旅の音
雪野蜜柑
音楽のチカラ
旅に必要なもの
・スマートフォン
・財布
・明日の服
・アコースティックギター
これだけをギターケースに詰め込めば準備はできた。行くあても、行き先も決めずに、足の向くまま気の向くままーーー
***
散々だ。今週は特に。くたびれたスーツがよく私の心情を示している。夜だと言うのにうだるような暑さと湿度が追い討ちをかける。
「散々だなぁ…。」
思わず声が漏れてしまう。私は冴島雪。25歳のフツーのOLだ。ことの始まりは先月だった。確か一度寝坊したとか、熱が出て書類が進まなかったとか、そんなこと。
たったそれだけのことだった。でもそれから仕事が回らなくなった。少しずつ仕事が積み重なり、膨れ上がり、大きくなっていった。そしてどこにでも人のミスにつけ込む奴はいる。自分のちょっとしたミスをここぞとばかりに押し付けてくるヤツ。いちいち言い訳しても仕方ないので素直に謝るしかない。そして今日、大事なプレゼンで表示するファイルの順番を間違えてしまった。同じく担当していたチーフにこってりしぼられた。帰りの電車、頭の中をぐるぐると余計なことが渦巻く。ああ、泣いちゃダメだ。もう意地しか残っていなかった。私の家は都市部から離れている。その駅まで耐えれば無人駅だし人はいないはずだ。
愛媛県松山市。そこが私が派遣されたところだった。22で入社して24の時に地方へ派遣し早1年。初めは魚介の美味しさや海の綺麗さにはしゃいだものだったが今では見慣れた景色だ。松山駅から一時間もすれば私の住むマンションがある。最寄りの駅から家まではこの時間なら誰もいないだろう。チクショウ、思いっきり泣いてやる。どうせ明日からは夏休みだ。そんなことを考えながら、窓の外をぼうっと眺めていた。
電車のドアが開く。いつものように静寂が襲ってくると思っていたが違った。いつもならありえないような音。これは昔よく聞いたギターの音?でもなんで。
思いっきり泣こうと思っていたのも忘れて音を探して駅舎を出る。その目の前には階段に腰掛けてこちらに背をむけ、アコーステックギターを弾く男がいた。頭にはよれたハットを被り、黒いコートを着ている。
『走る街を見下ろして のんびり雲が泳いでく
だから歩いて帰ろう 今日は歩いて帰ろう』
どこかで聞いたことがあった。懐かしいような、優しさに包まれるような気がした。なんて言う曲だったか…。気になってもやもやする…。
「あ、あの」
どこからか声がした。男が曲を止めこちらを振り向く。少し長めの前髪に涼しげな目元。まあ、はっきり言ってイケメンだった。歳は同じぐらいだろうか。なんて思っている間も男はこちらをみている。もしかして声を出したのはーーー私?
「いや、えっと、あの」
突然のことでなぜか私がしどろもどろになってしまう。しかし男は私の言葉の続きをじっと待っている。仕方ない、腹を括ろう。
「その曲の名前ってなんだったかな〜、と思いまして…」
あはは…なんて頭をかく。知らない人と話すのなんていつぶりだろう…。変な人みたい!?なんて思って1人あたふたしていると、男が口を開き、
「斉藤和義の『歩いて帰ろう』と言う曲です。ひと昔前の曲ですね。」
と答えてくれた。ああ、そうか。昔お父さんが弾いていたな。と思い出すが曲の全容は浮かばなかった。すると男は
「この曲、せっかくですし聞いて行きませんか?もちろんお代はいただきません。俺…いや、私はただのギターひきですので…。」
と言ってきた。正直かなり疲れていて、早くベットに飛び込みたかった。しかし曲は気になる…。私が渋っていると、再度男が口を開く。
「それに、今のお姉さんに聞いて欲しいような気がしたんです。」
そんなの言われたら気になるじゃない…。お願いします、と呟き隣に腰掛ける。男の指がギターの上を踊り出した。
『走る街を見下ろして のんびり雲が泳いでく
誰にも言えないことは どうすりゃいいの?教えて
急ぐ人に操られ 右も左も同じ顔
寄り道なんかしてたら 置いてかれるよすぐに』
優しい歌声だった。男の人らしい低い、それでいて柔らかい声。そして、とても楽しそうな顔をしていた。微笑むように歌を歌っていた。
『嘘でごまかして 過ごしてしまえば
頼みもしないのに 同じような朝が来る
走る街を見下ろして のんびり雲が泳いでく
だから歩いて帰ろう 今日は歩いて帰ろう』
男の優しいうたは固まった私の心を溶かすようだった。凝り固まった涙腺がほぐれ、涙が溢れ出てきた。頬を水滴がつーっと伝っていくのがわかる。
