第20話 母の微笑みと、下がる温度
汚されたセシリアのドレス。
そして、急に話へと割り込んできた子息達。
それらを受けてこの場で最も目に見えて慌てたのは、おそらくセシリアが今し方話していた令嬢達だろう。
彼女たちが『汚されたドレス』に対して一体どれだけの知識を持ち、想定される未来を見たのか。
それは分からない。
しかし、少なくともその眼差しにセシリアへの純粋な心配が灯っていた事は確かだった。
だからそんな彼女達に、セシリアは安心させるような優しい笑みを向けた。
そして汚されたドレスを物ともせずに、公式の場で同等の相手に対して行う礼を取って彼女たちに一言告げる。
「皆様、申し訳ありません。少し所用が出来てしまいましたので、今回はこれで失礼いたします。是非またお話し相手になってくださいね」
「え、えぇ。お話はいつでも出来ますもの。またお話ししましょう」
『不慮の事故』の中でも完璧な所作でそう言ったセシリアに、令嬢が「また」と言ってくれた。
その事が嬉しくて、セシリアは「ありがとうございます」と言いながらまた微笑んだ。
そして足早に、彼女たちの輪から抜ける。
一方そんな彼女の行動を快く思ったのは、ドレスに葡萄色のシミを作ったその元凶である。
彼はニヤリと笑っていた。
おそらく「よし、全て思惑通りだ」とでも思っているのだろう。
「さぁこちらだ。早くそのドレスを着替え……」
セシリアが自分の言葉に従って行動し始めたと思ったのだろう彼は、そんな言葉を口にする。
しかしそんなものは華麗にスルーだ。
「っておい、そっちじゃなくてこっちだぞ……?」
彼が指した方角とセシリアが歩き出した方角は、全くの正反対だった。
それに気付くや否や、すぐに怪訝な表情を浮かべながらセシリアの後を追いかけて来る。
そんな彼の気配を背後に感じつつ、しかしセシリアはたったの一度もそちらへと目を向けることはしなかった。
代わりに、この会場内でマナー的に許される最高速度で歩く。
目指すは、とある場所。
目的地を目指して、セシリアはただ真っすぐに歩いていく。
対する彼はというと、急に自分の思い通りにいかなくなった現状に苛立った。
そして幾ら呼びかけても止まらない、それどころか振り返りさえもしない彼女にしびれを切らせて、その腕へと伸ばす。
社交界に於いて、同意も無く身内でない異性の体に触る事は、とても無礼な事とされている。
これはマナーの一つであり、爵位にその礼・無礼は左右されない。
それが故に、子供が1番最初に教わるマナー内の1つでもある。
しかし突然出会った制御不能な現状に混乱と苛立ちを募らせた彼は、そんな簡単な常識さえも思い出す余裕が無かった。
そんな彼の手がセシリアに届こうとした、その時だった。
「お母様」
そんなに大きな声ではなかった。
しかしなぜか、その声はよく通った。
お陰で、雑多な音がひしめき合う会場内のまだ少し離れた場所にいる母・クレアリンゼの耳にも、支障なく届いたようである。
セシリアの視線の先で、談笑していた母がゆっくりと振り返った。
「あら、セシリア」
そんな言葉が返される。
その間に、セシリアは母のと距離を詰めた。
そして立ち止まったのと同時に、こんな言葉が告げられる。
「どうしたの? 沢山のお友達を連れて」
その声でセシリアはやっと後ろを振り返り、そして思わずハッとした。
(なるほど、これはちょっと拙い図だ)
そう思い、目の前のことに集中し過ぎて周りに対して注意力が散漫だった自分を反省する。
すると母はそんな末娘に、敢えてその拙さを指摘することでフォローとする。
「男の子ばかりをそんなに連れてきて、まさか『お友達を紹介しにきた』という訳では無いのでしょう?」
今、セシリアの後ろには正に腕を掴もまんとする例の彼と、その取り巻きたちがワラワラとついて来ている。
母の談笑に割り込んできた娘。
そして、その後ろに続く何人もの子息達。
それは一見すると「母の社交の邪魔を顧みずに割り込んできた、マナーの成っていない男タラシ」に見えなくもない。
そんな周りの想像を、クレアリンゼはコロコロと笑いながら一蹴する。
これは、埋められた地雷を『爆発しない』と確信して踏みに行くのと同じ所業だった。
何故なら、セシリアの不可抗力でこんな紛らわしい風景が出来上がっているのなら良いのだが、もしも本当に『その気』で来たのだとしたら、クレアリンゼの自爆になるからである。
これは『爆発しない』と信じているからこそ出来ることだ。
そしてそれは信頼を向けられたセシリアにだけではなく、周りに対するアピールにもなる。
セシリア・オルトガンはそのくらいの常識は既に弁えている、という。
母の言い回しからその思惑を理解して、セシリアは思わず周りを憚らずに尊敬の目を向けそうになった。
突発的に発生した事象に対し、付随効果を付けて返す。
その様を今正に目の前で見たのだから、そうなりそうになっても仕方がない。
しかし。
(否、今はそんな事をしている場合じゃない)
そう思い直して、セシリアは母に告げる。
「お母様、奥様方、先ほどは失礼しました。そしてお話し中に口を挟む事をお許しください」
まずは先ほどの性急な声のかけ方についての謝罪を。
そしてその上で邪魔をすることへの断りを入れる。
するときちんとした貴族の礼を撮りながら告げたお陰か、彼女達の僅かな顔の強張りがふわりと溶けた。
(どうやらお母様の社交相手への悪印象は避けられたみたいね)
反応からそう察して少しばかり安堵しながら、セシリアはさっくりと本題に入る。
「お母様、先程ドレスが汚れてしまったのです」
言いながらドレスの裾をクイッと上げる。
そこには山吹色の中に浮かぶ不格好な葡萄色があった。
「まぁ」
おそらく見えたのだろう、クレアリンゼが口元を手で押さえながら小さな驚きの声を上げる。
「そしてその後、このシミの原因となった方から『その格好ではこの場にそぐわないから、別室に用意した別の服に着替えるように』と言われてしまいました」
と、此処まで行った途端。
クレアリンゼの微笑みがほんの一瞬固まった。
そして、彼女が口を開く。
「……それは、誰が?」
つい先ほどまでと全く変わらない、声のトーンと柔らかな微笑。
にも関わらず、何故か周りの温度が1、2度下がったような気がした。
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