マッチ売りの少女

蛍さん

マッチ売りの少女



その日は、空が高かった。

星々は控えめに地を照らし、少し欠けた月は等間隔の建物に影を落とした。


冷たく乾いた空気が男の頬を控えめに撫でた。


いい夜だった。とても。


男は舗装された道路をゆっくりと歩いた。


珍しく人通りが少なく、歩くたびに、カツン、と軽快な音が響いた。


それがまた、男の気分を高揚させた。


男は暫く一定のリズムを刻んでいたが、ふと、足を止めた。


男は急に、彼にまとわりつく白い息が煩わしくなったのだ。


いい夜だった。

こんなにいい冬の夜には、煙草の煙を吐きながら帰路を過ごすのが、男には礼儀のように感じて仕方がなかった。


男はコートの胸ポケットから煙草を取り出し…すぐにそれを同じ場所に仕舞った。


男は、安物のライターしか手元にないことを思い出したのだ。


元々煙草の火なんてものに違いを見出すような性格ではなかったが、ここで安物のライターで煙草をつけるのは、どうも憚られた。


マッチが欲しい。

彼は思った。


どんな星々にも負けない輝きを持ちながら、手元で小さな火花を散らす、あのいじらしさが欲しかった。


血液を指先から与えてくれるような、あの温かさが欲しかった。


一度そう思うと、どうにも気にかかる。


男はこの夜が一気に台無しにされた気分になって、男のリズムはすっかり速くなってしまった。


「どうにかマッチを手に入れられないものか」


男は左右の店を交互に首を振りながら、マッチが買えそうな店に目を光らせた。

だが、こんな夜はどこの店も閉まっているものだ。


男はすれ違う一人一人に話しかけて、マッチを一つくれないかと縋りつきたい気分だったが、男の自尊心はそうはさせてくれなかった。


いよいよ男は体が火照っているのを感じて、コートを脱いで腕にかけた。


この時の男は、もう全力で走って帰って、布団を被って寝てしまおうとすら考えていた。


狭い部屋で安物の煙をふかして、この夜のことは忘れてしまうと。


男の考えが帰った後に傾き始めた頃、間がいいのか悪いのか、マッチが現れた。


正確には、マッチ売りの少女が。


男は拍子抜けした。


諦めかけていた希望が、腕の中に突然飛び込んできたのだから。


男は少し足を緩めて、マッチを切望した感情をどうにか取り戻そうと煙草を触った。


火照った頬に乾いた風が心地よくて、街灯の光は男の切望を後押しした。


どうしてこんなに人通りの少ないところでマッチを売っているのか気にはなったが、再び膨れ上がったマッチを欲する感情はそんなものを押し流してしまった。


男は少女に近づき、少し早口で注文した。


「マッチを一つ」


男は鞄から財布を取り出して、少女の反応を待った。

一ドルか二ドルか、五ドルまで引き上げられても買ってしまおうと男は思った。

それほどに男はマッチを切望していた。


ところが、いくら待っても、少女は値段を口にしない。


不審に思って少女を上から観察すると、少女は熱心に男の服装を観察しているところだった。


その不躾な視線に男が不平を漏らそうとしたとき、少女は口を開いた。


幼さの残る声だった。


「五百ドルで、今夜私を買いませんか?」


男は予想しなかった言葉に、目をしばたたかせた。


少女の瞳に冗談ではないことを確認して、眉間の皺に指先を当てた。


「あー、五百ドル?」


男は困惑を隠さずに、少女に言葉を浴びせた。

ビジネスマンらしい、相手を値踏みするかのような声色だった。


少女は少し顔を赤くして、何も言わずに頷いた。


男の言葉には、「五百ドルもするのか」という意味が存分に含まれていた。


少女の顔は整ってはいたが、少し見ただけでも栄養が行き届いていないことが見てとれた。

明らかに高い値段設定からして、こういったことは初めてだろうし、いくらでも金を払いそうな奴らがいるのは想像に難くない。


だが、男にそのような趣味はないし、一回り小さな少女に欲情できる程飢えているわけでもなかった。


男は段々と苛立ってきた。


煙草が欲しかっただけだったのに、どうして面倒くさい事態に陥っているのかと、男は無意識に貧乏ゆすりをはじめた。


乾いた空気は男の貧乏ゆすりに呼応するタイルの音だけを伝え続けて、少女はついに俯いてしまった。


男は煙草の口を柔らかくなぞった後、財布から金を取り出した。


男はマッチが欲しかった。


血液をくれる温かさが、控えめに火花を散らすいじらしさが欲しかった。


男は財布からだした札を少女に握らせて、「残りは後でやる」と不機嫌そうに煙草を一本抜き出した。


少女は男の意図に従ってマッチを擦ったけれど、震えた少女の指先では、普段簡単に出来ることも上手くできなかった。


少女の焦る姿をみて、男は辛抱強く待った。


貧乏ゆすりはおさまっていた。


男が財布をしまい終わって、少女はようやく火を灯した。


パチパチ、と静かな音が、男を上気させた。

火を中心に、徐々に温かさが広がっていく。


それまでの苦悩がどうでもいい程、男の心は満たされていた。


少女は男の煙草に火をつけた。


男は少女に背を向けて歩き出した。


少し上方に向かって、煙草の煙を吐き出す。


少女は男の少し後ろに続いて歩き出した。



とても、いい夜だった。


その日は、空が高い日だった。

星々は控えめに地を照らし、少し欠けた月は等間隔の建物に影を落とした。


足音を混じらすマッチの火は、確かに彼に血液を与えた。


男には、こんないい夜はマッチの火でつけた煙草をふかして、ゆっくりと歩くのが礼儀のように思えて仕方がなかった。


少し肌寒さを感じて、男は腕にかけていたコートを着た。


その後ろには、マッチ売りの少女が続いていた。

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マッチ売りの少女 蛍さん @tyawan-keisan

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