花束を君に――。

桜楽 遊

花束を君に――。

「……にい。起きて、レンにい。ごはん冷めちゃうよ」


「ん、うぅ」


 優しく身体を揺さぶられる。

 柔らかな声に耳を撫でられる。

 『レンにい』と呼ばれる度に、目頭がじんと熱くなる。

 心地良いのに落ち着かない。

 まるで、爽やかな風に揺れる不安定な雲の上で寝ているような――、この感覚をなんと呼ぶのだろうか。

 胸の奥底から込み上げるこの感情を、なんと呼べばいいのだろうか。

 その答えがわからないまま上体を起こすと、肌に冬の冷気が刺さった。


「ごめん、かえで。土曜日だから、つい」


「もう。ちゃんとしてよね。――おはよう、レンにい」


 妹の――、楓の顔に笑顔が咲く。

 その笑顔を見ていると、こちらまで幸せになってしまう。

 だから、俺も自然な笑みを浮かべて言った。


「おはよう、楓」




 ――その後、俺は朝食を食べるためにリビングへ足を運んだ。

 歩いている最中、耳元で妹の鼻歌がBGMのように流れていたのは、ご愛嬌ということで。


「よいしょっと」


 上機嫌な楓と共に席に着く。

 簡素な木目が浮かんでいるテーブルの上には、料理が並べられている。

 ふっくらした白飯、若布の味噌汁、分厚い卵焼き。

 日本人らしい朝食だと言えるだろう。


「「いただきます!」」


 楓と声を合わせて合掌した。

 にもかかわらず、楓は箸を持とうとしない。

 それどころか、こちらの様子をじっとうかがっている。

 きっと、料理を褒めてもらいたいのだろう。

 目には見えない心の尻尾を、犬のようにぶんぶん振っているのがわかる。

 その期待に沿うべく、俺は味噌汁を啜る。

 直後、合わせ味噌のスープが口一杯に広がり、和の香りが鼻腔をくすぐる。


「うん、美味しい」


「良かったぁ」


 楓は満足そうに頷くと、ようやく箸を持って食事を開始する。

 幸せそうな顔をして、楓は「美味しい」と言う。

 ――そう、確かに美味しい。

 俺もそう思った。

 しかし、何かが足りない気がする。

 誰かが足りない気がする。

 いつもの味と似ているけど、少し違うような気さえする。

 何が足りない?

 誰が足りない?

 足りないものは――。


「なぁ、楓。父さんと、母さんと、姉さんはどうしていないんだっけ?」


「うん?お姉ちゃんは大学進学と同時に一人暮らしを始めたでしょ。それと、お父さんに関しては仕事の問題で遠くに住まなきゃいけなくなったから、必然的にお父さんとラブラブなお母さんも一緒についていったんじゃん。レンにい、覚えてないの?」


