EP16.空の館(前編)
ミカエル襲来後……森の意識をスサノオの乗っ取りから浮上させた忍は、眠り続けていた。
目が覚めるまで何があったのかも、どうしていたのかも全く分からない。
知らないというのは恐ろしいことだ。
その辺りは森から詳しく話を聞くからよいとして。
目覚めることが出来た理由、あるいは眠り続けていた理由も忍が目を覚ますことで……否、その後、魔界の大使館へ行ったことで明らかになった。
天使の祝福、とでも言ったらよいのだろうか。魔界の公爵ダンタリオンが忌避するほどの気配が残っていたようだから、「ウリエル」のしたことには間違いはないようだった。
「……」
額が温かいような気がする。
そういえば、アスタロトさんも躊躇なしに額を見ていたな
そこへあてた手でそのまま前髪を何気にかきあげて、忍は整った街並みを歩いていく。
退院までとにかく大人しくしていてくれと司には言われていたが、散歩くらいはいいだろう。そして、病院の敷地まで出てみたところ、いつのまにか結構遠くまで来てしまっていた。
同じ道を引き返すのがなんとなくつまらなかったので、ついでに何となくあの辺まで、と目的地を定め、先に進む。
そこまで来ると、やっぱり引き返す気がなくなって、次の目的地をみつけてしまう。
今度はなんとなく、ではなく明確な目的地だった。
* * *
フランス大使館。
エシェル・シエークルが最後の人の大使として駐在していたその広大な館は、今はひっそりと静まり返っている。
すでにエシェルはウリエルとして日本政府によって、つまりは護所局によって捕らえられた。
その後はどうしているのか。当然にトップシークレットなので話は入ってこない。その任は司がついていたことは知っているが、司も中央に引き渡した後のことまでは知らない。
主のいない大使館は封鎖され、もう見張る理由もなくなったせいか警備もついてはいなかった。
純粋に窃盗などの防犯のためだろう。監視カメラは動いているようだ。
正門前を通り過ぎるとちかちかと明滅した赤と緑の光を見て忍はそれを認識する。
しかしカメラが設置されているのは特定箇所だけだ。赤外線センサーなども作動しているようだが……装置の場所を知っていればなんのことはない。
見えないラインを跨いで、くぐり、メインファサードを迂回する。
こっそり入る経路はキミカズに聞いたことがあった。
なんとなくの場所だが、なんとなくこの辺から入ってなんとなくあの辺にカメラとセンサーがあって、あっちのドアにはセキュリティかかってるから避けて、みたいなお泊り会での雑談だったが行きたいのは庭の方だったので、わざわざ館内に侵入することもない。
まぁ敷地内に入った時点でここも「管内」なのだろうが。
忍は身、ひとつで建物を迂回してその庭へとたどり着いた。
「静かだなー」
いい天気だ。日差しはぽかぽかしているし、手入れの行き届いた庭の緑を風がわずかに揺らしてさやさやと音を立てている。
木漏れ日が揺れて無人の庭の静けさに、拍車をかけた。
まだ昼前だ。
明るい陽光は、誰もいなくなった大使館を何の違和感もなく照らしている。
(落ち着く)
エシェルもそういう気分だったのだろうか。
ガラス張りの館内を外から眺める。彼がそれをしていたであろうソファや観葉植物もそのままだ。誰か世話をしているのか少し気になったが、内と外とをつなぐドアに気付くとその辺りからエシェルも出入りしていたのだろうかとふと、思う。
その時、ガサリと背後の茂みが揺れた。
「……」
顔を出したのは不知火だった。
「不知火、まだ来てたんだ」
そこにいたのが忍と知ってか知らずか。不知火はエシェルにそうしていたようにワンテンポ置いてから近づいてきた。
そしてトン、と鼻先を忍の手につける。これが彼流の挨拶でもある。
「散歩、だよね? そんなにこの庭が気に入った?」
忍もまた、エシェルのようにその言葉が分からずとも語り掛ける。それでも不知火の方は人の言葉を理解しているのだから、意思の疎通は成り立つ。
ただ返事は不要で、忍は不知火の上げた顔の横を優しくなでる。からの両頬をもふもふ。
不知火の高さはちょうど少し前かがみになると抱き着けるくらいなのでもふもふしながら近寄ると自分の肩に不知火の顔が乗る形になる。
珍しく、不知火の方からもすり、と頬を寄せられる。
心地よい日差しの中の戯れが気持ち良いのかそれとも
「不知火。不知火はエシェルがいなくなって寂しくない?」
ここに足しげく通っていたらしいことは聞いていた。定番の散歩コースのようでエシェルにもよく挨拶に顔を見せていたらしいのでそう思う。
ここに来ればいたはずの人がいなくなる。
不知火にとっては、司や森がいるからさほど日常が変わるわけではないが、寂しくないわけはないだろうなとは思う。
例え彼が天使であったとしても、だ。
不知火は無言で、返事はなかった。けれど、離れるとじっと忍を見上げている。
しかし、ふいにはっと何かに気付いたように鼻先を跳ね上げた。
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