男がアウトロを弾き終わっても涙は止まらない。そんな私を見て男はにっこり笑い、
「よかった。」
と呟いた。何がいいものか、見ず知らずの人の前で泣いてしまうなんて。
「お姉さん、何かを堪えるような顔をしてたから。」
「えっ。」
そんなに顔に出てただろうか…。ますます恥ずかしい…。
「よければ話ぐらい聞きますよ。赤の他人の方が話しやすいこともあるでしょう?」
「そ、そうですかね。」
「そんなものです。それに、そんな顔をした女性を1人で返せませんよ。」
「そ、そこまで酷い顔ですかね。」
なんだか怪しいような気がして警戒を強める。男もそれに気づいたのだろう。慌てたように、
「あ、いや!変なことをするつもりはなくてですね!昔から女性に優しくと言われていたからと言いますか、変な意味はなくてですね…、ああ何言ってんだ俺…。」
と捲し立てた。その様子がどうにもおかしく、思わず笑ってしまった。なんとなくこの人は大丈夫、そんな気がした。
「ふふふ、ありがとうございます。でも聞いてもらうような話ではないんです。」
「それなら尚更話してみてください。それに…。」
男が言い淀む。
「それに?」
「あ、いえ、あのですね、実は私は旅の途中でして、今日泊まるところがなくてですね…。よければこの辺りで止まれそうなところを教えていただけないかなぁ、と…。」
そんな理由まで出されたらなんだか聞いてもらってもいいような気がしてきた。
「実はですね…」
私はポツポツと、見ず知らずの男に愚痴を吐き出した。男は黙って静かに聞いていてくれた。それも心地よく、久しぶりにちゃんと泣いてしまった。
「すみません、下らないですよね…。」
無理やり笑顔を作って笑おうとする。でも視界の歪みは止まらない。その時、ぽんっと頭に手が乗せられた。
「あっ!すみません!」
私の頭に手をおいた男がパッとその手をあげた。
「なれなれしかったですよね…。」
男は心配そうにこちらをみている。なんでだろう。少し寂しいような…。
「慰めてくれようとしたんですよね。ありがとうございます。確かに少し楽になった気がします。」
泣いて少しスッキリした。
「いいんです。頑張りすぎないでいいんです。辛いなら休んでいいんです。歩き続けなくていいんです。急いでも物事は解決しません。ゆっくりいきましょう。」
その言葉で救われた気がした。ああ、いけない。また視界が滲み始めた。でも…
「今は、泣けるだけ泣いちゃいましょう。」
ああ、また甘えてしまう。でも、これでいいのだろう。
散々泣いた。泣きすぎた気もする。泣き続ける見知らぬ女を前に、彼はずっとそばにいてくれた。いい人すぎて甘えてしまったが、何かお礼をしないと。
あ、そう言えば…
「泊まるところ…でしたよね。」
「あ、はい。…もう大丈夫なんですか?」
「はい。ご迷惑おかけしました。それで泊まるところなんですけど…
よければうちに来ませんか?」
「え?」
「実はこの辺りに止まれるところがないんです。だからお礼も兼ねて、とりあえずうちに来てもらおうと…。」
「えっと…自分で何言ってるかわかってる?」
確かにこの時の私は変だった。疲れで頭も回っていなかったのかもしれない。でも、この人なら大丈夫。そんな気がした。それに、この人の歌、まだ聴きたい。
「この辺って時価が安くて一人暮らしでもかなりいい部屋が借りれるんです。なので大丈夫ですよ。」
「いや、そう言う問題では…。」
「いいから!いきましょう!」
「ほ、本当にいいんですか?」
「はい!」
そう言って私は彼の方を見る。引いたかな。ええい、ままよ。一度そう思ったら変えられない性格なのだ私は。
「あ、ありがとうございます。えっと…お名前は?」
「あ、すみません…。私、冴島雪って言います。」
「冴島さんですね。俺…いえ、私は春夏秋冬 弾っていいます。ハジキは弾力の弾って書きます。」
「かっこいい名前ですねぇ。」
「ただ珍しいだけですよ…。一回で読まれることがなくて…。」
「確かにこれは読めませんね…。えーっと、春夏秋冬さんはおいくつなんですか?」
「25です」
「あ、同い年だ…。タメ語の方が楽ですかね?」
「あ、はい。敬語って苦手で…。」
「ふふっ。そんな感じします。」
「会社勤めでもなくて使う機会がなくて…」
打てば響くような会話。彼の人柄によるものだろうか。でも会社勤めじゃないって…どういうことなんだろう?
