第5章
第32話
「え、引っ越すの?」
相変わらず家出をしている樹は、我が家のようにソファでくつろいでいる。
「うん」
「ここ、いいのに」
「仕事場が遠いから」
「それ、ここを選んだ理由じゃん」
紅茶を入れながら、あの時のことを思い出す。両親とはほとんど会話もできなくなっていて、家を探すときは全部樹についてきてもらった。心細かったのもあるし、その方が不動産屋が安心するということもあった。女流棋士という仕事はなかなか理解されなかったし、実際にまだ収入がなかった。悔しいことだが、自由業よりもフリーターの方が信用がある。
「事情が変わったんだよ。仕事も増えたし」
「事情? 情事じゃなくて?」
「怒るよ」
「真面目な話。このまま将棋だけで生きてくわけ?支えてくれる誰かとかさ、そういう人のこと考えたったいいだろ。ここにさ、俺以外の人来た?引越しには賛成だよ。けど、将棋のためって言うんなら反対」
樹は、世界で一番僕のことを理解している。それだけに、彼の本音は世界一痛い。
「……将棋以外のこと、考えてるよ。好きな人が結婚して、目標としてた人が惨敗して、自分は今後どうしていいか分からなくなって。せめて、みんなとおんなじ環境だったら、って思った。遊んだり、研究会したり、そういうこともしていいかなって。まだ、そんな資格はないと思ってたんだ……。でも、もういいかなって。普通のもの、欲しがっても」
「最初っからいいだろ。姉ちゃんは、特別な悩み抱えてんだ。普通に持てるものぐらい、求めろよ」
「だけどね……今より弱くなるのだけは嫌。将棋の成長まで普通になってしまったら、そうしたら……」
「それはそん時考えればいいだろ。姉ちゃんはさ、女流の一流になったんだからさ、自分を卑下すんのやめなよ。俺だってさ、バイトじゃいけてる方だけど、プロから見たらすっごい下手だと思うよ。けど、金くれるっていう人いるから、ありがたくもらってるよ。普及とかさ、聞き手とか、強い女流に需要があるんだから、ありがたく色々受け取っちゃえばいいんだよ。自分探しは暇な時にしろよ。で、将棋強くなるためには、あんま暇ないんだろ?」
「……ありがとう、樹」
「なんだ、照れるな」
「女の子だったら、抱きしめてあげるのに」
「なんだそりゃ」
胸のペンダントを握りしめ、僕はしっかりと決意をした。
もう、自分をいじめない。
樹の手を握った。眉をひそめるが、振り払われたりはしなかった。
「今度、男性棋士との対局があるんだ。ネット中継もあるし、結構注目されると思う」
「そっか。頑張れよ」
「……勝つ。勝つよ」
「初めてだろ。そんな意気込まないで、頑張ればいいんじゃねーの」
「……うん」
本当に、抱きしめたかった。僕は幸運にも、樹のおかげで本当の孤独にはなったことがない。それがどんなに大きなことか、実感していた。
「よくここまで来たよ。本当は、もっと早く挫折すると思ってた。姉ちゃんは、すごいよ」
「ありがと。樹もそろそろ、頑張りなよ」
「そのつもりだよ」
この温かさは、今だけのものかもしれない。僕は、次の勝負を本当に大きなものだと考えている。その結果によっては……
紅茶が冷めて、少し苦くなっていた。
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