情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう(分冊版)

三村小稲

第1話

その日翔太が受けた衝撃を言葉で表現するのは難しかった。衝撃は翔太の内面に著しいダメージを与えたし、大袈裟ではなくこの春の美しい陽気と、始まったばかりの高校生活に「絶望」をもたらすのには充分だった。




 県下随一の不良揃い。中途退学者数ナンバーワン。悪名高い工業高校に入学したのは翔太の成績が芳しくなかったからだけれど、本人はそんなことまるで気にしていなかった。なぜなら翔太は中学時代に情熱を傾けていた吹奏楽部即ち「ブラバン」に高校でも入部して、またその活動に身を投じることができるなら他のことはまったくどうでもよかったのだから。




 改造制服と金髪とピアスと、趣味の悪いステッカーをつけた自転車。煙草と、コンビニの前にたむろする馬鹿集団と、喧嘩と補導。挙げればきりがない素行の悪い生徒たちは近隣住民から白い目で見られ、忌み嫌われていたけれど、自分には関係がないと思っていた。




 しかし、である。新入生を対象とした「部活動紹介」の小冊子に吹奏楽部の名はどこを探しても見当たらなかったことで事態は急変していた。




 華々しく活躍しているのは水泳部、空手部。変わった部活だなあと思ったのは自転車競技部。文化系の部活は名前だけといった感じで存在自体があやしいが、少なくとも美術部だの漫画研究会だのは記載されていて「新入部員歓迎」と書かれていた。




 翔太は目を皿のようにして配布された冊子の隅々まで丹念に読みこんだ。が、何度見たところでブラバンの名はなかった。




 翔太は呆然としていた。進学できる高校の選択肢が少なかったとはいえ、ブラバンの存在だけはちゃんと確認して受験したはずだったのに。




「マジか……」




 翔太は絶望のため息とともに呟いた。すると隣の席の斉藤が「なにが?」と尋ねた。




「ブラバン」


「え?」


「この学校、ブラバンってないのか……」




 翔太の言葉を受けて斉藤は冊子をぱらぱらとめくった。そして「ないな」と結論づけた。




 目の前が真っ暗になるとはこのことだった。じゃあ、一体これから三年間なにをすればいいんだ? こんなガラの悪い高校で、別に興味があるわけでもない化学科なんかに入っちゃって、女子生徒は全校生徒あわせても十人もいないような灰色の世界で何をすればいいというんだろう。




「軽音楽部はあるみたいだけど」




 そう言ったのは左隣の席の持田だった。




 持ちだは整った顔の男前で、通学の電車で乗り合わせる女子校の生徒からすでに手紙を貰ったりしていると噂で、翔太は「こんだけ男前なら楽しい高校生活を送れるだろう」と不意に羨ましく思った。




「ブラバンに入りたいわけ?」


「だって、俺、ブラバンがあるからここ来たんだもん」


「そうなの? じゃあ、なんでここに載ってないんだろ」


 斉藤がまた冊子をぱらぱらとめくった。


「聞いてみれば? これ仕切ってんの生徒会だろ?」


「生徒会?」




 持田も冊子をめくって言った。


「質問等は生徒会室にて随時受付って書いてあるじゃん」


「生徒会室ってどこよ」


「食堂の二階だとさ」




 持田がページを開いて「ほら」と指差した。そこには各部活からの強引な勧誘や脅迫(!)があった場合の相談場所として生徒会室への案内が書かれていた。


 脅迫があるんかい。翔太は呆れながら、生徒会室の場所をもう一度確認した。冊子の最後のページには校舎の向いに建てられた別棟の食堂、その二階に生徒会室が所在すると書かれていた。




「てゆーか、中学でブラバンだったんだ?」




 斉藤がよく太って血色のいいつやつやした顔でにこやかに尋ねるのを、翔太は無言で頷いて返した。




 中学で始めたブラバンは、最初でこそオナラみたいな音しか出せなかったし楽譜も読めなかったけれど、毎日ひたすら練習を繰り返し、文化部なのにランニングや筋トレまでやらされて、ようやくちょっとは音が出るようになり「合奏」というものの気持ちよさを知った。




 翔太がブラバンで知ったことが二つある。一つは「音と音を合わせて奏でる音楽を体感することの気持ちよさ」。




 音楽というものがただ漫然と奏でられるのではなく、一つに溶け合う瞬間があるということ。これは一体感とでもいうのか、達成感とでもいうのか。説明が難しいが、練習が厳しかった分だけ体ごと味わう感覚はちょっと他では味わえないものがあった。




 それから二つ目は「練習は裏切らない」ということ。ブラバンの基礎練習は地味で退屈だ。たぶんどんな楽器でもひたすら反復する基礎中の基礎なんていうのは、挫折への第一歩でもある。 




 初心者だった翔太のパートがトランペットに決まり、来る日も来る日もマウスピースだけでぶーぶーやり、楽器をつけてロングトーンをやり、音階をやり……。ただ日々を積み重ねるだけで何が面白いわけでもない期間が数カ月。いや、半年。とにかく上手くなるには練習あるのみで、その練習は確実に蓄積されていく。高音がスムーズに出せるようになった時、滑らかな音で吹けるようになった時、目の前が開けるのを感じることがあった。自分のやってきた事が無駄ではなかったと翔太は初めて信じることができた。




 それなのに。ああ、それなのに。翔太は机に突っ伏しそうなほど落ち込んでいた。




 隣りで見ていた斉藤はそれを気の毒に思ったのか、


「大丈夫か? とにかく生徒会室行けば分かるんだから、そんな落ち込むなよ。印刷ミスとかそんなんかも知れないだろ」


 と翔太を慰めた。




 持田も翔太の様子に同情した様子で「一緒に行ってやるよ」と言ってくれた。




 然して三人は放課後に連れだって食堂二階の生徒会室を訪ねることになった。

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