「フリーのライターだから、人に敬語を使う時の方が少ないんだ。でもこういうとき困るよな…。」
「普段どんなことを書いてるの?」
「下らないことだよ。旅をして、その先であったこととか感じたことを自分の思うままに書いてる。昔から旅をするのが好きでさ、それが仕事になるとは思ってなかったけど…。まあそれで何冊かありがたいことに出版できて、旅するぐらいのお金はある。まあたまに旅先でバイトもするけど…。」
「何冊も?すごいすごい!有名人じゃん!」
「いやーコアな内容だから有名人ってほどじゃなくてさ。まあ俺としては売れても売れなくても旅ができたらそれで十分。まあ有り体に言って仕舞えば、」
旅人ってやつかな。男はそうやって嬉しそうに笑った。
私のマンションは新築で2LDKなのに家賃が安い。この辺りの人は古くから家を持っているし、そもそも地価が安いのだ。一人暮らしでは持て余していたが。
そんな家に珍しく客が来た。普段から散らかっているうちだったが、まあ及第点、だろう。きっと。
そんな言い訳がましいことを頭で考えながら机の上に作り置きの料理を並べていく。
「お酒は飲める?」
「いいの?いただきます。」
2人分の缶ビールを冷蔵庫から取り出し彼に一本渡す。
「グラスとかなくてごめんね。」
「ううん、いつもこんな感じだから。」
「そっか。それじゃ、とりあえず乾杯。」
プルタブを弾くとプシュッと小気味いい音を立てて炭酸を飛ばす。一口飲むとシュワッとしたアルコールが喉を通り抜けるのがわかる。明日を生き抜くための至福の時間だ。料理も特に凝った物だはないが、うん、美味しい。
「これ美味しいね!手作り?」
弾は作り置きのきゅうりのお漬物を気に入ってくれたらしい。
「口にあったよかった。まだあるからいっぱい食べてね。」
お酒を飲みながら、彼の今までの旅の話をたくさん聞いた。今まで行ったところや聞いた曲、彼自身が奏でた曲の話はまるで違う国の話のようで、とても同い年とは思えなかった。
晩酌を終え、弾を一つの部屋に案内する。
「ここを使って。狭くてごめんね。」
「泊まらせてもらえるだけありがたいよ。でもこの部屋って…。」
そう、そこは仰々しい扉と二重窓の部屋、そこにアップライトピアノが置かれたいわゆる防音室ってやつだ。人が寝れるスペースも十分にある。
「寝れなくはないと思うんだけど、やっぱり狭い?」
「いや、そうじゃなくて…。ピアノ弾けるの?」
「うん、まあ、ちょっとだけね。」
そりゃ一人暮らしの女の家に防音室があれば気になるだろう。まあ他の客など来ないので必ずかどうかはわからないが…。
「へぇ、聞いてみたいな。」
弾いてみてよ、とピアノの鍵盤に軽く触れながら弾がいう。ああ、またこの質問か…。なぜ人は楽器ができる人に会うとその演奏を聞きたがるのだろう。まあ、今の私が言えた義理ではないが。
「最近全然弾いてないし無理だよ〜。」
模範解答のような、典型的な使い古された言葉で乗り切ろう。いつものことだ。もうなれている。少し後ろめたい自分を隠すように心の中で言い訳を重ねる。
「うん、でも、君は弾けるでしょ?」
男はさも当たり前かのようにニッコリ笑ってこちらを見つめる。その自信満々な顔はどこから来たのだろう。でも私は弾けない。弾けるわけがない。
