第39話 第五章 生田、女子会の夜

 その声が響き渡るや否や、激しく重い爆音がこちらへと疾走してくる。まるで全てを薙ぎ倒すように、そして全てを蹂躙するかのように…。

 東方からいつの間にか辿り着いた流星は、端から跳ね除けるように群集を弾き飛ばしていく。それは宛ら、風に舞う塵のようだった。

 声の主は舞台直前で唐突に跳び上がり、無駄に空中で二回転半を披露すると、檀上目がけて着地したこの刻、用意していた講演台がまるで木槌で叩き潰されたように灰塵に帰していた。

「おおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!!酒だぁぁぁぁぁぁあっっっ!!!灘の酒だぁぁぁああぁぁぁぁぁあっ!!!!!!」

 徐に叫び散らかせている漢の姿を天鈿女は睨みつけるような視線で静かに呟いた。

「素戔男…。」

 私の横で、稚日女尊は驚愕の余り呆然自失となっていた。

 素戔男尊の着地時の衝撃で神官の姿は愚か、その場の全てが吹き飛ばされていて、この場、否…。この舞台演劇に残された出演者は私、稚日女尊、素戔男尊。そして、何故か八岐大蛇の姿があった。

 全てが吹き飛んだその刻、この物語の配役が揃った瞬間であった。

 私は稚日女尊へと視線を合わし、素戔男尊は八岐大蛇へと視線を合わすと、分が悪いように八岐大蛇は素戔男尊に苦笑いを浮かべた。すると…。

「あああああああああああああああああああああああっっ!!!」

 まるで用意されていたかのように、というよりも予想していた反応を素戔男尊は示した。

「高天原刑務所に収容されている筈のお前が何故この場所にいるんだっ!?脱走かっ!脱獄なのかっ!?嘗てお前の首は八本あった。その一つをあの刻切り裂いて七本にしたのはこの俺だ。そして今、又もやこの俺によって六本とされる瀬戸際だぞっ!八岐大蛇。否、七岐大蛇。えっと、六岐大蛇未遂…?」

「いやあ、やめて下さいよ素戔男尊様…。あれからというもの刑を経て、私もすっかり丸くなりましたよ…。今や素戔男尊様と私の伝説を語りながら色んな場所に呼ばれては劇を施している一神であります。邪神と呼ばれていたあの刻が懐かしい訳でございますよっ!!」

 七本になった八岐大蛇はまるで酒に酔ったように顔を赤くさせながら照れ隠しに口から火を吐いて見せていた。

 何も無くなったこの場所へと、どこからともなく民が集まってきて、いつしか満員御礼の観客の情景があった。

「おい、わかひ。とりあえず灘の酒を一樽くれや…。」

 稚日女尊はその素戔男尊の声に一つだけ身体を揺らすと、引き攣らせた表情のまま辺りを見渡した。そしてやっとこの場へと戻りつつあった神官を呼び、灘の酒一樽持ってくるようにと命じた。すると神官はすぐさまどこかへと飛ぶように走り去っていき、そして三人がかりで大きな酒樽を運んできた。

「ありがと…。ここへ置いといて頂戴。」

 稚日女尊はどこか疲れたようにそうとだけ言うと、神官達は又もやどこかへと走り去っていった。馬鹿でかい程の酒樽の表面には『吟醸 灘の酒』と、筆で書き殴ったかのような字体で表記されていて、大の大人三人が懸命に運ぶ程の酒樽である。一体何人分なのだと天鈿女は思わざるを得なかった。

「あ、素戔男尊様。この度は生田までご足労頂き、誠に有難うございますぅっ!『酒と大蛇と俺と姫』と題しまして、この場へと集まる民の前で様々な事をお話しして頂きますっ!登場の際、素戔男尊様らしい素晴らしい演出に私の眼頭と胸は熱くなりましたっ!!ささ、素戔男尊様が先程から望まれていた灘の酒でございますっ!!ここは一つ、民の前でぐぐっと力強い御姿を見せつけて下さいなっ!!」

