第33話
恐らく翔太たちがこれまで味わってきた「夏休み」という時間の中で、この夏が最も「短い」ものになった。
休みなく毎日練習したおかげで、夏休みが終わる頃には「情熱の薔薇」はちょっとはまともな音楽となって校内を響き渡るようになっていた。
とにかくひたすら同じ曲をやるものだから、それを毎日聞かされる運動部の練習は誰もが洗脳の如く情熱の薔薇を口ずさむようになり、ランニング中も脳内をエンドレスで流れるのは情熱の薔薇で、それが少しずつ生徒たちのテーマ曲になっていくようでもあった。
無論、苦情というか、文句は出た。うるさいとか、違う曲やれとか。その度に田口さんが前に出て「俺ら、コンクールに出るから。コンクールでこれやるからさ。それまでちょっと大目にみてよ」と片手拝みに頼んだ。
コンクールと聞くと誰もが驚いた。「マジで!」とか「その人数で!」とか。当然の反応だろう。が、彼らはその後決まって「じゃあ、しょうがねえな」と言い、「がんばれよ」と去っていく。それには翔太は少し驚いていた。
ブラバンが認められつつある。最初はブラバンに入ることそのものをやめるように言われたのに、今は少なからずブラバンを応援してくれている。
大島と田口さんの編曲でできあがった楽譜は平然と「一人二役」みたいな編成になっていたが、パーカッションとユーフォニウム、パーカッションとトロンボーンといった具合にそれぞれが懸命に練習したおかげで、ますます音楽としての完成度は高まりつつあった。
翔太はミスなく演奏することができると、その度に涙ぐみそそうになり、音楽を心から楽しいと感じていた。
それは持田たちも同じ気持ちだった。野球部の応援の時よりも格段に「音楽」となっている自分たちの演奏に感動していたし、それぞれの音がぴったりと重なる瞬間を感じると、今まで経験したことのない充足感を感じたりもしていた。
ブラバンがコンクールに出るという情報は、夏休みが明けて、帰宅部でブラバンの練習を知らない者たちにもあっという間に広まり、今や翔太たちのブラバンは校内でのちょっとした人気者だった。なにせ食堂や渡り廊下で、色んな生徒が翔太たちに声をかけるのだから。
「ブラバン、コンクール出るんだって?」
「お前ら、頑張れよ」
といった具合に。
翔太は、野球部の応援の時に相手校の女の子たちに囁かれ、笑われた言葉が脳裏をかすめると、すぐにそれらに向って胸の中で言い返していた。
「ほんとにやるんだ!」
「てゆーか、できるんだ!」
「うわー、マジであの学校でブラバンってやってるんだー」
本当にやるし、できる。こんな学校でも、自分たちでも、やれる。
コンクールを迎えるまでの間、それは翔太にとって魔法の言葉のようでもあった。
コンクール当日。その日は朝からひどい雨が降っていた。
大島は校外での活動ということもあって、制服をきちんと着てくるように口を酸っぱくして言い、これは主に田口さんにだが長髪をどうにかしろとえんえんと言い続けていた。
翔太たちは夏服のシャツの襟や胸につける校章の刺繍を確認し、「標準服」と呼ばれるくそ真面目なストレートのパンツにアイロンをかけ、それぞれ楽器を担いで会場までバスで向かった。
田口さんは長い髪をひっつめて一つに束ね、形だけは真面目そうに装っていた。
「校長とかも来るのかな」
持田がカーブの度に大きく揺れるバスの窓から、激しい雨に煙って見える町並みを眺め、独り言のように言った。
「さあ、どうだろうな。来たら来たで、大島は気まずいんじゃないの」
「生徒も見に来ていいんだろ」
「タダだからな」
「でもこの雨じゃなあ」
翔太は答えながら、同じように窓の外を見つめた。
常山と斉藤はそれぞれ家から違う路線で会場へ向かっていた。翔太たちの乗るバスもいつもなら通勤通学で混みあうのに、日曜で、しかも大雨のせいか空いていた。
「ツネちゃん、楽器大きいからこの雨じゃかわいそうだな」
「翔太、お前さあ、いい加減その考え方改めた方がいいぜ」
「なんで」
「ツネちゃんって俺らなんかより数倍タフだと思うよ。本当は。細いけど、筋肉ばりばりだし。たぶん殴り合いになったら絶対俺らよりツネちゃんの方が強いよ」
「そうかなあ」
