空へ至る砂

@muraokayuki

第1話

 汐梨しおりは顔の表面おもてに細かな飛沫しぶきを感じている。ああ、今日は雨なのかと悟っている。

 乳白色の靄に包まれた世界で、彼女は漂いながら、ドーム状の空を見上げている。音はなく、微温と光が彼女を溶かすように纏わり付いている。

 ドームの中央は一層白く閉ざされて、うっすらと明るんでいる。雨の音を探して耳を澄ますと、靄が濃くなり、視界は空に向けて浮上していった。

 白い帳が近付くにつれ、(あれは瞼の裏だ)、と彼女は気が付き、抵抗を覚える。意識は瞼を押し開けようとしているが、ここを出ると忘れてしまうからだ。ーー何を忘れてしまうのか?

 出たくない、という思いだけを引きずって、醒めた彼女は抗うように、固く瞼を閉じていた。しかし雨の音が聞こえたら、もうあの場所には戻れない。

 やがて諦めの溜息をついて、何か二言三言呟いた後、汐梨はそっと瞼を開いた。庇を叩く気怠い音と共に、薄い黴の匂いを吸う。

 忘れたくないのはおそらく、別れた人たちの事だった。寝ている間に雨の降り出した夜は、高い確率で彼ら彼女らの夢を見る。

 別れた、というと絶縁したか、遠くへ越して会えない人かのようだが、そうではない。

 何となく会わなくなった人たち。もう何年も会っていないが、最近会った気になっている程に、汐梨の中に住み着いた人たち。それでいて、やりとりが消え、再会した時に明らかな温度差を知って、当分縁が切れている人たち。

 その縁を、無理に復活させようという気にはならない。何年も会わずじまいでいるうちに、関係解消になっていた、ということもあるかもしれない。互いの時間を潰してまで、わざわざ会う理由も見つからない。それでも汐梨には近しい人たち。


 朝食の準備に取り掛かる頃には、夢の一部を鮮明に思い出す。大抵、最近行った場所や、行きたいと思っていた場所に、その人たちは居る。

 一番親密だった頃の年齢と口調で、居たはずのない新しい場所で過ごしている。

 昔の思い出そのままという訳ではない、造り物と分かるちぐはぐな光景は、かえって汐梨を感傷的にした。乗り越えてきた過去が美化されて、現在を侵食するようだった。

 絡みつく余韻を払うため、ピーナツバタートーストや白飯に残り物の定番を退け、野菜と卵を堆く積んてサンドイッチを作り、コーヒーを多めに入れてフルーツヨーグルトをつける。

 食事を摂っているともう、誰が居たのかしか思い出せない。暖色がかった体温や表情や場所は全て去って、ただの名前になる。

 スマホに音楽を鳴らせてパソコンを立ち上げ、メールとSNSに返信する。あとは卒論を書くばかりだ。今年に入ってから、汐梨は大学にはほとんど行っていなかった。

 受験生を囲う為に、カフェを入れたり、ガラス張りにしたり、オフィス然としてきた校舎は気に入っているが、汐梨の夢に、大学が出てきたことはない。今連んでいる人たちが、将来夢の中に出てくるかも疑問だった。別れたところで、思い出すほど近しくもない。

 小学校で、最初に仲良くなった女子が一番多く夢に出る。は、前歯の欠けた歯で大きく笑い、と呼ぶ。もしょっちゅう笑っている。笑う時の表情筋の使い方まで昔に戻っている。

 その頃のは、親や親戚が変わることがないように、友人も生涯変わりようがないと思っていた。実際のところは、校区が変わってから一度年賀状を交わしたきりで、あれから何をしているのかも知らない。

 次が中学の面々、小学校の顔見知り、高校の友人はあまり出てこない。だから流行のカフェやバー、国立図書館、ノートルダム聖堂やバッキンガム宮殿、鳥取砂丘や平泉には、子供たちしか集まらない。

 LINEのアイコンが成長しても、突然年賀状に結婚した写真が載っていても、夢の中の彼らは成長しない。


 音楽が途絶え、キーを叩く音を響かせていた汐梨は、鍵の開く音に手を止めた。夜勤明けの花菜はなが帰ってきたのだ。慌ただしく傘立てや靴箱を鳴らしながら、「タオル頂戴」、と叫んでいる。

