二人だけの路
岡崎モユル
第1話 一 あの日の僕、そしてこの空の下で…。
ラジオの音をダウンさせて窓を開けて外を見た。まだ肌寒い春先の風が、髪を軽くたなびかせては通り過ぎていった。
まるで時を刻んでいるかのように、点滅する紙工場の煙突の光を眺め、何を思う訳でもなく、はいつくばった部屋の壁にある真新しい写真に視線を移す。それは最近付き合い始めた彼女の写真であった。
彼女の名は雨宮椿。
実は付き合い始めて四日後に大学進学の為、ここ愛媛を離れ、京都へと旅立ってしまった。その事を告げていた数少ない友人からとても気の毒に思われているらしいのだが、僕の心持ちはそう深刻なものでもなかった。
今まで生きている中で色々あった。あり過ぎた。あり過ぎていつも卒倒しそうな想いに苛まれながら生きてきたが、彼女と出会い、今に至るまでに起きた数々の奇跡とも思える出来事と、心溢れる会話の内容全てが、この出逢いの確信を裏付けていると考えていたからだ。
この恋愛が僕の未来に輝かしい光を、幸せをもたらしてくれる最後のチャンスであると信じたい…。だからこそ、彼女を一生涯大切にしようと密かな誓いを立てていたのだった。
様々な想いを馳せながら無邪気な笑顔に微笑み返し、徐にPCをアップさせた。あくまで副業としている仕事の続きを今なら進ませられると思ったからだ。
ディスプレイの光に顔を映し出されながら、宵闇沈むこの空間に心地良いキーボードの叩く音が鳴り響き始めた。
僕は今、お店を一人で任されている雇われ美容師を生業とし、ここ愛媛で生活している。この二月で三十二歳となったばかりで、世の中ではおじさんと呼ばれてもおかしくない御年頃。
まずは自己紹介を兼ねて、黒木校季こと、僕のこれまでをつづる事にしよう。
若かりし頃、漠然と美容師になる事を決意し、高校を卒業した後、美容学校進学の為に大阪へと一人旅立った。
これまで上げ膳据え膳で暮らしてきた実家暮らしの中、初めて経験する一人暮らし。しかも都会で過ごす生活は、初めに想像していたほど、生易しいものではなかった。
要は全て自分でしなければ何一つ終わらない訳で、役所での手続きを初めとし、大家や近隣住人への挨拶。実家から持ち込まれた大量の物の収納や、家電製品の取説に眼を通しながら何より扱いに慣れる事。
食糧調達や調理と、生活や体調の自己管理。それだけじゃなく、両親から有り難くも与えられる仕送り額で生活をやり繰りしなければならないという根本的な事。これが一番気にかかる事である。
たちまちは分からないにしても、甘んじた生活を繰り返していると必ず自分の首を絞めかねるのは安易に想像できる訳で(自分の性格上)、ここは一つ締まっていこうと自らの心に喝を入れた。
やるべき事を一つ一つこなしていると、引っ越しから五日にして、ようやく落ち着いて生活できる形となった。
我ながら早く片付いた事が感無量であり、この時を祝う為に買っていたポテトチップス全種類を全て開封し、ペプシコーラを徐に牛飲しながら、とにかく貪り尽くした。
厳しい管理下に置かれていた実家では、このような事などできる訳もなく、この時初めて自由な立場になった自分を実感したのであった。が、この時からふと、違う何かが見え隠れし始めた。
更にこの街の事を知ろうと、住んでいる場所から比較的近い『ミナミ』と呼ばれている街へ出向いた時、平日の昼下がりにも関わらず、人の多さに圧倒され、そして驚愕した。
道端で楽しそうにたむろしている学生の姿を横目に、腕を組み、無邪気な笑顔を浮かべながら歩く幾組のカップル達が、僕のすぐ側を通りすぎては消えていった。
僕は特に行く当てもなく、人込みに揉まれて足を進ませているだけ。これだけ大勢の人がいても、ここに知り合いは誰一人としておらず、自分はこの大都会でただ独り。
これまでは友人がいて、そして家族がいる中で生活していたのだが、今は全く違う環境に置かれている事を思い知らされ、自由とは孤独の裏返しであるという事を悟ったのだった。
それからというもの、特に家から出る事もなく、孤独を掻き消すように大好きな文学や音楽に身をゆだね、日々を過ごした。
好きなものに囲まれるだけの時はすぐ様過ぎ去っていき、あっという間に訪れた入学式当日。両親は仕事の関係上、参加できないという事は聞かされる前から分かっていた訳で、それに何の感情を抱く事もなかった僕は、何より密かな緊張を胸に抱きながら、晴れ姿で一人、入学式会場へと向かった。
理事長の高らかな声が響く会場内を眺めると、親が側におらず、緊張の面持ちでその場に座っている新一年生の姿が目立ち、少しだけ安堵感に包まれながらその場所を過ごしていた。
そしてようやくして学校が始まり、初めて顔を合わせる人との緊張と、次々と課せられていく授業内容の色濃さに初めは驚愕せしめていたものの、自然と寄り合う仲間も段々と増えていき、大阪に来た時に感じた孤独は徐々に雪解けていった。
都会を共に生きる各地方出身の仲間達と共に、学業も生活も、そして遊びも。共に肩を寄せ合い過ごしていた中、気がつくと季節は二つ目の春を迎えていた。
そう、あれから丸一年が過ぎていたのだった。
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