星の系譜

空山迪明

第1話 兆し

 薄曇りだった空が、更に泣きそうな色を増した。

 小高い山の頂上付近に建てられた星社ほしやしろは拝殿付近とその境内も、上り下りする長い石段の間も、そしてそれを下りきった歩道も、大勢の参拝客と開かれた出店で賑わっていた。

 その流れの中で、大きくも小さくも人々は出会い別れをどんどん繰り返す。知っている人知らない人に関わらず。

 一つの時間に生きる者にとって、過去と未来は同時に現在いまに存在する。

 すべては一瞬にしてときに切り取られるできごと。

 今人がすれ違うことも、またいずれ出会うことも。

「お姉ちゃん!」

「……あ、うん!」

 足を止めた者も。

「……、」

 そして、ふとふり返った者も。

 刻の流れだけは何者にも止めがたく、この世にるものの上にはそ知らぬ顔をして等しくり過ぎ去っていく。

 切り取られた一切れ一切れが重なり、絡まり、より合わさって流れを作る。

 世界はそうやって、記憶ものがたりを繋いでいく。

 ひとしずく、空がとうとう涙をこぼした。



 この世界には星の力というものが存在する。

 星は天の力の現れとされ、星そのものの発する力、そしてそれらの象る座や相をあやつり、そこから得られる様々な効力を利用して、人々も他の多くの存在も世界と共に生きてきた。

 嘘か真か信じるか信じないかはともかくも。

 世界は天・現世・常世に分割され、すべては天の管理下にある、と言われている。少なくとも人々の間では昔からそういう話が伝承としては存在した。

 そして空に地上に精霊しょうりょう達をも一様に天の力の一端と見なして崇め敬い、更には彼らに請うてやしろへ祀り、様々な祭礼・儀式などをも行ってきた。

 その精霊達を祀る社のことを星社と書いて、ほしやしろ、あるいはせいしゃと言う。

 ただ、世界に存在する人々を初めとした多種多様な存在達の進化、そして膨大な時代の積み重ねと共に、それらの流れも変化しつつある。

 長い長い、途方もなく長い時間を刻み続ける世界は、常に岐路に立っている。


 蠱魅やみは、音を立てずにやってくる。


 歴史ながれの行き着く未来さきは、多くの存在が選択してきたありとあらゆる事象の集積の上に現れる。

 ここにまた一つ。

 小さな事象できごとが歴史に絡め取られようとしていた。

 この歴史はどんな結果を、進んだ先に得るのだろうか。



 緩やかな傾斜のある歩道をのんびりと下りながら、呂花おとかは初夏の明るい日差しと、この時期特有の爽やかな昼間の空気を満喫していた。

 葉台はだいと呼ばれるこの星には東西南北に分かれた五つの大陸があり、東から東国とうごく大陸、南国なんごく大陸、西国さいごく大陸、北国ほっこく大陸そして、それらの大陸の真ん中に位置する大陸を和国わこく大陸と呼び、世界全体の中心としている。

 それぞれの大陸が大小の違う国を有するのに対し、世界の中心となる和国大陸だけは異なるというものが存在しない。

 世界の中央機関、〈公政廷こうせいてい〉をおくためだ。

 そして東国大陸の西よりにある佐久羽良さくわらという小国の一地域、晴上はれのぼり見守みもり呂花は住んでいる。

 都会でもないがそこまで田舎でもない。

 黒い細縁の小ぶりな眼鏡。明るい白緑色の前開きパーカー。その下に薄く丸首で襟、ボタン無しの薄い淡黄色のシャツ。ズボンは柔らかい生地で体にぴったりつく感じの踝丈。色は白を混ぜたような紺色だ。足下には白に薄い赤色ラインの入ったスポーツシューズ。肩には小さな薄灰色の鞄をかけている。