心の中でぐるぐる考えていると、顔に出ていたのか、さっきより少し小さく笑って
「今って楽器の演奏しても大丈夫?」
と訪ねてきた。
「うん。防音室ならいつ弾いても大丈夫だよ。」
そう答えると弾はピアノに向かった。驚く私を他所に弾の指が鍵盤を走り出す。
『あぁ、どうか いつか
僕のわがままが終わるまで』
彼の指は滞ることなく流れていく。それと同時にさっきの柔らかな声とはうって変わった力強い歌声が狭い防音室に響き渡る。私も聞いたことある曲だ。題名はなんだったか…
『どうにか届くように 届くように、と綴る
でもやっぱり100は無理 ちょっとあ、無理。で終わり
弱い人ばっかいます この世は弱い人ばっかいます
そんなとこだけでもどこかに響けばいいなと思っています』
背中を押された。ような気がした。力強く、「大丈夫」と言われているようだった。その時、急に昔の記憶が蘇ってきた。
「雪はお歌もピアノも上手だなあ!父さんなんてあっという間に抜かれちゃいそうだ!」
「うん!ゆき、いつかね!おとうさんとおなじぐらいピアノひけるようになる!」
「おお!楽しみだな!いいか!雪!」
「なぁに?」
「音楽にはな、力があるんだ。すごい力がある。きっといつか雪を助けてくれるからな。」
「?うん!」
「雪ー、ピアノは弾かないのか?」
「ごめんなさい!今日はお友達と遊ぶの!」
「そうか!楽しんでな!」
「…雪、最近どうだ?」
「は?どうもしないけど。」
「そうか…。…その、ピアノはもういいのか?」
「今それどころじゃないから。」
「ねえ、あなた。もうピアノ売っちゃわない?あの子ももう弾かなさそうだし…。」
「いや、きっとピアノがあることがいつかあの子の助けになる。音楽には力があるんだ。」
「あなたがそう言うならいいけど…。」
「あ、ねぇ。」
「ん?どうした?改まって。」
「転勤することになった。愛媛県。だから、一人暮らししようと思う。」
「そうか…。部屋は決まっているのか?」
「ううん、まだ。」
「そうか。それなら防音室がある部屋にして、ピアノをおけ。足りない分がお父さんが出す。」
「は?なんで…、邪魔なだけなのに…。」
「音楽には、力がある。お前をきっと助けてくれる。」
「はあ…。まあ、広い部屋に住めるならいいか…」
「音楽には力がある。」それが父の口癖だった。父はよくギターを弾いていた。私はそのギターと、父の少し音の外れた歌を聞くのが好きだった。それから私も楽器がやりたくなり、近くのピアノの教室に通うようになった。初めは父と演奏したくて、一生懸命練習した。しかし年齢が上がるにつれピアノに触れる回数は減っていった。父は何も言わなかった。私は見て見ぬ振りをした。ただ、いくつになっても気持ちが荒れるとピアノを弾いていた。友達と喧嘩した時、テストの点が悪かった時、部活の試合で負けた時、彼氏にふられた時、いつも私はピアノを弾いていた。なぜだか自分でもわからなかった。ただ、ピアノを弾くと落ち着いた。