「それに」
「それに?」
「友達が死んで、中学でいじめられて、そんでもまた立ち直ってこうして俺らとブラバンやれるぐらいなんだから。精神的にも、俺らよりずっと強いよ」
二人の話を黙って聞いていた田口さんが不意に口をはさんだ。
「俺もそう思う。傷ついたことのある奴は、強いよ。で、立ち直る奴は、最強。この先、ブラバンにツネはなくてはならない存在になる」
「田口さん……」
「あいつ、リズム感もいい」
市営のコンサートホールにバスが到着すると、ホールの周辺にはすでに大勢の楽器を持っているが故に一目でブラバンと分かる高校生が集まっていて、順番にホールの中へ誘導されていくところだった。
女の子たちのさす傘の色とりどりの鮮やかさが、ぱっとそこに花が咲いたようだった。
ホールの受付にはもう大島と常山が来ていて、三人を見ると、
「お前ら、楽譜ちゃんと持ってきたんだろうな」
と心配そうに尋ねた。
「おーちゃん、なにそんなビビってんの?」
「だってお前、俺、ブラバンがコンクール出るなんて考えたこともなかったから……」
大島は消え入りそうな声で言うと、大きなため息を吐きだした。不安と緊張のため息を。
「それは俺も考えなかったよ」
「他の先生たちも見に来るって言ってたし」
「へー。それって、校長も?」
「……」
田口さんが言うと、大島はどんよりとした表情で押し黙った。
「あ、来るんだ」
気の毒に大島はプレッシャーで押し潰されそうになっていて、あの、野球部の応援の時よりもっと青い顔をしていた。
そんな大島を励ますように田口さんは、
「うちのバンドメンバーも見に来るって言ってたよ」
「お前、まさか……」
「心配すんなよ、助っ人はないから」
「……ほんとかよ……。お前はすぐに嘘つくから……」
「人聞き悪いな」
二人が言い合っている間に、翔太は常山のそばに寄った。常山は静かな調子で、
「受付、もうすませたから」
「そう。早く着いたんだな」
「うん。こんな雨だとバス遅れるかもしれないと思って、早めに出たから」
「さすがツネちゃん」
常山は何か思い出したようにふふっと笑った。
「どうした?」
「受付で学校名言ったらさ」
「うん」
「え? って。二回も聞き返された」
「だろうなあ」
「受付の人の顔がさ、マジで!? ってあからさまにびっくりしてて。なんかこっちが申し訳ないような気持ちになったよ」
ツネちゃんが、最強。田口さんの言葉は正しい。翔太は静かで健やかな常山がさもおかしそうに笑うのを見ながら、いずれこいつがブラバンの部長になって、みんなを率いて行くだろうと確信した。
「斉藤は?」
さっきからハンカチで濡れた鞄や楽器ケースを拭いていた持田が、一同を見ながら尋ねた。
「あいつまだ来てないの?」
田口さんは大島との小競り合いをぴたっとやめて、
「おーちゃん、デブは?」
と真面目な顔で問うた。
すると大島は翔太たちを指差しながら、
「お前ら一緒じゃないのか」
「俺ら、路線違うから……」
翔太が答えると、田口さんが横から口をはさんだ。
「こういう時一番早く来そうなのにな、デブ。あいつ太ってるけど神経はこまかいよな」
それから「ちょっと電話してみ」と続けた。
ますます混雑してくる受付と、ロビー付近のざわざわとした様子と出場する生徒の緊張感は翔太たちを刺激すると共に、もう今から人々の反応が想像できるだけにいたたまれないような気がして胸苦しかった。
ここにいる誰もが、翔太たちの学校名を聞くと驚くだろう。そして、笑うだろう。でもなぜ笑うのだろう。落ちこぼれのレッテルはまだ何もしていないうちから貼られていて、絶対にはがせないのだろうか。
慣れない空気はそれぞれの心を少しずつ重くしていく。
「藤井君とりあえず、中入ろう。ここ混んでるし。出場校は席が決まってるから。Cの5から11番までだって」
常山が翔太の顔色を窺うように、シャツの袖を引いた。
「あ、うん……」
持田が斉藤に電話をしながら、先に行ってろとばかりに手を振ってみせた。それを潮に一同はホールの中へと入って行った。
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