 ちょっとすると走り出しそうな装いで、女性の一般的な平均身長よりやや小柄な呂花は目的地を目指す。

 優しい風が、歩道脇に植えられた木々の若々しい葉っぱの香りを運んでくる。

 呂花の瞳と同じ黒の長い髪が、まとめられたうなじ辺りから小さく揺れた。顔を上げて呂花は小さく笑んだ。

 人が大勢行き交う通りではない分、穏やかな静けさが多く広く営みの音と気配を拾っていく。

 誰も何もいない、でもそれらと決して離れすぎない。その隙間のあいた空間で、その場とそこに在る感覚を感じるのが、呂花は好きだった。

 出かけた先でそういう心地良い空間や一瞬を見つけられると、嬉しくなる。

 斜面の歩道を下りきって少しだけ平地を歩くと、幅の狭い川に渡された短い橋を渡る。

 そこでようやく呂花は目的地に着いた。

「呂花!」

 友人の声に手を振って呂花は応える。もうみんな集まっているらしい。

 それぞれに初夏らしい服装で、それを見るだけでも気分は明るくなる。

 今日は久しぶりに学校時代の友達と会う約束をしていたのだ。社会人になってからはみんなで会う機会は減り、たまにこうやって会えるのは嬉しい。

 待ち合わせの場所から少し離れた小さなカフェに入ると、休日ということもあってかそこそこ人で席は埋まっていた。最近できたらしい。

 自分から話をするのは呂花は苦手だけれど、人の話を聞くのは嫌いじゃない。身振り手振りを加えてどこか大袈裟に話す友達の様子は結構面白かったりする。

「みや、秋に結婚するんだって!」

 見た目もボーイッシュでいつもみんなを引っ張っていってくれる総子ふさこが開口一番に言って、他の二人が色めき立った。

 呂花も軽く驚いた。

「わ、そうなの!相手は?」

 肩より少し長い髪を揺らして、身を乗り出すように言ったのは五人の中で一番美人の江里えりだ。

「うん。会社の取引先の人」

 尋ねられてどこか恥ずかしそうなみやは、長い髪を耳にかき上げるようにしながらおっとりと言った。

 いつも穏やかで、見るからに優しそうなみやが、五人の中で一番に結婚するのは呂花には納得がいく気がする。

「えーっ、抜け駆け〰〰っ」

 愛嬌のある顔立ちの紀実が呂花の隣でその真っ黒い瞳をくるくるさせながら声を上げた。

「良かったね。おめでとう」

 呂花も笑顔で祝福しながら、今回の急な集まりが何の理由だったのか得心がいった。

「ああ、私もい人見つけたい!」

「いや、あんたは仕事が恋人あいてでしょうが」

「バレたか」

 紀実が言って前の席から総子が突っ込むと、軽く笑いが起こる。

 人生の転換期は人それぞれ。やりたいこと、目標、望み、夢もそれぞれ。

 意外に自分の友達はそれをはっきり持っていたりする。

「おとちゃんは、最近どう?何か変化があった?」

「え?」

 急に話を振られて呂花は顔を上げる。

「んー、変化は特別ないかなぁ」

 呂花は笑って言った。

 最近をふり返っても話題に挙げられるような内容は思い当たらない。

 だからといって呂花はそれに不満はない。

 変わらない日常。

 時々退屈に思うときもあるし、仕事などが好きかと問われれば、正直それほど好きではない。

 けれど自分が不幸せだなどと、呂花は思ったことがなかった。

 気分が塞ぐそんなとき時には、外に空気の良い居心地の良い場所を探しに行く。何か特別な事や物がほしいなどと、不思議なことに呂花は思ったことがなかった。

 逆にそんな自分が幸せなのかもしれない、と思ったりもする。

 呂花は自分がとても恵まれていると思っているから。家族がいて、帰る家があって、好きではなくても仕事もあって。これからは会う機会ももっと減るかも知れないけれど、こうやって友達もいる。

 それに。

 日々気づくことがない時があっても、近くに何だろう。自然がある、などと口にすれば少し恥かしい気もするが。だって呂花は深くそれらを知っているわけじゃない。

 ただちょっと気持ちの良い太陽の光や、先ほどのように心地良い風が。通り過ぎていく動物たちの声音や羽音なんかに、側を掠めていく植物達の気配が。舗装はされていても足下にはおおらかな大地が、いつも自分を穏やかに迎えてくれる。受け入れくれる。