 流石は天孫本社の玄関窓口嬢に選任されているだけはある。

 稚日女尊は先程まで浮かばせていた疲労感などなかったかのように、まるで太陽のような笑顔で素戔男尊に応対し始めていた。

 乱暴なようでも根は単純な素戔男尊。

 いつもならこのような応対をされると、直に満面の笑顔を見せつけて、調子に乗った姿に変わる筈なのだが、今日の素戔男尊はどこか様子がおかしかった。

 そう言えば、この場へ現れた刻から危なく荒れていたような気がしなくもない。

 稚日女尊の言葉を聞いてか聞かずか、酒樽をぼんやり見つめながら素戔男尊はいつもに似つかない小さな声で何かを口走らせていた。

 天鈿女と稚日女尊。灘の酒と素戔男尊。既に丸見えになっているが舞台袖にいる八岐大蛇と、この場へと戻ってきた大勢の神官達。その姿は完全武装が施されていて、 社務所へと一度戻り、様々な危険予測を立てたが故の結果なのだと思えた。

 神官と言えど只の民、というよりも、天孫平社員なのである。

 この素戔男尊にどれだけ束になってかかっても敵う筈もない。しかも、袖にいる八岐大蛇ではなく、天孫中枢に君臨するこの大神に対しての臨戦態勢なのである。どちらが荒神扱いされているのか分からない状態と化していた。

 素戔男尊は言った。

「わかひ…。俺はな、今し方大和の地で予想もしなかった出来事を体験した後なのだ…。」

「へっ…?大和で何かあったのですか…?祭り準備で、天孫からの伝令読んでないんですよ…。」

 不意に素戔男尊は険しい表情へと変えた。

「何故だっ!!そんな刻にでも大和からの伝令は目を通せと姉君からも言われているだろうがっ!!」

「えーっとぉ、そのおぉ…。」

 声をどもらせながら焦る姿の稚日女尊を庇う為に、私はここで初めて言葉を割って入る決意をした。

「素戔男尊様、天鈿女です。久方ぶりでございます。稚日女尊様をそこまでお攻めにならなく…」

「ん?天鈿女…?おお、本当に久方ぶりではないかっ!御前、何か最近色々とやらかしているって噂聞いたぞっ!どうしてんだよっ!ええっ!?」

 私の姿を徐に眺めると、少しだけいつもの通りに戻った素戔男尊は、笑顔になり始めた表情を何故か止めた。そして、何かを思い出したかのように顔を歪ませながら、私の姿ではなく、やはり視線は酒樽の方へ向かせながら、次には謎の言葉を言い始めた。

「おい、天鈿女…。荒覇吐って神を知ってるか?」

 荒覇吐…。その名前に聞き覚えがあるようなないような…。どれだけ頭を捻らせてもやはり思い出さないという事は、見た事さえない国津神であるという事は私の中で認識した。

「いえ、そのような神など私は存じ上げませんが…何か?」

「いや、それならいい。悪かったな天鈿女よ…。」

「えっ…!?」

 その言葉に私は驚愕した。

 というか恐怖すら感じてしまったと言ってもいいくらいであった。

 素戔男尊は業界切っての謝罪しない大神である事は有名な話で、こんな部下中の部下である私との些細な会話の中で、『悪かったな』などという言葉を挟ませるなんて如何なる場合でも考えられない。

 先程、稚日女尊と素戔男尊の会話の中で、大和で何かが起こっていたらしい。

 その素戔男尊の口ぶりから、きっと良くない出来事が起こったという事は十二分に予想はできた。そして、最後に発された荒覇吐という神の名前…。

 私の知らない神の名前であるが、きっとこの神が大和で何かを仕出かして、この素戔男尊を躊躇させる程の多大なる衝撃を与えたのだろうか…?

 そう言えば生田入りの際、吉備津彦の姿はやけに落ち着いていない様子であったのは、もしかするとその出来事を瞬時に察しての事だったのか? 

