さよならのレプリカ

雨籠もり

さよならのレプリカ

 庭のひまわりが咲いたんだ。

 万年筆を新調したんだ。

 そんな下らないことを話すために、僕は小さな家を後にした。暗い夜に街並は静かに寝息をたて、星空は揺らぐように微かな輝きを放つ。熱を帯びたアスファルト。ポケットの中に携帯電話。この街で電波を拾うには、白花展望台まで歩かなくてはならない。

 流れ星がひとつ、地平線に吸い込まれる。

 僕は歩きながら、失われた日々を回想する。


 それは、遠い昔のことだった。

 僕がまだ小さなころ。僕の知る世界は今よりもずっと狭いもので、僕は、言葉を語る山羊も、小さな魔法使いも、ブリキの少年も、きっと何処かに存在すると信じていた。

 そんな、誰しもが通る幼少期のこと。

 僕には小さな、ひとりきりの友達がいた。

 いつも白い服を着ている、長い長い白髪の少女。彼女は透き通るような綺麗な肌を持ち、青空を掬って流し込んだかのような蒼色の瞳をしていた。

 彼女と初めて出会ったのは、とある夏の深夜のことだった。

 僕はいつもどおりに絵本を持ち出して、白花展望台に向かった。白花展望台には名も無い小さな白花が群生している。夜風に吹かれてその白い花弁が夜の黒に向かって飛びゆく姿が、幼い僕にはそれがまるで幻想の出来事であるかのように思われて、僕はそれが好きだった。

 白花という幻想の中心で絵画世界を旅する。

 それが僕の日常だった。

 そんなある日、僕が白花の最中で絵本を読んでいると、僕の肩を誰かの小さな手が叩いた。

「ねえ、こんな所で何をしているの?」

 振り返れば、そこに彼女はいた。

 僕は自分の右腕を挙げてみせて応える。

「生まれつき僕には右手が無くて、その所為でみんな僕のことを気味悪がるから、ここに避難してるんだ」

 僕の右手は肘から先がない。それを誰もが気味悪がる。仕方の無いこととは思う。当時の同級生も、私と同様に幼かったのだ。私のような、片手の無い人間に恐怖を抱くのはむしろ健全だ。

 ただ――僕には、辛かった。

 だから僕は幻想を選んだんだ。

「避難、か」

 けれど少女は――蒼の瞳の少女は、僕のことを怖がることは無かった。恐怖に遠ざかることも、憐憫に近寄ることもなく、ただ、彼女は僕の隣に座った。

「君もひとりぼっちなんだね」


 小さな夜に飲み込まれ、街並みは静寂に沈んでいた。僕が歩くに連れ家々の光は次々に失われ、やがて街灯だけが僕の道標となる。

 あの出会いを、今も懐かしむ。

 おもちゃ箱みたいな街に、僕も彼女もひとりきりだった。世界はあまりにも広すぎて、人の命すら曖昧になる。きっと僕らは、誰か寄り添う人を探していたんだ。


 それから僕らは沢山の絵本を読み聞かせ合うようになった。夜になれば、僕らは互いに絵本を持ち寄って白花展望台に集まり、ページを捲って、画用紙一枚の世界に没頭した。たったそれだけのありふれた日々を、僕は彼女と過ごした。

「ねえ、知ってる?」

 ある日、彼女は僕にふと、呼び掛けた。

「流れ星が私たちの目に留まる時間って、一秒にも満たないんだよ。だから、流れ星に願いを託すなんて無謀なことなんだ」

 僕は絵本をぱたりと閉じて応える。

「本当に?」

「本当。祈っても願っても、現実が変わることなんてないんだ。予め決められたレールのうえじゃ、何をしても行先は同じだ。」

 白色の花弁がまたひとつ、夜空に向かって飛び立って行った。灯台の灯りが弧を描く。僕らのことを、満月の円が切り取ってしまう。

 彼女は続ける。ポケットから携帯電話を取り出して、僕にそっと差し出す。

「だから、同じ一秒に祈りを託すなら、君ともっと話すことに託したいんだ。流れ星よりも確かなものに。私だけが信じられるものに。」

 僕はそれを受け取る。携帯電話を触ったのは初めてだった。灰色のカバーに身を包んだそれは、僕の手の中にずっしりと存在した。

「どうして携帯なの?」

 僕は彼女を見つめ直して訊く。背景の星空が月明かりを伴ってより輝いて見える。白色の花弁が揺らぐ。雨蛙が跳ねる。衛星が明滅する。

「私、もうここに来れないからさ」

「……もう、来れない。」

「そう。君にももう、会えなくなる。引越しだと思えば分かりやすいかな。でも、私と君が離れ離れになったとしても――ここに来れば、電波は届くから、話すことは出来る。読み聞かせは出来るんだよ。まるで傍にいるみたいに。」


 街路の端に向かって、そこからじぐざぐに伸びる階段を見上げた。僕は再び歩き出す。アスファルトの硬質さを離れて、何処か浮遊しているかのような感覚に陥る。そのまま続けて階段を登る。ひとつ、ふたつと繰り返し――そして僕は、ふと街を振り返る。

 街はひっそりと寝静まっていた。

 点々と灯る街灯の光りが、互いに互いの存在を証明し合っている。月明かりが少し強いせいか、世界はいつもより明るく、それでいて何処か冷たい。

 夜風に吹かれて、無い右腕の袖がなびく。

 今もまだ、白の花弁は震えているのだろうか。


 白花展望台から彼女がいなくなって。僕が通話で彼女に読み聞かせをする夜が幾度と訪れた。流れ星は幾度も地平線へと吸い込まれ、夜は何度も現れた。星座は何周も回旋し、白の花弁は夜風と共に月へと飛び立つ。

