仮ヶ音ミドリコの物語ったこと(2)①
■仮ヶ音ミドリコの物語ったこと(2)
「かさね……いないの」
アパートにあがり、西日の射すリビングをのぞいても誰もいない。
首すじに冷たい感触。
わたしは驚いて振り返り、床に散らばった雑誌に足を滑らせる。
差し出される手。
その手を咄嗟につかみ、バランスを崩したわたしは相手を引っ張るように後ろへ倒れる。
がん、と頭が床にぶつかる。
……いや、床との間に、わたしの頭を抱きかかえたかさねの手がある。
わたしの上にかさねの身体があり、天井を見上げるわたしの目の前にかさねの涼しげな微笑みがある。
「……あぶない」
バスタオルが床に落ちる。
シャワーを浴びていたらしい、その水滴がかさねの肌の上で夕陽を反射させる。
前髪をつたってわたしの頬に落ちる。
冷たい一滴。
視界の端で、ハンガーラックにかけられたかさねの夏服が揺れている。
2007年、わたしとかさねは中等科3年生でした。
学校をさぼりがちになったかさねの様子を見に、ときどき放課後にアパートを訪ねるのが習慣になっていて、そのまま夜を明かすこともありました。
「知ってるかいリコ。月にはカエルがいるんだよ」
灯りを消した部屋、カーテンのない窓からわたしたちは下弦の月を眺める。
かさねのひやりとした手がわたしの頬をなでる。
感情のないしぐさ。ただ自分の延長上にわたしが在るように……。
4年前、深夜の学校で遊んだあのときから、わたしとかさねの一部は溶け合ったようでした。
「
スリープモードになったかさねのPCが、暗い部屋でLEDを青く光らせていました。
「でもボクたちは月を仰いで鳴くことしかできない。いまはまだ……」
その言葉を聞いて、クラマ山の闇のなか、同じ月を眺める獣がごぞりとみじろぎする。
わたしは依然として苛立ちを抱えていました。
「あのひとのところへいくのですか」
12月も半ばを過ぎたころ、本棟の廊下で部長に声をかけられました。職員室から出たところだったので、わたしがたまったプリントをかさねに届けにいくと思ったのでしょう。
実のところ、学校で噂されるほど頻繁にかさねのアパートへ通っていたわけではないのですが。
「ごめんなさい、最近あまり顔を出せてなくて」
「3年生は受験ですし、べつに構いませんが……部室にある先輩の絵が完成しないままなの、嫌です」
「うん……卒業までには仕上げるつもり」
言い訳のように話しながら、わたしは未完成の自画像を思い浮かべて、そこにかさねのイメージを重ねていたことに気づきました。それでああ、これから会いにいこうと考える。
「あのひとは高等科に進学されないとききました」
部長が毅然とした表情でわたしを見つめる。
わたしの耳に、帰宅する生徒たちのさざめきがぼんやり聞こえる。
「先輩はどこか……遠くを眺めてます。ですが……現実に着いた足が離れてしまえば、それも描けません。透視図法のとき、ご自身でそう話されてました。3次元の現実を2次元平面に写し取るロジックは、建築家の工学的な視点から生まれたと」
「わたしが……地に足を着けてないということ」
「いえ……すみません。ただ、あのひとといると先輩がどこか遠くへいってしまいそうで……忘れてください」
わたしはうまく返事もできず、部長が速足で消えるのを眺めていました。
かさねが進学しない?
まるで意識しなかった、ですがあの夜以来わたしはずっとそのことを感じてもいたのです。かさねはいつかいなくなると。
その足でわたしは旧館の図書室へ向かいました。
暖房の効いた空気。
情報学習用のコンピュータ18台が設置された一画が、戦前に建てられた旧館の内装と奇妙に融和していました。
生徒IDでサインインしてブラウザを立ち上げ、URLを打ち込む。
かさねのブログ――学校に出てこないかさねの動向を、いつしかわたしは図書室で見守るようになっていました。自宅のPCだと、かさねに近すぎるという妙な抵抗感があったのです。
そのころ、ブログ文化がすっかり普及していました。
2005年に、はてなブックマークがソーシャル・ブックマーキング・サービスの先鞭をつけると、ブログは興味関心をベースにした情報共有網という大きな
同じころ、mixiがソーシャル・ネットワーキング・サービスを広め、2007年5月には1,000万のユーザがアカウントを登録していました。
友人同士、興味関心を同じくするもの同士のコミュニケーション回路が、インターネットのなかに凄まじい勢いで形成されていました。交換される情報の多くは、物理的な現実では決して交わされない内容であり、用いられない表現形態でした。そしてそのことを――これまでほとんど認識されなかった心のざわめきや思考の顕在化を、多くのひとびとが気にかけないのが奇妙でした。
mixiの「招待状」をネットの知人から受け取り、年齢をごまかしてそのサービスを試した最初の印象は、誰もが自分をつくるのに酔っている、というものでした。まるで“本来の自分はこのようなものだ”とやっきになってふれ回っているような。
もちろんそれは一部の傾向だったでしょう。図書室の情報学習コーナーではいつも同じ顔触れがモニタを見つめている、そのように限られたひとたちの姿。
かさねのブログは更新されていました。
その最新エントリに、動画共有サイトにアップロードされた動画がリンクされている。
YouTubeは2007年春に日本の個人利用者1,000万人と報じられるほど流行っていましたが、リンク先の動画はそうした誰もがすぐ見られるサイトではなかった。
ログインが求められるのです。
2007年1月、プレオープンからβバージョンに移行したその動画共有サイトのアカウントをわたしはすでに持っていました。
〈無機的な集合知ではなく人間のような感情を備えた集合知を目指します〉
――そのような“宣言”を公開していた、それはニコニコ動画というサービスでした。
ログインすると、回線の重さを感じさせながら動画が再生される。図書室備え付けのヘッドセットから音楽が流れる。動画上をコメントが右から左へ流れる。
二本の角、トカゲのような尻尾をはやした女の子が現れる。
その殴り書きのようなイラストが、拙いアニメーションで動き、エレキギターのシンプルなコードに合成音声の歌が重なる。
投稿タイトルには「
チベットのポタラ宮から通じる地底の都シャンバラ、その理想郷を目指す少女ミトリが、旅先で出会った“宿屋の娘”マナと共に、行手を阻む謎の教団と戦う。魔術、神智学、オカルトの専門用語がアニメやマンガのパロディとともにその世界を組み上げていて、背景に壮大な物語を想像させました。
その動画に、ネタとして面白がる、それ以上のかさねの切実な衝動をわたしは感じました。冗談のなかから、真剣な感情のかたまりがごろっと転がり出てきたような。
「明日が最後の日なのに、動画をアップしているとは余裕ですね」
動画を5回ほど見返し、ブログから離脱しようとする直前、コメント欄の文字列に気づきました。
かさねに向けた書き込み?
かさねがレスを交わしていました。
「感傷に浸ってるべき、なんて言うつもりかい?」
「まさか。転居の作業に滞りがないようでなによりですよ」
わたしの心がざわつく。
明日が最後の日?
コメントの日付は今朝でした。つまり「明日」とは明日のことで、ですがかさねが明日どこかへ行ってしまうだなんてわたしはなにも聞いていなかったのです。
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