた。彼女の勉強机以外の机がないから、ちょっと広めの床に直置き。


「えっ、だって、仮でも、恋人だからっ……」


 不安そうに目を泳がせながら彼女は俺に聞いた。


「い、嫌、かな……?」


「う、ううんっ。全然、大丈夫だけど……」


 下の名前で呼ばれるほど親しい仲の女子なんていなかったから、甘い声色で俺の下の名前が呼ばれるのは耳に馴染みがない。可愛いから、いいけど……。


「じゃあ、今日はお互い下の名前で呼ぼっ? 一日だけかもしれないけど……」


 ふわふわした彼女の雰囲気に飲み込まれそうになるのをぐっとこらえて、俺は喉を震わす。


「あ、あぁ、そっ、そうだね……」


 なんだこの緊張は。シャトルランの前よりも全然喉が渇く。


「し、雫、さん……」


「さん付けしなくていいよ。雫で大丈夫」


 そういう君も拓哉君って呼ぶじゃん。


「じゃあ、雫」


「っ……!」


 彼女は俺の声にぴょこっと跳ねて、きゅうぅと小さくなった。真っ赤な顔からは湯気が立ち上っていそうだ。


「は、はい……」


「ど、どうしたのっ?」


 あまりの急変に心配になる。


「いやそのっ、いざ呼ばれると、恥ずかしくて……」


 なん、この子。可愛すぎにもほどがあるような気がするのだけれど。この子が彼女ってやっぱり夢なんだよな。


「可愛いな、雫……」


「ふぇあっ!?」


「あっ」


 声に出たかもしれん。いやこれは確実に出た。まあ、本心だし事実なんだけど。


 俺は口を押えながら、恐る恐る彼女に目を移す。


「……拓哉君も、カッコいいよっ」


 どかーん。


 体のどこかでそんな音が鳴ったような気がした。


「えへっ、好きっ」


 彼女は恥ずかしそうに笑った。その拍子に彼女の綺麗な髪がふわりと揺れる。周りの空気も部屋の明るさも、彼女に合わせて姿が変わっていく。それは間違いなく錯覚なんだろうけど、俺には彼女のすべてが輝いて見えていた。


 心臓が持ちそうにない。


 俺は今日、生きて帰れるだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る