転勤が決まった時、父はピアノを持っていくように言った。そんな暇ない、と言い張ったが父は折れなかった。初めて父が厳しい顔で怒鳴りもせず、しかし怖いぐらいの重みで言った。その時の私は仕方なく折れた。それから弾くこともないと思っていた。だが、私はよくピアノに向かっていた。仕事が辛い時、同僚と馴染めなかった時、ホームシックになった時に私を助けてくれたのはピアノだった。恥ずかしいことだと他人にはひた隠してきたが、ピアノだけが私の救いだった。それは、今も。
「音楽には力がある」
ああ、確かに。やっと分かったよ。こう言うことだったんだね。
『書き綴られた歌は私の、そう、遺言』
そうして曲が終わった。私はまた泣いていた。弾はこちらを見て笑う。
「ピアノ、好きなんだね。鍵盤にホコリがない。よく弾いてる証拠だ。」
バレていた。初めから。だから彼はギターではなくピアノを弾いた。私に気づかせるために。
「ねえ、」
彼が私に声をかける。
「次は君の音を聴かせて?」
背中を押してくれる、力強い笑顔だった。私は頷き、彼が開けてくれた椅子に座る。鍵盤が指に馴染む。曲は昔から好きなあれにしよう。
『君を忘れない 曲がりくねった道を行く
生まれたての太陽と 夢を渡る黄色い砂』
考えるより先に指が動く。歌うつもりもなかったが、歌詞が口を飛び出す。心から漏れてるみたいに音が止まらない。
『愛してるの響きだけで 強くなれる気がしたよ
ささやかな喜びを 潰れるほど抱きしめて』
父と一緒の曲がやりたくて必死に覚えたメロディをなぞる。父はよくこの曲を弾き語って聴かせてくれた。母が言うには私が母のお腹の中にいる時から聞いていたらしい。私がピアノを弾いている時母はよくあの人の娘ね、と嬉しそうに笑った。父がギターを弾き、母が歌うこともあった。いつだったか、私がある程度の年齢になった時、母は父の歌に惚れたのだ、と教えてくれた。父にそれを話すと照れながら「音楽の力だ。」と笑った。父と普通に話していたから小学生の頃だろう。私はそれを聞いてなぜだか自分がとても嬉しくなったのをよく覚えている。
最後の一音を弾き切ると横から拍手が聞こえた。弾は嬉しそうにこちらを見ている。久々に人に拍手なんてされた。照れと喜びで思わず顔が綻ぶ。
「やっぱりうまいじゃん。」
「なんか、照れるね。」
「いい音だった。雪がこの曲を大事にしてるのが伝わったよ。」
「うん、そう。とても、大事な曲なの。」
目を閉じて答える。私の瞼の裏にはあの日の父の顔が写っていた。
その後、私は彼に家族の話をした。なんとなく誰かに聞いて欲しかった。逆に彼の話も聞いた。今まで旅してきた場所の話を。北海道でアイヌの原住民と音楽でわかりあった話。たまたま知り合った漁師の船に乗って漁に出た話。ギターを背負って山を越え隣町まで歩いた話。その後に飲んだ湧き水が信じられないぐらい美味しかった話。どれも私にとっては新鮮だった。同時に、同い年でありながら自由に生きている弾が羨ましくなった。思わず、
「いいなぁ。」
と言葉が漏れる。彼が首をかしげてこちらを見てくる。私は少し慌てて
「あ、ごめん。なんか楽しそうで羨ましくて。あんまり旅行とか行ってなかったから…。」
「なんだ、そんなこと。」
そんなこととはなんだ。私は羨ましかったのに。私がむすっとしていると弾は私を見て大笑いしている。それでまたむすっとしていると
「顔に出てるよ。」
とまた笑われた。そんなに私ってわかりやすかったっけ…?