 僕は彼女の傍にいて、彼女は僕の傍にいた。

 そうした日々を過ごすうちに、僕はとある感情の存在に気づいた。未知に近い恐怖。不確かで不完全なもの。それは何処か信頼に似て、確信に近く、運命に重なる。純粋な安心感。宇宙にひとり、放り出されたような、不安と、焦燥と、憧憬。

 今になってみれば、それは恋だったのだろう。

 僕は彼女に恋をしていた。


「死について考えたことはある?」

 彼女が突然、そんなことを尋ねた夜があった。

「死。」

「そう、死ぬこと。失われること。」

「……ない、よ」

「そう――私、最近よく考えてしまって。たとえ電話で君と繋がっていても、部屋に私はひとりだから、心細くて。余計に死を身近に感じてしまう」

 彼女はそのまま、続ける。

「死というものは、とても恐ろしいものだよ。東の魔女や狼男、ヴァンパイアよりも恐ろしい。凶暴で唐突で、あまりにも呆気ない。それでいて、それは本当に存在するんだ」

 幾許の流れ星が、夜空を駆け巡る。

「私は――死ぬことが、怖い。」

 僕は彼女の泣く声を、その時初めて耳にした。


 今でも僕は覚えている。

 白花展望台の中心で、彼女の泣き声を聞いたあの瞬間を。掴める場所にあるものを掴めずに、ただ僕は呆然と座り込んでいた。ひとりで泣き続ける彼女に対して、僕は何を言うことも出来なかった。

 階段を登りきる。灯台の足元が見える。月明かりの照らす一面の白花。千切れて飛び去る白の欠片。駆ける数匹の流れ星。一秒にも満たない輝き。


 ある時から、通話の調子が嫌に良くなった。

 白花展望台に登ったとしても、携帯電話は途切れ途切れにしか繋がらない。それなのに、ノイズすらない彼女の声がはっきりと聞こえる。

 いつからだったろうか。

 彼女の着ている白い服が、入院服であることに気づいたのは、いつからだったろうか。

 彼女の引越しが、一般病棟から集中治療室への移動であるということに気づいたのは、いつからだったろうか。

 彼女の肌の白さや、髪の毛の白さが、投薬される薬の副作用であることに気づいたのは、いつからだったろうか。

 白花の大地に踏み込む。

 僕は再び、彼女に電話を掛ける。


『もしもし、久しぶり。元気?』


「……元気だよ。君に貰ったひまわりの種、枯らしてばかりだったけれど、この前ようやく花が咲いたんだ」


『今日はなんの絵本を読んでくれるの?』


「万年筆も新調してさ。僕、絵本を描こうと思うんだ。誰かに伝えたいことが出来たから」


『へえ、今日はその本を読んでくれるんだね。じゃあ、聞いてるよ』


「君がいなくなって何年か経ったね。白花は相変わらず咲き続けてる。灯台も。ここに来ないと電波が届かない街の不便さも変わってない。僕だけが歳をとって、まるで仲間はずれみたいだ。」


『うん』


「そう言えばなんだか凄く怖いことがあってさ。僕には大切な人がいて、その人は既に亡くなってしまったのだけれど、その人のことを、ちゃんと覚えていられているのか、忘れてしまうんじゃないかって、凄く怖いんだ。」


『うん』


「思い出せないことが多すぎて、覚えていないことそれ自体も忘れてしまっているような気がして、僕はずっと不安なんだ。」


『うん』


「僕はひとりじゃ歩けないんだ。僕はひとりじゃ生きていけないんだ。誰かに寄り添いながら、縋りながら、ずっとずっと生きてきた。ねえ、君は本当に――そんな声をしていたのかな」


『……』


「僕は君の祈りになれたのか?」


 ――私だけが信じられるものに。


『ありがとう。良かった。』


 彼女は何度か鼻をすすり、それから泣声を隠すようにして言った。


『……君に出会えて、本当に良かった。本当に良かった。それじゃあ――またね』


 分かっている。

 泣き腫らした彼女の声が、録音されたものだってことは、とっくの昔に気付いている。

 留守番電話と同じだ。予め録音していた音声を電話が掛かる度に再生する。それだけだ。彼女は僕が再び読み聞かせに電話を掛けると知っていて、自分がいなくなったその後の為に声を残したんだ。死の恐怖に打ち震えながら。大病と闘いながら。

 僕に死の恐怖を与えない為に。

 分かっている。

 またね、のその先が、未来永劫、存在しないということも、ちゃんと理解している。だって僕はもう大人だから。言葉を語る山羊も、小さな魔法使いも、ブリキの少年も、何処にもいないことなんて、分かりきったことじゃないか。

 君がもういないことも。

 これはさよならの模造品レプリカだ。

 僕を悲しませない為に彼女が用意した偽物だ。

 偽物だってことも、ちゃんと理解している。

 それでも信じてしまうんだよ。

 白花が舞い踊る。月光を跳ね返す。左手から携帯が滑り落ちる。静寂の最中に潜る。からの左手でくうを掴む。

 僕はさよならのレプリカを信じる。

 届かない祈りを祈り続ける。

 物語のその先を、僕はずっとここで待っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さよならのレプリカ 雨籠もり @gingithune

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