第86話『イントレに登っちゃけない』
ポナの季節・86
『イントレに登っちゃけない』
「イントレに登っちゃいけないよ」
照明のチーフから注意されて「はい!」と夏は元気よく返事をしてしまった。
今日はアシスタント見習いの初日。チーフは夏が中学生なので「やってはいけないこと」から教えてくれた。その最後の注意が「イントレに登っちゃいけない」だった。
スタッフは揃いの黒のTシャツにガチ袋ぶら下げて首にはタオルを巻き、頭は黒いキャップかタオルをファッショナブルに巻いている。夏も同じ格好をするとイッチョマエに見えるが、ずぶの素人であり、ただの中学二年生だ。
「なっちゃんは、ケーブルを言われたところに運ぶのと巻き上げるのが仕事。注意もしたけど、危ないと思うことはやらないこと。いいね」
「はい」
ケーブルだけと言われて「なんだ」という気持ちがあったが、トラックの荷台を見てびっくりした。
ケーブルだけでも軽トラック一杯分ほどもある。
「ケーブルに番号がついてるから、図面を見ながら置いていって」
渡された図面は、ちょっとした電子回路みたいだ。
「とりあえず上のからやるか……」
一番上のケーブルを二つ持って、夏はつんのめった。
「重い……」
「一巻で八キロとか十キロとかあるからね、一巻ずつ運べばいいよ」
チーフは軽々と二つも三つも運んでいた。
お盆を過ぎたといっても、まだまだ八月、ケーブルを持って三回も往復すると汗みずくになる。
額から流れた汗が目に入る。
「ウ、沁みる!」思わず目をつぶってしまう。
「あ、危ない!」夏の後ろをケーブル持って小走りしていたスタッフがぶつかりかけた。
「すみません!」ここ二三年口にしたことがないお詫びの言葉が出てきた。
「なっちゃん汗かきみたいだから、鉢巻したほうがいいよ」
「え、鉢巻?」夏はタオルをよじって頭に巻いてみた。
「ハハ、こうするんだよ……」
スタッフは器用にタオルを巻きなおしてくれた。自分で巻いたのより幅広で頭にフィットした。
「なるほど、これで汗を吸い取ってくれるんですね」
「そう、それに少し大人っぽく見えるな」
なるほど何人かいる女性スタッフも同じようにやっている。
「ただのファッションじゃなかったんだ」
「おーい、その24番のケーブル持ってきて!」
足場の上のスタッフから声がかかった。
「はい、ただいま!」
夏ははりきって足場を登って行った。
十キロのケーブルを担いで、幅十センチほどのラッタルを上がるのは一苦労だ。
「ア、アアー!!」
背の高さほど上がったところで夏は足を踏み外した。一瞬死ぬと思った。
「え……」
体がなにかに受け止められた。
「チーフに言われたでしょ、イントレには登っちゃいけないって」
「あ、安祐美さん!?」
「心配だから見に来たの」
安祐美は素早く夏を地面に立たせてくれた。夏は一瞬目が回った。
「大丈夫か、なっちゃん!?」
チーフが顔色を変えてやってきた。
「あ、イントレって足場のことだったんですね」
「もっと分かりやすく説明すべきだったな」
チーフは恐縮したが、知ったかぶりで生返事した自分が悪いと反省する夏。
「でも、安祐美さんは?」
「え、安祐美なら、まだ東京だぜ」
「え、でも……」
「さ、早いとこ設営してしまおう」
夏の不思議は汗を一拭いすると、どこかへいってしまった。福島はまだ夏の盛りだった。
☆ 主な登場人物
父 寺沢達孝(60歳) 定年間近の高校教師
母 寺沢豊子(50歳) 父の元教え子。五人の子どもを育てた、しっかり母さん
長男 寺沢達幸(30歳) 海上自衛隊 一等海尉
次男 寺沢孝史(28歳) 元警察官、今は胡散臭い商社員、その後乃木坂の講師、現在行方不明
長女 寺沢優奈(26歳) 横浜中央署の女性警官
次女 寺沢優里(19歳) 城南大学社会学部二年生。身長・3サイズがポナといっしょ
三女 寺沢新子(15歳) 世田谷女学院一年生。一人歳の離れたミソッカス。自称ポナ(Person Of No Account )
ポチ 寺沢家の飼い犬、ポナと同い年。死んでペンダントになった。
高畑みなみ ポナの小学校からの親友(乃木坂学院高校)
支倉奈菜 ポナが世田谷女学院に入ってからの友だち。良くも悪くも一人っ子
橋本由紀 ポナのクラスメート、元気な生徒会副会長
浜崎安祐美 世田谷女学院に住み着いている幽霊
吉岡先生 美術の常勤講師、演劇部をしたくて仕方がない。
佐伯美智 父の演劇部の部長
蟹江大輔 ポナを好きな修学院高校の生徒
谷口真奈美 ポナの実の母
平沢夏 未知数の中学二年生
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