「それに羨ましいなら行けばいいじゃん。」
行けばいいって弾が簡単に言う。
「でもいけるかな…。」
「やろうと思えばなんでもできるもんだよ、人間って。」
急に真面目な顔して哲学者みたいなことを言うものだから笑ってしまった。それに、と弾が続ける。
「そんな時こそ音楽の力でしょ?」
と言う。その顔はやけに力強く、私は力をもらった気がした。
翌朝、いい匂いで目が覚めると、弾が朝ごはんを作ってくれていた。泊めてくれたお礼、と言いとても美味しそうな朝食が久々に私の食卓に並んだ。どうやら朝のうちに買い物に行ったらしい。そんなに買い物ができるとこあったっけ…?、と私が考えていると弾は徒歩5分程度のところのスーパーだと教えてくれた。それは駅から反対方向にあり、一年間で一度も言ったことがない道だった。そんな道が近所にあることに驚きつつ、どれだけ仕事しかしてなかったかと思い知らされる。2人で健康的な朝食を食べていた時、
「これを食べたら出発しようと思う。」
と言った。そうか、彼は旅人だ。ここに長居する理由はない。
「そっか。これからどこへ行くの?」
私がなんとなく尋ねると弾は
「とりあえず四国を一周しようと思うんだ。後3週間は自由だからね。」
と答えた。まだまだ旅は続くみたいだ。羨ましい気持ちが再び湧き上がる。きっと彼はこれからいろんな人に会い、私の知らない世界を見続けるのだろう。
彼と一緒に行けば、私も見れるだろうか。
「私も行きたい。」
考えるより先に言葉が出ていた。お茶を飲んでいた彼は目をまんまるにして驚き、お茶を吹き出すことはなかったが、変なところに入ったのか咳き込み始めた。私が慌てて何かしようとすると、彼はそれを手で制し、物の数秒で落ち着き始めた。そして
「えっと…。どうしたの?」
とこちらを見てくる。
「ごめん!驚かせたよね。なんとなく羨ましくて、弾と行けば私も変われるかなって。」
と私が素直に答えると弾は少し言いづらそうに
「あーごめん。俺、人といるの苦手で…。」
と言い出した。こんなにも人懐こい彼が何を、と思うがそもそも出会って1日も立たない女と旅なんてできるわけがない。むしろ私がどうかしている。
「そりゃそうだよね!つい口に出ちゃっただけだから気にしないで!」
焦って変な感じの謝罪をしてしまう。ああ、何してるんだ…、後悔と恥ずかしさで俯く私に彼は
「大丈夫。」
と優しい声をかけた。何が大丈夫なものか。恥ずかしさで埋まりたいのに。と彼を見ると続けて「雪はもう変われると思う。」
根拠はないんだけどね、と弾は照れ臭そうに頬をかく。何度私は彼に背中を押されるんだろう。彼が言うと不思議とできてしまう気がする。そうだ、こんな時こそ
「音楽の力、だよね。」
全く会話は成立していないが、弾は嬉しそうに笑ってくれた。
ご飯を食べ終えると思い立ったように「洗濯機借りていい?」と聞かれ了承するとギターケースから2、3枚の服を出してきた。たったそれだけで旅をしているようだ。そんなところも旅人らしい。洗濯機で乾燥までのコースを選び、終わるまでの時間彼のギターを聞かせてもらった。最新のヒット曲から昔のあまり有名でない曲まで弾のレパートリーは広かった。たまに私に「歌える?」と無茶振りするものだから困る。しかし弾は少し音の外れた私の歌に合わせ、とても楽しそうにギターを奏でた。洗濯が終わり、ピーと言う電子音が聞こえると、弾は帰り支度を始めた。駅までは見送ろうと私も軽く準備をする。と、言っても弾がいるので化粧はすでにしてるしいつもの部屋着でなく普段着だったので日焼け止めを塗る程度だが。
そうして準備が終わり彼と共に家を出る。普段なら長く感じる駅までの道も、話しながらだとあっという間だ。弾が乗る電車がちょうど到着した。弾は最後に
「泊めてくれてありがとう。本当に助かった。頑張って。」
と別れにしては短い言葉を述べて電車に乗り込んだ。最後に小さく手をふった弾の姿はあっという間に見えなくなった。でも、これが正しい別れ方なんだろう。彼の旅はまだ続くのだから。
駅を出て、さっきまで2人で歩いた道を1人戻る。寂しくないわけじゃない。たった一晩で彼からいろいろなことを教わった。でも今の私は無敵だ。誰もいないのをいいことに、スマホのスピーカーでお気に入りの曲を流す。なんでもできる。とりあえず、帰ったらお父さんに連絡しよう。そして一緒に音楽をしよう。夏休みだ。時間はたっぷりある。ここから東京までどうやって行くかも考えなきゃ。新幹線じゃ簡単すぎるかな。夜行バスもいい。いっそ電車を乗り継いで行ってみようか。アップテンポの曲に合わせて私は家へ向かう足を早めた。
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