 その感じが呂花は本当に好きだった。

 何を詳しく勉強して、深く濃く沢山知っているわけでもない。

 自分の知っているほんの少しのこと。

 それをめいっぱい感じられるだけで、無性に嬉しくなる。

 だからそれ以上に何かを求めようとは、呂花は思うことがない。

 ただそれを言うと何となく、感覚がずれていると言われる気がして口に出すことはないのだが。

「……呂花」

「おとちゃん……」

 総子と江里がみやを挟んだ両脇から、やや呆れたような顔で呂花を見ていた。

「え?」

「いや、おとちゃんは昔っからそんななんだよ」

「確かに……」

 紀実とみやにまで何か言いたそうな顔をされて、呂花は無理にでも何か言えば良かっただろうかと思う。

「とにかく。みやのお祝い旅行に行こう、呂花」

 左斜め前の席から総子に言われて、呂花はもう一つ笑って言った。

「……じゃあ、それが変化かな」

 ああ、もう、と頭を抱えながらも四人は呂花を見て苦笑した。

「それで、どこに行くか決めたの?」

 江里に言われて総子とみやが顔を見合わせる。

「まだ。今日決めようと思って、資料だけ持ってきたの」

「ふーん」

 総子は行き先の違う旅行会社のパンフレットをいくつか取り出してテーブルに広げた。

英橋ひらばし谷萩たにおぎ、ちょっと国境越えて歩堆かちて国の塑南そな。それから檜晶かいしょう新駒数さらくす……」

 国境を越えた塑南があるものの、すべてこの晴上からあまり離れていない場所だ。

「みやちゃんはどこが良いの?」

 呂花の右斜め前、隣の江里に言われてみやは考えるようにパンフレットをいくつか見比べていたが、不意に顔を上げた。

「おとちゃん決めて」

「え?」

 ふっくらした愛らしい笑顔で言われて、呂花は目を丸くしてみやを見た。

「みやちゃんのお祝い旅行だよ?やっぱり主役が決めないと」

「うん。でもおとちゃんに決めて欲しいな」

「えぇ?」

「……呂花、みやのご指名だよ。はいっ、どこ?」

 困ったような呂花に総子が間をおかずに言う。

「うっわぁ、責任重大……」

「そうよ!おとちゃん、しっかり選んでよ」

「大丈夫、大丈夫。楽しければ問題ない」

 念押しする紀実の後に江里がさらりと言った。

「……江里ちゃん、軽くプレッシャー」

 ぽつりと言って呂花はそうだなあ、とテーブルに並べられたパンフレットを眺める。

「んー。みやちゃん、良いの?後悔しない?」

 両腕をテーブルの上にのせると、目の前のみやを迫るように呂花は眼鏡の下から上目遣いに覗いた。

 ただ口元は笑っている。

「……多分」

 浮かべた笑顔のまま言われて、呂花は身を引いて大きく天井を見上げた。

「か〰〰、自信がないなら自分で選びましょう!」

「わーっ、嘘だって!おとちゃん!」

 他愛のないやりとりに笑いが起こる。

 本当にこんなささやかなことでも、呂花にとっては穏やかで優しい、ほっとする一時だ。

「おとちゃん、お願いします」

 拝むようにみやが手を合せて呂花を見て、呂花も三人ももう一度笑った。

「拝むんなら星社に行かないとね……」

 言いながら呂花はパンフレットを開いていく。どの候補も捨てがたいが、呂花はふと手を止めて言った。

「檜晶」

「おー、佐久羽良のど真ん中」

 総子が言った。

「珍しー。おとちゃんが人の多い所選ぶの」

 江里が意外そうに呂花を見る。

 確かに。何かにつけて呂花は人の少ない所を選ぶ傾向にはある。人が多いとその流れに絡め取られて、息ができなくなりそうな気がするのだ。

 それは少し極端すぎると言われそうだが。

 もちろん呂花は人が嫌いなわけではない。

 ただ人と接するのが得意でもない。

