レイピアペンダント
清水らくは
第1章
第1話
盤の上に、絵が描かれている。
僕は、それを普通だと思っていた。人と違うと気がついたのは、プロを目指すようになってからだった。
僕は、盤面に広がった模様が、揺れながら動こうとする様を見つめている。その中から一つ駒を動かすと、新しい絵へと描き換えられる。予想していた通りのこともあるし、全く違うものになっていることもある。
僕は局面をとらえられない。動きの中でしか、将棋を理解できない。だから他人の将棋を見ても、よくわからないことが多い。基本的なことには、ついていける。けれども他人の将棋には、「物語」が感じられない。それまでの絵の揺らぎを理解しなければ、次の絵は思い浮かべられない。
登場人物たちの織りなす絵画を、この手で操る。それが僕にとっての将棋の醍醐味だった。そしてその特異な感覚は、小学生のうちはとても役に立った。見た目が女の子ということも相手を緊張させていたのだろうが、なによりも指し手の特異さが相手を惑わしていたらしい。
基本的にはあの頃から変わっていない。見えてしまうものは仕方ない。たとえ他のプロと全く違う方法であろうと、勝利を手に入れられるならば、それでいいと思っている。けれども、僕は何回も負けた。奨励会に入れなかった。女流育成会ですんなりと上がれなかった。今日までタイトル戦に参加できなかった。
今僕の前には、長年女流棋界を引っ張ってきた先輩が座っている。決して順風満帆とはいえなかった道のりを、時には強引に乗り切り、時にはかろやかに飛び越えてきた。何人もの男性棋士に勝ち、テレビにも出て、そしていつもいつも将棋の上達に取り組んできた。僕は三年間その姿を見てきて、本当に尊敬するようになった。
勝負の世界では、勝つことが最大の恩返しだ。僕は今日、最高の絵を描き、最高の物語を紡ぎ出したいと思っている。それだけではプロの世界で生き抜いていけないことは分かっている。定跡、構想力、終盤力、呼吸。さまざまな要素が絡まりあって、「強さ」は形成されている。でも僕には、絵が見えている。これが、僕の将棋。
嘔吐感が喉から下を狂わす中、頭痛にも襲われる。タイトル戦の進行は極端に遅い。座っているだけでも、きつい。相手の方は慣れているのだろう、苦しげな様子は一切見せていない。
今は僕の手番で、指し手も決まっていた。けれども、すぐに着手する気にはなれなかった。ハンカチで口を拭い、コーヒーを口に含んだ。空っぽの胃に、苦い痛みが沁み渡る。
この一手は、流れを変えることになるかもしれない。時間は午後二時。盤を見つめる。喜劇なのか、悲劇なのか。今広がるのは、大きく開けた戦乱の一枚。
駒台から、銀をつまむ。いつもよりも重たい。もしかしたら、名画を台無しにしてしまう一滴かもしれない。それでも、私は納得する。これが僕にとって、最善の一手だ。
盤に落とされた一枚の銀。波紋を広げて、キャンバスを揺らす。
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