 花菜とは就活が終わってから、卒業までの期限付きでルームシェアをしている。汐梨からタオルを受け取ると、花菜は体を拭きながら慌ただしく上がり込み、テーブルに置きっ放しにしてある葉書を取った。

 「あ、汐梨のか」と呟きながら、なおもその内容を読んでいる。

 汐梨は差出人の名前を見て、昨日その葉書を読んだから、きっと彼が夢に出てきたのだろうとぼんやり思った。

 中西隆平は、リゾートバイトをしてはその土地の絵葉書を送りつけてくる。夢の中での彼は高校生だ。背景の鳥取砂丘まで、そっくり夢に出てくる安直さだった。

 隆平とは特別親しかったわけでも、恋仲でもなかったが、比較的新しい古さが気に入って、夢から出まいとしていたのだろうか。

 寝覚めの汐梨はそう思っていたが、三度目に砂丘を見た今になって、記憶が蘇ってきた。

 鳥取砂丘には、家族で行ったことがあったのだ。砂原は海へ、空へと続いていた。全ては単色で、上下の分け目もなく一枚の絵のように繋がり、このまま歩いていけば、空を踏めそうだった。

 それでいて果てしなく砂道は続いていた。どこにも帰れないようだった。区切るものがなく、空間の、時の概念ないようだった。それが母のいた最後の旅行だった。

 パソコン越しの汐梨の視線に気づいたらしく、花菜は葉書を片手に汐梨の肩に乗っかってきた。

「捗ってる?」

「間に合わせる」

 読むともなく書いた物を眺めながら、汐梨は気のない返事をする。花菜は葉書を汐梨の手元に置いた。

「鳥取砂丘かぁ、いいなぁ。終わったらどっか旅行行こうよ」

「気が早くない?」

「早くないよ。あたしフランス行きたいんだ」

「鳥取じゃないんだ」

「戸田ゼミの面子で卒業旅行の話あってさ。汐梨も行かない? って」

「あ、そういうこと? いいね、行きたい」

 花菜は汐梨から離れて台所に立った。冷蔵庫や戸棚を開けながら、話も途切れさせない。

「イリエ=コンブレーにも行っちゃう?」

「卒論終わってまで関係のあるところには行きたくない」

「ええ? 何それ。いいの?」

「いいのって、大体二人で行くんじゃないんだよ。初めてだし……もっと面白い場所あるし。気が早いよ」

「汐梨、乗り気じゃないの?」

「そんなことないよ。打ち合わせがあったら行くから。決めといてくれてもいいし」

「何かさぁ、もっとこう、希望とかないの?」

「今は特に……細かいことは考えたくない。遠い未来に想いを馳せると、気が散って卒論がかけないから」

 汐梨の言い回しがおかしかったのか、花菜は軽く吹き出した。

 汐梨は取り繕おうとして、さらに「遠い未来と大きな期待は、それだけ気持ちを持っていかれるから」と口走った。

 花菜はくつくつと喉の奥で笑いながら、牛乳に浸したオールブランのボールを机に置く。

「じゃあ、来週合コンあるけど一緒に行かない?」

「じゃあって」

「近い未来にお手軽な期待」

「あぁー……」

 キーボードから手を離して、汐梨は窓の外を見た。これから当分雨続きの予報だった。汐梨は話し相手を忘れたように、しばらく窓の外に目を置いていた。花菜も気にせず食べ始めている。

「……行こうかな」

 やがて汐梨は呟いた。意外にも相手が釣れて、花菜は面白そうに目を見張った。

 現実に夢は夢引っ張られ、夢は現実を誘引する。過去の縄をほぐしても、その繊維がどこかへ引っかかり、次へ繋がろうとする。

 汐梨は合コンもフランス旅行も終わったら、一人で鳥取へ行こうと思った。

 過去を探そうと思うでもなく、感傷に流離さすらおうとするでもなく、そうした予定がひとりでに立ったのだ。

 全て片付いたら、あの空へ至る砂を踏みたいと思った。

 彼女は論文の最後で点滅するカーソルを見つめて、冷めたコーヒーを少し飲んだ。

 雨の音を聞きながら、汐梨は顔の表面おもてに乾いた風を感じた。

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