 一度東国大陸の中心である望礎ぼうそ国に、それも首都に行ってあまりの人の多さに人酔いしてからは、極力人の少ない場所にしか行かなくなった。

 確かに檜晶は佐久羽良の首都に近くて人口も多く、都市化されている自治体だ。

 一つ、パンフレットの一文が呂花の目を引いた。

「だって、星社の数が佐久羽良で一位って書いてあるよ」

 星社が多いのであれば、人口は多くても落ち着ける場所はあるだろうと、勝手な想像ながら呂花はそう思う。

 星社の周辺には大なり小なりもりがあるし、賑やかな星社もあるが静かな所も多い。もし人酔いしたとしてもどこかで落ち着くことはできるだろう。

 時には人の多い場所に行ってみても悪くない気がする。

「へー、結構都市なのにね」

「意外だね」

みやが感心したように言って、紀実が頷いた。

「ふぅん。……じゃあ、檜晶で決まり?」

 総子が呂花を見た。

「みやちゃん、良い?」

「うん、良いよ」

 呂花が最終確認するように言ってみやが頷いた。

 ひとしきり旅行の計画の話をして間で自分達の話をすると、いつの間にかもう夕方だ。

 名残はつきないが、次の日はみんな仕事である。

 昼間の太陽よりやや黒味を帯びた夕日が、それでも優しい光を呂花に注ぐ。背中に当たる日差しはそろそろ暑さが加わってくる頃でもあるが。

 帰りは場所を変えた都合で行きとは違う道を呂花は歩いていた。交通機関を使って帰っても良いのだが、まだ明るいし人の通りもそこそこある。

 今日はその流れに乗って呂花は帰ることに決めた。

 休日の夕方は普段よりもゆったりとしていて、本当に穏やかだ。通りを行く人達も急ぐ足取りではない。

 空気はほとんど凪いでいて、みんなに置いて行かれたのか、わずかに残った風が頬をくすぐっていく。

 時々あまりに居心地良い場所にいると、そのまま空気に吸い込まれてしまいそうな感覚になる。でもそれも、呂花は嫌ではなかった。

 そういう感覚に浸れることもまた、幸せなのだと、ただそう思った。

 流れはゆっくり。

 追って、抜いて、抜かれて。

 出会い、すれ違い、別れて。

 後ろからも、前からも。

 流れはいくつもやってきて───。


───見つけた……。


 長袖シャツ、折り目のすっきり入った黒のズボン。足下も綺麗に磨かれた黒の靴。

 白のブラウスにこちらも黒で折り目の入った少し細身のズボン。そして足下にも黒色で踵の低いパンプス。

 どこかの会社員風の男女が一組、やや広い通りの歩道で足を止めた。

「どうかしましたか?しん?」

 縁令えんれいは隣を歩く、自分より頭一つ分ほど背の低い女性に声をかけた。

 仲宮なかのみや審。縁令の仕事上の知り合いである。

 黒色のやや赤みがかった短髪と同色の瞳で、縁令は彼女を見た。どこかぱっと見男女の別がつけがたい容姿だが、彼の容貌は通りを行く人々の目を惹く。

 縁令に声をかけられた彼女、審はしばらく立ち止まったまま、右目をそれが隠れるほど長く伸ばした前髪の上から右手で押さえて、考え込む風に黙り込んだ。ブラウスの袖がわずかに下がって、手首にはめた細かい鎖状の腕輪が光って見えた。

 ふと手を離して審は縁令をふり返る。

 反動で彼女の短い黒髪が肩の先で揺れ、両耳につけられた小さな緑涙玉の耳飾りが揺れた。

「縁令、悪い。急用だ」

 彼女は強ばった表情で縁令にそう言うと、くるりと反転して足早に去って行った。

 縁令は何を言うでもなく、ただその背を見送った。


 急げば三十分くらいの道を、一時間をかけて呂花はその空気を、感覚を満喫するようにゆっくりと家に向かった。

 やっとたどり着いた玄関の扉を開くと夕飯のおいしそうな匂いがする。

 呂花は笑って言った。

「ただいま」





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