仮ヶ音ミドリコの物語ったこと(2)②

 

 

 

 12月は1年で最も日の入りが早い。

 かさねのアパートに着いたころ、あたりはほとんど暮れかかっていました。


「やあ、引きこもりの様子を見に生徒会が来てくれた」


 玄関を開けたかさねがショートヘアをかきあげて笑う。息がうっすら白む。猫みたいに機敏な瞳がわたしを捉える。

 それはいつものかさねで、とても明日いなくなるとは思えませんでした。


「元、ね」

「そうだったね。生徒集会でリコの凛々しい姿はもう拝めないわけだ」

「……学校でかさねの姿を拝めるのはいつになるの」


 つい口調を尖らせながら、フローリングの廊下へあがりこむ。

 わたしをリビングへ案内するかさねの後ろ姿を――学校に来ないくせにいつも着ている制服から伸びた手足がしなやかに動くのを眺めながら、そのいつもどおりの様子に少し安心しました。

 電気スタンドの照らす薄暗い部屋には、相変わらず科学系の雑誌だとか図書館から借りてきたらしい分厚い専門書だとかが散らばっていて、どこかへ引っ越す人間の住まいには見えません。


「せっかく片付けたのにすぐ散らかすから……あれ、この本なに」


 サイの表紙が目を引いて、机の本をぱらぱらめくってみたのですが、横書きの文字と数字がびっしり並んでいて面食らったのを憶えています。


「JavaScriptだよ。言語を覚えるのは面白いんだ。構造がわかってくる」


 かさねの説明はよくわからなかったのですが、自前でアプリケーション・ソフトをつくっているらしい。わたしには見えない領域に手を伸ばし続けるかさねは、そのころプログラミングにのめりこんでいたのです。


「構造ってなんの」

「世界の、かな。ボクたちがそう認識しているもの。その背後には必ず構造がある……そうだね、ほら」


 スリープしていたPCを起こしてWebブラウザを立ち上げながら、かさねの左手がわたしの肩を軽く引き寄せる。目の前で、適当に開かれたWebページが突然アルファベットと記号の文字列になる。一瞬のうちに見慣れない楽屋裏に連れこまれたようでびっくりしました。


「たとえばこれがHTML、Webページ上のハイパーテキストを記述するマークアップ言語。リコが普段見ている世界の後ろにある構造の一部だよ」

「この記号が……さっきのページを表示させてるってことなの」

「簡単に言えばそう」


 かさねが振り返って、今度は自分の姿をわたしに見せるように気取ったポーズをとる。


「さあ、ボクの姿は、そしてこの世界はキミにどう映っているかな」


 暗い部屋のなか、青白いモニタの光が幽霊のようにかさねの姿を浮かび上がらせる。


物理現実マテリアルだって同じことさ。キミの中枢神経系が、感覚器系から集約したデータを、それまでに形づくってきた神経細胞の結合パターンを基に組み上げ、キミだけの世界を構築しているんだ。キミだけに見えるボクの姿、キミだけの現実をね。あるがままの世界を見ることなんてできないし、客観的な現実なんてものも存在しないんだ。人間の認識するあらゆる現実は、バラバラのデータの断片からそのひとだけのやりかたで生成レンダリングされたものなんだから」


 かさねはいつも、興が乗るとわたしには理解しがたい言葉を並べ立てました。

 でも、いまではわかります。

 かさねの言う構造とは、わたしが幼少期から見きわめたいと願ってきた“現実の奥にあるもの”、扉を開けて見きわめるべきものに他ならないのですから。

 その言葉に惹きつけられながら、わたしは胸騒ぎのようなものも感じていました。いつになく饒舌なかさね。


「リコは美術部だったね。西洋美術がいかに現実を表現レンダリングしようとしてきたか、キミのほうが詳しいじゃないか」


 かさねが窓から夕闇に沈もうとする街を眺める。マンションの隙間にちらりと見える大通り。


「建築物を平面上で表現するには、人間の視覚がそれをどう認識しているか、理論的に把握する必要があった」

「透視図法……」

「うん、一時期のめりこんでたよね。ルネサンス初期にフィレンツェの建築家があらゆる建物の輪郭線が地平線へ収束することに気づく。それが遠近法のはじまり。ここで重要なのは、幾何学的な輪郭をもつ建築物が整然と建ち並ぶようになってはじめて、人間はその背後にある構造に気づけたってことだね。自然環境下じゃ、人間は永遠に透視図法を発見できないはず……」


