優しい黒と最初の一歩

棗颯介

優しい黒

 黒は好きだ。

 すべてを覆い隠してくれるから。

 見たくないものも、考えたくないことも、明日も。


 仕事を休職してから今日で何日目になるだろう。

 子供の頃から憧れていた職業だった。学生の頃から勉学に励み、血反吐を吐くような思いで大学に合格し、専門的な知識を身に着け、就職活動では自分自身を騙しながら面接官に張りぼてのような笑顔と絵に描いたような将来への希望論を振り撒いて、今の職を手に入れた。すべてが、自分が思い描いた通りのはずだった。

 だが、現実は理想や夢だけで人に一生を終えることを許してくれるほど寛大ではなかった。そんなことは昔から理解していたはずだったのに。

 自分の身体に反抗期がやってきたのは唐突だった。思うように体が動いてくれない。朝ベッドから立ち上がることすら満足にできなくなった。指一本を動かすことすら、まるで錆びついたボルトからナットを外すような疲労感を覚える。声もしばらく発していない。もっとも立ち上がることすら満足にできない今は外出して誰かと話すことなどできはしないのだが。もとより、今は誰とも会いたくないし声も聴きたくない。

 疲れた。生きることに。

 元々、自分には生きる目標や理由はない。唯一の夢だった今の仕事にも就くことができた。そして自分には過ぎた夢であったことも今は知っている。もう自分には何かを頑張る理由もその力も既にない。キッチンの包丁を取り出して一思いに急所を突き刺すほどの力すら、今の自分にはなかった。


 1Kの狭いマンションのリビング。その部屋の隅の壁に背中を預けて身体を投げ出したまま、自分はこうして何日も過ごしている。

 部屋の電気は常に消灯している。

 暗い部屋に一人で何もせずに過ごす今の生活は、不思議と心地が良かった。何も考えなくて済むから。

 よくテレビや映画では心を病んだ登場人物がカーテンを閉めた薄暗い狭い部屋に引きこもっているシーンが描写されるが、あれは登場人物の心情を視覚的に表現する手法などではなく、れっきとしたリアリティに基づいているものだということがよく分かる。

 とにかく暗い部屋でただ真っ暗な“黒”を見つめているだけで心が落ち着く。傷ついた自分の心も、頭に嫌でも思い浮かぶ職場の慣れ親しんだ顔ぶれも、自分が立ち止まっている間にも目まぐるしく移り変わる世界の流れも、すべてがこの1Kの狭い部屋では“黒”に染まる。このまま太陽が昇らずに世界が“黒"に染まったとしたらどれほど生きやすい世界になるだろう。


 この数日あるいは数か月の間に、自分は“黒"という色に一種の愛着を感じ始めていた。

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