 国津神と自ら名乗っている吉備津彦であったが、崇神の大叔父にあたるとなると確実に天津神派なのである。

 何故かと考えると理解しかねるのだが、直系たる天津神は正統派。国津神派側には特に神を戒める制度など存在せず、こんな事を申し上げていいのか、所謂何でもありのお気楽派閥なのである。

 多分、直系の身分にしか分からない柵に苛まれた吉備津彦自身が抱く国津神派に対しての憧れのようなものがあるのかと、実は私は睨んでいた。

 憧れても天津神は天津神。

 あの漢の直の子孫である岳はまだ始まったばかりの修行中であり、それよりも吉備津彦に比べるとまだまだ童なのである。その空気から感じ取る虫の知らせなど独自の能力など持ち合わしている筈もない。

 素戔男尊から発された些細な謝罪の言葉は風に流すとしても、旅の途中である私達に高天原からの伝令を賜る術などない訳で、そうなると吉備津彦から突拍子もなく発される言葉や態度の意味合いを深く考えながら行動しなければ今後大変な事になる。だからもう少しだけ吉備津彦に対して優しく接してあげようと、岳から約束させられてしまったあの刻以上に私は思った。

 そんな事より今、目の前に起っている話の方が先決である。

 はっと気がついた私は目の前に視線をやると、大勢の民の姿が奥床しいこの場所へ所狭しと集まっていた。先程舞台へと駆け込んできた者の姿も見えた事から、余程この大神を拝む事を楽しみにしていたのだろうと思った。

 その目的の大神が今舞台に立っていて、何を仕出かしてくれるのだろうと今か今かと民は待ち焦がれているのだ。

 素戔男尊に吹き飛ばされて建物は木っ端微塵になったものの、そんなもの今後時間を掛けて修復すればいいだけの事。それよりも、ここまで民に期待されている祭りを催せただけでも、今年の生田祭りは成功したと言っても過言ではないだろう…。

 そんな中、民の間から何かしら言葉が上がり始めていた。


『素戔男尊様っ!!何か早く仕出かしてくださいよっ!!』

『そこに置かれている酒樽は…。ああああああっ!!羨ましいっっ!』

『私達みたいな平々凡々の民なんて絶対に飲めない酒なのですぞっ!』

『素戔男尊様っ!!漢らしく一気飲みで…。さあっ!!!』


 最後の民の言葉を合図に、辺りから『一いいいっ気っっっ!!一いいいいっ揆っっっ!!!』という音頭が一斉に上がり始めた。

 民のその言葉も未だ届いていないらしく、相変わらず酒樽を見つめながら何かを想いふけっている素戔男尊。

 私は少し考えた。この祭りをどうすれば最高の終焉を迎える事ができるかという事に…。

 その民の声に驚愕した面持ちを浮かべ、おろおろさせている稚日女尊に私は耳打ちをした。

「ええええっ!!!そんな事できませんよっ!!!第一、奇稲田様にお逢いした事ないのに申し訳立ちませんよ、天鈿女っ!!!」

「否、芸能の神である私が言うから間違い御座いません。わかひちゃんならできる…。狭野尊様も口癖のようにいつも言っていたではありませんかっ!!できないんじゃない、やるんだ、と…。」

 稚日女尊は渋るような態度を示しながらも、どこか嬉しそうな表情へと変えた。

「うん…。確かに…。分かったわっ!やってみるっ!」

 私の密かなカマ掛けも気づかない様子で納得させられた稚日女尊の態度から、先程抱いた一抹の不安は確信づいてしまった。しかしながら今はそれを掘り下げている場合でもない。

 次に私は素戔男尊の側に寄り、耳元でこう呟いた。

「素戔男尊様…。このお酒、後数分で賞味期限過ぎるらしいですよ?民がここまで貴方様の飲みっぷりを見たいと騒ぎ立てているのだから、いっその事飲み干し召されてみてはいかがですか?」

 私の声に初めて民からの声に気がついたらしい素戔男尊は、流石は単純風雲児。

 狂気たる民の姿に何を感じ取ったのか、徐に酒樽を悠々と抱え、檀上の最前までゆったりと歩いていった。そして、酒樽をその場所に置き、いつも誰にでも見せている安定ある笑顔を浮かべて高らかな声を上げた。

「民達よっ!!俺がこれを一気飲みする姿を見たいのかっ!!?」

 確かに三人掛かりで何とか持ってきた酒樽を一気するだなんて民的に言えば狂気の沙汰。正しくあり得ない話ではあるのだが、悪戯な悪乗りが働く生田の民は、心配する気持ちは愚か、面白がる事この上ない訳で、やはりてんわやんわの叫び声が渦のように立ち込めていた。