 心配そうな顔でこちらを覗き込む楓。

 その心配を吹き飛ばしてあげたくて――、


「あ〜いや、ちゃんと覚えてる。大丈夫。少し寝ぼけていただけだから、心配しなくていい」


 俺は明るく振る舞ってみせた。

 すると、楓は「そっかぁ」と安堵の息を漏らす。


「そんなことより、楓は本当にこの花が好きだよな」


 俺が指差したのは、テーブル中央に置かれている花瓶から顔を出した紫色のアイリスだ。

 一本だけだが、その存在感は大きい。


「うん、好き。特に紫色が」


「どうして紫なんだ?」


 地球上には、様々な色のアイリスが存在している。

 青、黄、白、紫――。

 とにかく色々だ。


「どうしてって……。紫色のアイリスが一番可愛いからかな。――お兄ちゃんは?」


「ん?」


「お兄ちゃんはアイリス好き?」


「まぁ、好きだな」


「私が好きなアイリスを、レンにいも好き。これって、レンにいが好きなのはわたしってこと?」


「はいはい。勝手に言ってろ」


「わかった。勝手に言う。レンにいは〜、私が好き〜」


 嬉しそうに笑う楓。

 その背後に設置された小さな棚の上には、一枚の写真があった。

 見覚えのある写真だ。

 それもそのはず。

 楓の小学校卒業祝いとして、家族で旅行した時に撮影した、水瀬みなせ家の集合写真なのだから。


 ――そうだ。

 集合写真なんだ。

 家族全員が写っているはずなんだ。

 そのはずなのに――、それなのに――。


「――っ!」


 写真に写っていたのは、俺――水瀬 れんと水瀬 楓だけだった。

 それに加え、俺と楓との間には不自然な空間がある。

 まるで、その空間に見えない誰かが立っているかのように。


「――――――」


 楓に心配を掛けたくない。

 その一心で違和感を押し留めた俺の背中を、嫌な汗がなぞっていた。




◇◇◇




 はらはらと降り積もる白い雪を視界の端に捉えながら、俺は『神経衰弱』をしていた。

 数分前、楓が「ねぇ、トランプで遊ぼうよ!」と言ったのが事の発端。


「あっ、間違えた!」


「あ〜あ。残念だったね、レンにい。私、全部わかっちゃたもんねぇ〜」


 記憶違いでペアを作れなかった俺に対して、楓は勝ち誇ったように胸を張る。

 その自信は確かなものだったのだろう。

 楓は残りのカードを全て手に入れて、見事に勝利を収めてみせた。


「やったぁ。私の勝ち!」


「くそっ!次は『スピード』で勝負だ」


「しょうがないなぁ」


 ――楽しい時間が流れていく。

 時の経過と共に、手札が減る。

 そして、遂に決着の時がれる。


「よし、勝った!」


 『スピード』対決に勝利し、俺は拳を天に突き上げる。

 そんな俺を見て、楓は唇を尖らせる。


「もう一回!」


「おっ、駄々をねるのか?中一なのに」


「高二のくせに、『神経衰弱』で負けてムキになっていたのは誰でしたっけ?」


「ぐぬぬ」


 ぐうの音も出ないとは、こういうことを言うのだろうか。

 まぁ、ぐぬぬの音は出たんだけど。


「でも、『スピード』で対決しても負けるし……。そうだ!完全な運ゲーをしよう」


「運ゲー?」


「うん。『ダウト』」


「は?」


 思わず頓狂な声が漏れる。

 楓は自分の言っていることを理解しているのだろうか。


「二人でやるのか?」


「うん」


「いやいや。二人だと、相手の嘘が筒抜けだぞ」


「知ってるよ」


「それでいいのか?」


「それでいいんだよ。だって――」


「うぐっ!」


 会話の最中に、何の前触れもなく頭痛が訪れる。

 頭蓋が割れるような鋭い痛みに襲われる俺を見て、楓は淡々と言葉を続ける。


「残された時間は、あと少しだから」


「それって……」


 頭痛が和らぎ、俺は楓の意味深長な言葉の真意を確かめようとした。

 しかし、その問いはトランプを押し付けてきた楓によって中断される。


「早くやろう。レンにいが先攻」


 言われるがまま、俺は「いち」と言って、裏向きにカードを出す。

 嘘は吐いていない。

 出したカードはスペードのAだ。


「――に」


 俺が出したカードの上に、楓がカードを置く。

 勿論もちろん、裏向きだ。

 しかし、俺は知っている。

 ――楓が噓をついていることを。

 『2』と印字されたカードが、四枚とも俺の手の中にあるからだ。

 ダイヤもハートもスペードもクラブも――、全て俺が持っている。


「――――――」


 間違いなく、楓は噓をついている。

 それなのに、『ダウト』と言えない。

 噓を指摘することができない。

 どうしてなのかはわからないが、その三文字を言ってしまうと、取り返しのつかないことになってしまう気がした。


「言って」


「かえ……で……」


「言って。それで、終わりだから」


 楓の言葉に込められた意味がわからない。

 何を言いたいのか、わからない。

 わからないけど、言わなければならないと思った。


「――ダウト」


「あはは。嘘、バレちゃったなぁ。やっぱり、慣れないことはするもんじゃないね」


 楓は自嘲気味に言う。

 その声は酷く震えていて、瞳には涙が溜まっていた。


「二人暮しなんかしてない。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、レンにいと一緒に暮らしてる。全部、嘘なんだよ。私は、嘘なんだよ」


「何を言って……―ッ!」


 再び、頭に鋭い痛みが走る。

 少し遅れて耳鳴りが、更に遅れて目眩が俺を襲う。


「ほら、もう帰る時間だよ。……レンにいは……、まだ……ここに来ちゃ……だめ、だから……」


 楓の目から溢れ出す大粒の涙。

 今すぐ拭ってやりたい。

 泣いている理由はわからないけれど、優しい言葉を掛けてやりたい。

 でも、頭痛がそれを許してくれない。

 視界が、歪む。


「ずっと、見守っているから。心は繋がっているから。生きて、幸せになってね」


 涙をぐっと堪え、不器用な笑顔を浮かべる楓。

 歪む世界でその笑顔を見た瞬間、忘却の彼方に沈んでいた記憶が蘇る。


 ――そうだ。

 あの時も、君は笑っていた。

 最後まで、君は笑っていた。


「思い……出した……」


 中一の夏に、君は病気で――。


「全部、思い出した」


 今朝、俺は車に轢かれて――。


「大好きだよ、レンにい」


 朦朧とする意識の中、楓の声が聞こえた。

 確かに聞こえた。

 だから、この世界から切り離される前に俺は言った。


「いつまでも大好きだよ、楓」




◇◇◇




 ――目が覚めた。

 身体は仰向け。

 ベッドの上にいるのだろう。


「――――――」


 目に映るのは知らない天井。

 聞こえてくるのは機械音。

 頭を襲うのは鈍い痛み。


「――っ、お母さん!蓮が目を覚ました」


「えっ!早く、ナースコールを」


 驚愕と歓喜とが入り混じった複雑な感情を孕んだ声が、白い空間に響き渡る。

 その声には、聞き覚えがあった。

 間違いなく、母と姉の声だ。


「良かった……良かったぁ……。楓みたいに……死んじゃうんじゃないかって……」


 母の涙声が、ぎゅっと心を掴む。

 中学生になった年の夏に、楓は病気で命を失った。

 そして、同じ年の冬――今朝、登校中に俺が事故に遭った。

 そのような残酷な現実を前にして、母の心はボロボロになっているのだろう。


「母さん……」


 病室の外からは、慌ただしい足音が聞こえてくる。

 もうすぐ、看護師や医師が入ってくるはずだ。

 そうなる前に――、静かなうちに母や姉に言わなければいけないことがある。


「……向こうで、楓に会ったんだ。それでさ、『生きて、幸せになってね』って言われたんだ。だから、俺は死なないよ。まだ、死ねない。――心配、しないで」


 俺の言ったことを、母や姉は理解できていないのかもしれない。

 俺の言いたいことが、正しく伝わっていないのかもしれない。

 それでも――、それでもいいんだ。

 俺は知っている。

 楓に会えたことも、楓がくれた言葉も、楓の涙も、楓の笑顔も、全部覚えている。

 覚えているから、俺は死ねない。

 生きて、幸せになる。






 ――退院したら、楓の墓に紫色のアイリスの花束を供えよう。

 

 

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花束を君に――。 桜楽 遊 @17y8tg

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