第20話
ともあれ、田口さんがどう根回ししたものやら立原が野球部の応援になどと懇願しに来たのは一度きりで、斉藤が適当にでっちあげた活動予定も生徒会に提出し、日々はのらくらの続くかに思えた。
が、事件はその日突如として起こった。
翔太たちは定性分析の実習に出ていて、同じグループで試験管をいくつも並べて試薬を注ぎこんでは化学反応を確認し、ノートに書きつけていく作業をそれぞれこなしているところだった。
黒板に書かれた同定を移し、実験を行っていくわけだが、その過程をしっかり記録していかないとレポートを書くことができないので、普段ふざけてばかりの連中も実習だけは真面目に参加していた。
この学校の特徴とでも言おうか、完全な単位制で入学当初に科長にさんざん脅されたのが効いていて、実習をサボる者はいなかった。なにせ複数のテーマを班に分かれて学期中に順番にまわしていくのだから、うっかり欠席などしようものならその間に一つのテーマが終わってしまう可能性がある。そうなったら最後、補講もなければレポートを仕上げることもできず赤点を一つとることになる。他の教科で赤点がある奴なら、もうそのままあっさり留年決定という事態にもなりかねない。そして実習の時間数は他の教科に比べて格段に多いのだ。まともに三年で高校卒業資格を得ようと思うなら、まずサボることはできない。それが学校側の作戦のようだった。
翔太は実習用の作業台を前に斉藤たちと並んで座り、ノートに実験結果を書いているところだった。
ちょうど向いには常山がいて、実験に使用した器具を片づけていた。
窓はすべて開け放されており、常山の黒々としたヘルメットみたいな重くて厚い前髪にも爽やかな風を時折送っていて、わずかに常山の額が覗いていた。
作業服の袖をまくり、斉藤は「あっちーな」と呟いた。
「クーラーぐらいつけろよな」
「実習棟にまでクーラーつける金ないんだろ」
「俺らまだましだろ。溶接科なんか地獄だろ。クソ暑い中、火使ってんだからさ。しかもあれ何度? 1200度とか?」
「うげー。マジか。どうりであいつらみんな痩せてんだな」
斉藤と持田が話しているのを翔太は笑いながら聞いていた。
「斉藤も溶接科行けば痩せられたのにな」
その時だった。試験管立てを作業台脇のシンクに運ぼうとしていた常山が不意に押し出されるような格好でつんのめり、あっと思う間もなく作業台の角に体をぶつけ、その拍子に試験管立てが手から離れて派手な音を立てた。
試験管立てに立ててあった十本近くの試験管がいっぺんに床に散乱し、あたりは試薬の残りとガラス片でいっぱいになった。
あんまり大きな音だったので皆が驚いて振り返った。無論、翔太も咄嗟に「うわっ」と声をあげた。
「あー、ツネ、悪い」
言ったのは石井だった。
常山は呆然とし、ガラス片の真ん中に立ち尽していた。
「ツネちゃん、大丈夫?」
翔太は立ち上がり常山の顔を覗き込んだ。見ると常山はみるみる真っ青になり、今にも卒倒するのではないかと思うほどぶるぶる小刻みに震え始めた。
「ツネ、ごめんなー」
翔太は石井を鋭く睨んだ。石井の顔は意地の悪いうすら笑いに歪んでいた。
「石井、お前マジふざけんなよ」
あ、やばい。そう思ったのは持田だった。また熱血野郎が動き出した。
持田は急いで席を立ってきて、
「翔太、やめとけ」
と、二人の間に割って入った。
斉藤はもう掃除用具入れを開けて箒とちりとりを取り出していた。
「わざとだろ」
「そんなわけないだろ。なに言ってんの」
「石井、お前自分が恥ずかしくないのかよ。ツネちゃんいじめて何が面白いんだよ」
「俺がいついじめたよ? なあ、ツネ、俺いじめてなんかいないよなあ?」
石井はそう言うと常山の首に乱暴に腕をまわして引き寄せた。
常山のほっそりした首に石井の肘のあたりががっちり巻きつき、抵抗することもなく常山は引きずられる格好でよろけた。げほっという苦しそうな呻き声をあげて。
それを見た途端、翔太の頭にはかっと血がのぼり、
「いい加減にしろよ!」
と怒鳴って常山から石井を引き離そうとした。
すると石井はまるで面白いゲームにでも興じているかのように笑いながら、今度は常山の体をいきなり突き押した。
あっと思う間もなく常山は無力な人形が放り出されるかのようにガラス片の散乱する中に倒れ込んだ。
「ツネちゃん!」
翔太は半ば悲鳴のような叫びをあげた。
斉藤が箒を手にしたまま慌てて常山に駆け寄った。
「ツネちゃん、大丈夫か」
助け起された常山の手のひらと頬から血がたらたらと流れていた。
「石井!」
それはさすがの持田にも止められないほど、一瞬のことだった。
翔太は雄叫びをあげたかと思うと石井の実習服の胸ぐらをつかみ、思いきり殴りつけた。
「お前、マジでクソだな!」
「なんだと!」
石井が翔太を殴り返したのを皮切りに二人はもみ合いになり、実習室は騒然となった。持田だけではなく周りにいた者たちが止めに入るも、二人はがっちり胸ぐら取り合い、殴る蹴るの応酬で手がつけられず、やっと狂犬のように暴れる二人を引きはがした時には翔太は鼻血を出し、石井も唇から血を垂らしていた。
「この、クソ野郎が! ツネちゃんがお前に何かしたのか! お前、何様だ!」
「クソはお前だろうが! 正義の味方ぶってんじゃねえよ!」
「やめろってば!」
持田が翔太を羽交いじめにしながら怒鳴り、まだ暴れようとじたばたするのを必死に抑え込んだ。
「離れろよ。いいから、離れろ。石井も向こう行けよ」
石井を押さえこんでいた者達も事態を収拾せんと、持田の言葉に従って石井を引きずって行こうとした。
喧嘩は一発で停学って分かってんだろ。バレたらおしまいだ。持田はそう続けるつもりだった。停学なんかなったら、ブラバンはどうするんだ、と。しかしもう時すでに遅しだった。
「なに騒いでんだ!」
そう怒鳴りながら勢いよくドアが開き、難波先生がずかずか入って来て、瞬時に事態を把握してしまった。斉藤に労られながら椅子に腰をおろしている蒼白の常山。散乱するガラス片と飛び散る血痕。数人の生徒から押さえこまれている二人は顔を腫らしている。問うべきことは何もなかった。
実習を担当する難波先生は、
「斉藤、常山を保健室へ連れて行ってやれ。石井と藤井はついて来い。持田、ここ、片づけとけ」
と指示すると、ものすごく怖い顔でその場にいた全員を睨み渡した。
翔太と石井は難波先生に連れられて実習室を後にした。行く先は分かっていた。生徒指導室だ。そこへ送りこまれた者がなんの咎も受けないはずがない。翔太は鼻血を手の甲でぐいと拭った。ぬめっとしたものが頬にまでなすりつけられるのを感じた。頭に血がのぼっているせいか、殴り合いのせいか顔が熱く、興奮のあまり心臓は激しく動悸していた。
翔太は少しでも気持ちを鎮めようと、心の中でメトロノームが四拍子を刻むのを思い浮かべていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます