わたくしたちはいつまでも夫婦めおとの星。これから共にゆく場所にてもひとつのはちすの上にて目覚めましょう。

 女は年季が明け男は借金を返し、手に手を取ってやって来た露天神の森。まるで自分達のような連理の木にお互い身体をもたせかけ、女が早く早くと訴える。

 男が念仏を唱えると女の身体は光る泡のように溶けて消え、




   *   *   *




 『遺書(一)』の内容は次のようなものだ。



   *


 天己改元時に施行されたハッピーエンド法の適用範囲をさらに広げ、他者を傷付ける言動を禁じたいわゆる『拡大法』。天己四年、その施行前日に自殺を図った青年が、五日後に死亡する。

 彼の入院中に拡大法は施行され、病院側はその後、重傷ではあったものの意識清明で意思の疎通ができた青年に対し、当該法にのっとり希望死宣誓書に同意を求めている。しかし青年は病床でこれを繰り返し拒否したまま死亡。

 遺族は、病院側が患者にいちじるしいストレスを与え死期を早めたとして訴訟を起こした。病院側は、政府ガイドライン通りの対応であり患者の意思を最大限尊重したと主張。また「早く死なせてくれ」等と繰り返し訴えた患者の行為こそ医療スタッフに多大な感情負荷をかけたと訴えた。

 拡大法によれば、創作物のみならず現実の言動においても、悲観的な表現、犯罪を教唆するような表現などを用いて他に精神的苦痛を与える可能性がある場合には処罰対象となる。そのため余命の近い病人や怪我人には治療開始時、意識が清明な段階で『そのような発言があっても無視してくれてよい』とする希望死宣誓書に同意を取り付けることとなっている。


 私は私の意思決定が不可能になった後もこの医療機関の判断による治療を受け、奏効しない場合に様態が悪化したり死ぬことを了承しています。

 また私は私の治療に携わる人々の感情的被保護権を最大限尊重し、自らの疾患・怪我・障害・死その他についての否認・怒り・抑鬱を他者に向けて表現しないことを約束します。

 意識混濁や著しい苦痛などにより私が発するそのような言葉について他者がこれを無視することを希望します。

 私は納得のうえ希望して死を受け入れます。


 ――およそそのような内容だ。青年は、こうした法の施行自体に抗議するため自死を試みた。

 遺族は敗訴した。実際、治療を続けながらガイドライン通り対応した病院側の落ち度は立証されなかったし、ここで遺族の訴えが認められればその後の宣誓書をめぐる対応にも影響が及ぶ可能性が高かったためだ。

 この後、世間感情は医療機関に同情的となり、希望死宣誓書に同意しない患者はモンスタークレーマーの類いとして扱われるようになった。


 経過は次の通り。


 天己四年八月三十一日未明、自宅マンション五階のベランダから投身自殺を図る。全身十八か所骨折の重体で都内病院に緊急搬送、入院。

 同九月三日、意識混濁がないことから病院側は希望死宣誓書の同意を打診するも拒否。この日三回の打診と拒否を繰り返し、安楽死の要求や制限図書(注28)の要求など感情リスクの高い不規則発言が続いたため医療スタッフより被害報告あり。スタッフ保護の観点から院内委員会を開き、ガイドライン通り隔離対応とする。

 九月四日、宣誓書の同意について病院側から三回打診あるも拒否。この日も不規則発言多数。

 九月五日、宣誓書の同意について午前中に二回打診あるも拒否。午後一時四分急変。意識が戻らないまま午後十一時二十八分死亡。


注28:対応スタッフ証言より、可能な限りそのすべてを記す。患者は出版社と訳者を明確に指定した。

 ウィリアム・シェイクスピア、『ロミオとジュリエット』中野好夫訳、新潮社(昭和二十六年)

 ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』福田恆存訳、新潮社(昭和四十二年)

 近松門左衛門『曾根崎心中・冥途の飛脚』岩波書店(昭和五十二年)

 ソポクレス『オイディプス王・アンティゴネ』福田恆存訳、新潮社(昭和五十九年)

 夏目漱石『夢十夜』岩波書店(昭和六十一年)

 E・ポオ、O・ワイルド『ポオ詩集・サロメ』日夏耿之介訳、講談社(平成七年)

 二階堂奥歯『八本脚の蝶』ポプラ社(平成十八年)


   *



 僕は横隔膜を他人の手に掴まれたかのような気持ち悪さを覚えながら彼の個人情報部分を再読する。


 せい宜仁よしひと。八月三十日生まれ。男性。死亡当時十七才、国立第一大学文科一類在籍。


 吐き気がする。

 僕の名はせい佳仁よしひと、一字違いで読みは同じだ。誕生日も同じ。僕も今日で十七才だ。

 つまり今日は八月三十日――


 気持ちが悪い。


 フィクションと解釈するのが一番丸いとは思う。ハッピーエンド法のなど施行されてはいないからだ。希望死宣誓書というのも聞いたことはない。そもそも元号が天紀ではなく天己と記されている。架空だ。

 これはifの物語だ。そのはずだ。

 けれども、僕は、この注に列挙された本をのではないか?

 すれ違いの男女心中。狂気を演じながらの仇討ち。追い詰められての心中。父殺し、母との姦淫。女が死ぬ夢、殺した子を背負う夢。預言者の首に口づけて父王より死を賜る王女。夜明け前に身を投げた愛書家の日記。

 すべて読んだ記憶がある。

 僕はなのに。

 改元後に生まれた子供が、昨日まで未成年だったのに、制限文献のオリジナル版を読んだことがあるはずはない。それなのに僕は国芸版ではない原典を覚えている。

 いや、覚えているというより――内容はおぼろで思い出せないのに、胸が引き裂かれそうなほどの懐かしさを覚える。


 読んだことがあるのか?

 どこで?

 ――


 腹の中がぞわりとする。

 今見ているこの話は、


 僕は過去の、いや未来の夢を見ているのか。



 僕はいつ夢の中に、



 いや、

 これが、

 現実なのだとしたら、


 この文献が現実なのだとしたら。



 死んだ僕の記録を閲覧する僕とは何なのか、



 未来と過去とどちらが真実なのか、




 僕は、


 僕自体が、



 世界ごと、夢なのか。





――これから此の世のいとまひ。せめて心が通じなば夢にも見えてくれよかし。







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