作文練習
りぜ
第1話 大富豪、城、月
どことなく浮ついた夜が、また今週もやってきた。夕焼けのオレンジと夜空の紫が描くグラデーションの下で、あちこちから聞こえる笑い声が道をゆく。おなじみの景色に、色とりどりの看板が光りはじめた。通勤ラッシュはあんなに嫌いなのに、飲み屋街の雑踏には不思議と愛着がわいてしまう。
エレベーターホールに響くパンプスの音も、このときだけは心なしか明るい。同僚のおしゃべりの中に、最近できた焼き鳥屋の名前を聞いた。焼き鳥もさることながら、お通しの胡麻豆腐が絶品なのだとか。口どけがどうこうと絶賛していた友人の声を思い出して、一瞬、決意が揺らいだのは事実だった。だから退路を経つように、すこしだけ大きな声を出した。
「ごめん、今日は帰るね」
感想聞かせてね、今度は絶対行くから。意識の端っこで言葉を並べながら、みんなと逆方向に歩き出す。真っ直ぐ駅へ。わたしの意志は固いのだ。
自宅の最寄駅に降り立ったころ、日はすっかり暮れていた。暗いもやに抱かれて優しい光を投げかける月は、微妙にいびつな円を描く。ほんの数日で満ちるだろうか。明日が楽しみな夜だね、あなたもわたしも。心の中でくすりと笑って、家路を急いだ。
誘惑だらけのこの街を歩くのは、実は至難の技なのである。駅を出てすぐのスパニッシュ・バルのにぎわいや、交差点の脇にある家庭料理屋のあたたかな明かり、マンション向かいのコンビニにたてられた「中華まんはじめました」の旗までもが容赦なくわたしの胃袋を刺激する。無心で、歩く。
鍵をカチリと回して、ようやく息をついた。ここまで来たら勝ちである。家の中では何にも邪魔をされない。ここは、わたしだけの城だ。
パンプスをそろえて、いそいそと部屋着に着替えて。まずはネギとわかめで味噌汁を仕上げた。作りおきしていた鳥むね肉のソテーに、気持ちばかりのサラダと、大根おろしを添える。誰かにもらった日本酒も並べた。ふっくら炊けた白米を多めによそって、とっておきの宝箱に手をかける。しっとりしたぬか床から、ごろごろ出てくる野菜たち。きゅうり、大根、なす、人参。色とりどりの宝石たちに包丁を入れるたび、歯応えの良さそうな音が鼓膜を揺らす。来たる休日を歓迎して、きゅうりなんて丸々一本食べてしまおう。
ああ、なんという贅沢。
翌日の朝を気にせずに、時間をかけて一食味わうことがどんなに幸せか。こうしてときたま、わたしが贅沢三昧の大富豪と化していることは、会社の皆には内緒である。
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