 かさねの言葉がどこに辿りつくのかわからないまま、わたしは頷くしかない。


「いま同じことが起きてるんだよ。インターネットが日常に遍在することで、人間ははじめてその背後にある構造に気づきはじめたんだ。それはむかしからずっと……建築物などなくとも遠近法が成立するように、そこにあった。だけどようやく、そのことを知覚できるようになった。いわば……その領域・・・・につながる経路が通ったんだ」


 いつの間に操作したのか、そのときPCから音楽が流れました。

 電子音楽に合わせて、人間ではない奇妙な声が歌いはじめる。


仮想ヴァーチャルと現実の狭間で私は生まれた……〉


 その年の8月31日、クリプトン・フューチャー・メディアが発売した合成音によるボーカル音源――初音ミクは、PCの高性能化やインターネットのブロードバンド化などで活況を迎えていたDTMデスクトップ・ミュージック文化をバックボーンに数多くの作品を生み出しました。その年の4か月間だけで10,000曲近くがつくられ、その多くは動画共有サイトを基軸にさらなる創作の連鎖を――イラスト、動画、歌など幅広いジャンルにまたがって引き起こしました。


「この声はどこから聴こえるのか……その領域を人間がつくりだすんだ。たった3枚の公式イラストを基に、物理現実マテリアルの外側に彼女を実在させる。声を聴けばその人物を現実に存在するものと認識レンダリングする中枢神経系のサブルーチンが働くからね」

物理現実マテリアルの外側から聴こえる声……」

「そう……彼女の声こそ、遠近法を認識させたフィレンツェの建築物アーキテクチャさ。その声の主を人間は物理現実マテリアルの外側に実在させ、それが世界の裏にある構造アーキテクチャを認識させる。物理的に存在しないキャラクターの声をつくりだしたこと、その本当の意味に人間たちが気づくのはずっと後のことだろうね。いまはただ、その声に導かれて物理現実マテリアルに生み出される無数の音楽や、絵や、物語が結節点ノードとなって、ひととひとを相互に接続する。その総体としての輪郭が、ぼんやりとその外側にある領域を意識させるだけ……」


 かさねがPCをぱたんと閉じて、音楽が止まる。


「……でも、そのことに気づきはじめたひとたちもいるんだ」


 モニタが消えると部屋は薄暗がりに沈み、向かいのマンションの一室ではクリスマスツリーが明滅する。

 その前で、かさねはほとんど影になっていました。


「それが……かさねがここから出ていく理由なの」


 わたしは言葉を絞りだす。

 この部屋でずっとわたしとかさねは同じものでしたが、そのとき、かさねとはまったく違う存在としてのわたしが現れたようでした。


「うん。誘われたんだ。いや、ボクのほうから言ったんだったかな……。ボクたちはいま、システム構築を手がけるついでに、面白いことを試してるんだ」

「意識を……自由にするっていう……かさねがいつも言ってたこと」

「意識から自由になる、さ。そう、あの日ボクたちがやったようにね。なにをすればいいかはわかった、あとは再現性のある方法を学べばいい。ちょっと時間がかかってるけどね」

「どうしてわたしを……」


 誘ってくれないの。そこまで口にしませんでした。

 わかっていました。

 かさねのブログのコメント欄までわたしが読んでいることを、この日わたしがアパートにやってくることを、当たり前のことだと疑いもしないかさねにとって、わたしはすでに自分の一部なのです。自分の身体に伺いをたてるひとはいません。


「どうしたの……リコは気にしないでしょ……。物理現実マテリアルの距離なんて関係ない。ボクとキミはずっと一緒にいるんだから……」


 立ち尽くすわたしに寄り添って、かさねがわたしの髪を、耳元から胸元の毛先までゆっくりなでる。

 その瞳がわたしを見つめる。

 わたしはいつも、稀少動物のようなその眼に魅入られてきたのに。

 その焦点は、わたしからほんの少しずれたなにかに結ばれている。

 わたしはかさねの手を乱暴に払いのける。

 少しの戸惑い、そんなかさねの表情をわたしははじめて見た気がします。

 

「わたしは……かさねじゃないんだよ」


 動画観たよ。

 高等科へいかないって本当。

 いったいどこへ行ってなにをするつもりなの。

 なにひとつ口に出せずにわたしはアパートを飛び出していました。上着もカバンも持たないわたしの身体を夜の冷気が刺すのが気持ちよかった。

 かさねが追いかけてきてくれるとは思えなかったし、拗ねた態度をとっている自分がばかばかしかった。もうひとりのわたしと、わたしのなかにいるかさねが、そんな自分を冷静に眺めていました。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

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