第3話
斉藤たちと別れて翔太は図書室へ向かった。
図書室は実習棟の端にあり、昼尚暗い廊下を進んでいくとまるで異次元に吸い込まれて行くような錯覚を覚えた。
静かで、ひっそりと沈んだ空気に満たされていて、人間の気配がまるでしない。無理もない。図書室に用事のある生徒がいるぐらいならこの学校の生徒の悪評ももうちょっとマシなものになってるはずなのだから。
そんなわけで翔太はなんとなく薄気味悪いような気持ちになりながら、図書室の扉をそろそろと開けた。
すると貸出カウンターの中にいた生徒が驚いて顔をあげた。
「あ」
翔太は思わず声を漏らした。そこにいたのはクラスメイトで、しかも翔太の前の席の常山だった。
常山はさらさらの前髪がおでこを覆うヘルメットみたいな髪型で、顔色が悪く、教室の誰とも口をきかない。クラスの連中は常山を「ツネ」とか「ツネちゃん」と呼んでいるが、呼ばれる度に常山は体を固くする。いつもびくびくしていて、小動物のようだが、翔太は常山が教室で休み時間の度に本ばかり読んでいる姿を思い出し「なるほど」と思った。
常山は翔太の顔を見ると慌てて顔を伏せ、怯えるように体を縮こまらせた。
「ツネちゃん、図書委員だったっけ」
「……」
常山はこくりと頷いた。が、翔太の顔を見ようとはしなかった。
俺、何もしてないじゃん。翔太は心の中で呟くと共に、常山がこの学校の雰囲気にまるで馴染めないだろうことは見ただけで分かったし、不安にぶるぶる震えているような様子はある種の暴力的で残酷な連中の格好の標的になるだろうなと思った。たぶん中学時代もそうだったんじゃないかな、とも想像できた。
翔太は常山を怖がらせないようにできるだけ優しい口調で尋ねた。
「大島先生、いる? 大島先生ってブラバンの顧問なんだって。俺ね、ブラバン入ろうと思ってさ」
すると常山はそうっと体をひねり、貸出カウンターの後の衝立を指差し「そっちにいるよ……」と消え入りそうな声で答えた。
「ありがと」
翔太はカウンターの中へ入ると早速「失礼します」と言いながら衝立の向こう側へ足を踏み入れた。
そこには黒革のソファが置かれていて、だらしなくネクタイを緩めた男がのびのびと寝そべって本を読んでいた。
「大島先生」
翔太が呼びかけると、本から目をあげた。
「ん? 誰?」
丸眼鏡にぼさぼさの頭。手足は長いが、ひょろひょろした印象で、大島はとても教師には見えない風貌の持ち主だった。
この様子じゃあ、ブラバンが活動してないのも分かるような気がする。翔太はため息が出そうになるのを堪えて、ソファの方へ一歩進み出た。
「化学科一年の藤井です。ブラバンに入部したくて来ました」
「えっ、ブラバン?」
大島は生徒会室で会長たちが思わず漏らした頓狂な声の、さらに数倍上をいく素っ頓狂な声をあげ、驚いて半身を起こした。
「これ、入部届けっす」
翔太は記入済みの入部届けをさっと差し出した。
しかし大島は信じられないという顔で翔太を見つめていて、目の前に突き出されている用紙を受け取ろうともせず、いや、受け取るという動作など思いつきもしない様子で呆けたようにぽかんと口を開けているだけだった。
なんだこいつ。翔太は目の前にいる若い教師のやる気のなさそうな態度にすっかり呆れていた。こいつがブラバンの顧問で、活動なんて、部員が何人いてもできるかどうだか。
絶望と失望。その二つが肩の上にどしりと圧しかかる。が、ここで怯んだりするわけにはいかなかった。
「部室、クラブハウスの二階ですよね」
「え? 部室?」
「そう、部室。生徒会長がそう言ってましたけど」
「なに、お前、生徒会に聞きに行ってきたわけ? それで俺が顧問だって聞いてきたのか?」
「はあ。それがなにか」
「……生徒会長は、他に何て言ってた?」
生徒会長にどんな威力があるのか知らないが、その名を聞いた途端大島はソファに座り直した。
「活動してない部活は廃部だって言ってました。ブラバンもその対象になってるって」
「……あいつ……」
大島は忌々しそうに呟いた。
「部室」
「え?」
「だから、部室。鍵ください」
「……お前、本気で……」
翔太は大島の膝に入部届けを乗せると、そのまま手のひらを広げた。
本気に決まってる。誰にも理解されないかもしれないけれども。翔太は大島の目をじっと見つめた。
その気迫に押されたというわけでもないだろうが、大島はふっと一息吐きだすと、ポケットから鍵束を取り出した。
「……一応、部員はもう一人いるから……」
「電気科の田口さんでしょ」
「会ったのか?」
「いえ、まだです」
「……だろうな。あんまり学校来てないから」
「なんで来てないんすか」
「んー? やっぱりダブったら来にくいだろ」
「田口さん、ダブってんですか?」
「そうだよ」
大島は苦笑いを浮かべながら鍵束から一つの鍵を外すと、翔太の手のひらに乗せた。そして言った。
「生徒会長に聞いたんなら知ってると思うけど、ブラバンはもう何年も活動ができてない状態。部員が一人じゃどうにもならんからな」
「でしょうね」
「お前、中学でブラバンだったわけ?」
「はい」
「パートは?」
「トランペットです」
「……部室に楽器あるから、まあ、練習でも何でも好きにやってくれよ……」
「……一人で、ですか?」
「一人でも二人でも好きにすれば」
翔太は手のひらの鍵を握りしめた。大島の無責任な言いように猛烈に腹が立った。大島は言うだけ言ってしまうと、またソファに寝そべり手にしていた文庫を開いて顔に乗せると昼寝の態勢をとり、「邪魔するな」と言わんばかりに右手を振った。まるで犬を追い払うみたいにして。
翔太は怒鳴りつけたくなるのをぐっとこらえて、無言で一礼するとその場を離れた。
貸出カウンターでは聞き耳を立てていたらしい常山が慌てて翔太に背を向けて、日誌のようなものに何事かかりかりと書き込むふりをしていた。
翔太は今一度じっくりと図書室を見回した。ずらりと並んだ書棚の本は誰も手を触れたことがないかのように整然とし、きちんと清掃が行き届いていて埃ひとつなかった。
「ツネちゃん」
椅子の上で常山が飛びあがらんばかりに体をびくりと揺らした。
「図書室って誰か利用者いんの?」
「……時々……」
「図書委員って他にもいるんじゃないの? 来てるのツネちゃんだけ?」
常山はこくりと頷いた。翔太は自分が質問しておきながら、それもそうだろうなあと思った。この学校の生徒がくじ引きで引き当ててしまった委員長だの図書委員だのの仕事をきちんとこなすとは到底思えない。
「頑張ってな」
翔太が言うと常山は一瞬だけ顔をあげたが、すぐまた附いてしまった。
次に目指すは部室だ。翔太は返事のないのを承知で常山に「じゃあな」と言うと図書室を後にした。
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