 それに何故か気を良くした素戔男尊は徐に酒樽を掴むと、「漢の生き様を見とけお前らっ!」と、高らかに叫び声をあげるや否や、酒を瞬時に飲み干した。そして、空になった酒樽を放り投げると、両手両足を広げながら、まるで高天原へと轟くような大声を上げた。

「んんんっっっ!!!灘の酒っ!最高うううううううっっっ!!!!!」


『わあああああああああああああああああああああああっ!!!!!!』


 素戔男尊はその歓声に満足な表情を浮かべて、腰につけている十束の剣を思いのまま振り回し始めた。そして、高らかな声を浮かばせた。

「演劇だか講演だか知る余地もないが、兎にも角にも語ってやるぞっ!!お前らは何が知りたいというのかっ!!」

 民衆からすぐ様声が上がった。

「やはりあれでしょっ!!あれしかないですよっ!!!」

「ふむう…。それか…。]

 何故か渋むような表情を浮かべる素戔男尊。

 その側にボロボロの衣を纏いた稚日女尊が寄りついていった。素戔男尊は何事が起ったのかと目を瞬かせていた。

「嗚呼…。遂に私は…、あの呪わしき大蛇に食われてしまうのね…。」

 その言葉に素戔男尊は、はっとした面持ちで稚日女尊を見た。そして、彼女が浮かべる視線の先を見ると私がカンペを出している姿を確認した。その素戔男尊に一つウインクを浮かべると、流石に今置かれている状況を把握したらしい。

 稚日女尊の側から一歩分だけ飛び跳ねると、演劇のような大げさな表現で声を上げた。

「おおお、呪わしき大蛇!!それは嘆かわしい話じゃっ!!汝のような美しき姫が食われるなど、あってはならぬ事であろうぞ!!して、この儂が退治してやってもよいが…。」

 天孫社員がこの物語を知らない訳もない。よってこの展開から発される言葉など分かり過ぎている…筈。

 奇稲田姫役、稚日女尊は素戔男尊の瞳をじっと見ながら懇願するように呟いた。

「してやってもよいが…。その言葉の続きが知りとう御座います…。大蛇に食われるくらいなら、何をしてでも生きとう御座います。嗚呼、食われとうない…。麗しく生きていとう御座います。あああ…。」

 素戔男尊はその言葉にまたもや十束の剣をぶんぶんと振りながら舞わすと、そして仁義の構えをとらせ稚日女尊へと言葉を発した。

「汝は美しい…。よって、その大蛇を退治した暁には我が妻となれっ!それが汝を大蛇から解き放つ条件じゃ。」

 舞台にはたちの悪いアドリブ台詞はつきもの…。稚日女尊は以前から言ってみたかった言葉を心の底から発した。

「えええっ!!!急にそんな求婚劇ってありなのっ!?私、困るのぉぉぉぉ!!!まだまだ、グッチもシャネルもティファニーも欲しいのにいいいっ!!!」

 その台詞に素戔男尊の大きく首を傾げた姿にはっとさせた稚日女尊は、そっと舞台袖の方に視線を向けると、天鈿女は怪訝そうな表情を浮かべて立っていた。

 まずいと思った稚日女尊は、すぐさま伝説通りの台詞を発した。

「否、素戔男尊様…。謹んでその条件とやらをお受けいたしましょう。どうか我をお助け下さいませ…。」

 素戔男尊はその言葉に、何も言葉を発さぬまま、まるで太陽のような笑顔を浮かべて稚日女尊に手を差し出した。

 多分その伝説が実に起っていた際にも同じような態度をしたのだろう。

 噂で聞く素戔男尊とは違い、既に元ではあるがさすが天津神と言えよう紳士たる姿を見せていた。この大神の妻、奇稲田姫に纏わる家庭内の苦労を高天原で散々聞いていたのだが、この紳士たる姿から、その噂達はきっと心無い何者かが立てた根も葉もない殊更なのだろうと稚日女尊は相手役ながら感じざるを得なかった。

 差し出された手を握ると、素戔男尊はまるで全てを包むかのように手を握り返してきた。そして何も言わないまま、二人は舞台袖へとはけていった。

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