武田信玄

 昌幸に続くのは、やはり信玄である。この大人たいじんの影響は彼に関わった人間の多岐に渡る。昌幸の宿敵であった徳川家にもその影響が甚大じんだいであった事は説明の必要もない。


 信玄と言う男の人間造形は、その短所、長所両面で二つながら興味深い。あれほど緻密な戦略に練る人間にして、信玄には欲望に対する幼稚なあどけなさがあり、極端な二面性が混在する。


「貴人情を知らず」


 という言葉でこの言葉が片付けられることが多いが、この育ち方のせいで、信玄は度々身近な人間をあっけなく犠牲にしている。


 しかし それが深刻な反省に結び付かなかったのは、鎌倉以来の武家貴族として下克上の乱世に生きた戦国大名としての痛恨事でありながら、同時に他の多くの戦国大名が持ち得なかった徹底的な論理的合理性を以て信玄王国を、厳然とした独立国として戦国乱世の世界に成立せしめた最大の要因ではないだろうか。

       

 ちなみに実を言うと、育ち方の面でも最も武田信玄に似ているのは、織田信長であるように思える。


 父母の違いはあるが、共通して二人とも、孤立した幼少時代を送っている。母親に憎まれた織田信長に対し、武田信玄は父親に憎まれている。


 このように貴族にして、自らをして自力で生き延びさせしめざるを得ない危機的な幼少時代に陥った独裁者は長じて、厳しいリアリズムを持つエゴイストになる。


 信玄の父、信虎は、壮絶な家督争いの末、実の兄から当主の座を強奪した、奸雄かんゆうであった。信虎は信玄の死後、呼び戻されて、80を過ぎた老体にして旧臣たちを前に愛刀の左文字を引き抜き、


「これ、お前の親父はな、小生意気なことを申した故、この刀で手討ちにしてくれたのじゃ」


 と恨み言を唱えたほどの危険人物だったが、そのような男の登場した背景には、当時の甲斐信濃の常識では考えられない異常気象があった。


 信玄の軌跡を語る上で欠かせないのが、日蓮宗の僧が書き継いだ貴重な武田外部の記録『勝山記かつやまき』(『妙法寺記みょうほうじき』)だが、そこには中世の甲斐の、地獄というに相応しい想像を絶する環境が記録されている。


 例えば真夏に雪が降り(永正元年、1504年)、暖冬のせいで真冬に「富士山より雪しろ水」(天文14年、1545年)が村一つ押し流した、と言う極端すぎる気候は、そこに住む人たちを餓死の魔境に押しやった。


 何しろ信虎時代の武田の家督争いが、飢饉で停まったのである。甲斐の人々はもはや、他国から物を奪う以外に生きる術はなかった。


 まるで残忍な野盗の親玉のような信虎の出現は必然であったのである。『妙法寺記』には、妊婦の腹を生きたまま裂いたとか、鷹狩りのついでに農婦を射殺いころしたなど出てくるが、これなどは古代中国史などにもよくある暴君の行状の孫引きである。


 父親を追い出した信玄の情報操作半分、後年もなお衰えなかった信虎の敵がい心の強い性格からして真実半分と言うところだ。


 ともあれ極端な略奪戦闘を続けた信虎を追放して国主になった信玄だが、領土拡張という面で言えば、実は信虎とその戦略眼は、ほとんど変わらなかったりする。


 やり方が少し違うという面で言えば、信玄には学があった。彼が参考にしたのは中国王朝の帝王学である。


 例えば、治水事業又は鉱山開発をはじめとする山岳事業などについて言えば、信玄のやり方は、古代中国の叡智にならったいわば温故知新であり、ひいてはケインズ経済学を基盤とした公共事業型景気対策を実施する我が国の民主主義政府の国策のあり方を先取りした先見の明ともいえる。


 だが、そうした純粋すぎるあどけない向学心は、実地の人間たちの相克にあっては必要以上の非道を発揮してしまうことも多かった。


 信玄の故事を探っていていつも思うのだが、この人ほど部下をはじめ他人からやりすぎを諌められる人はいない。


 とりあえず若い頃に和歌に熱中して、守役の板垣信形いたがきのぶかたに灸を据えられたのは措くにしても、妹婿いもうとむこである諏訪頼重すわよりしげを謀殺して諏訪を陰謀で奪い取った手法は、次代勝頼かつよりにまで至る禍根を残したし、天文16年7月、志賀城攻めでは敵兵を皆殺しにし、生首を使った威嚇戦術は北信濃侵攻に不利となるほどに、悪評を買った。


 さらにそれでは終わらず、志賀城で得た人質たちを甲府で売っ払ったために、決定的な怨恨を買い、終生痛恨の敗戦と謂われる『砥石崩れ』の遠因を作ってしまっている。


 また、永禄11年の駿河侵攻のためには息子義信を犠牲にし、あまつさえ現地の戦場では今川の財宝に執着して、部下の馬場信春に諌められているなどと言う、ちょっと人格を疑うような失態さえも犯している。


 異様な執着心と物欲は欲しいものは何でも手に入れてきたと言う、貴族的な育ち方と決して無縁ではない。彼の王国では生来、誰にも咎められなかったからこそ、信玄はおのが野望を無限に肥大させえたのだ。


 と、書くとしょうもない面ばかりが強調されるが、そうした純粋でいて執拗すぎる執着心こそが天才信玄の原動力でもあったため無下には否定できない。


 例えばこの悪癖が人材管理の面に発揮されるとマニアックでいて個性の強いプロ集団をまとめあげるのに類い稀な才を発揮した。ゲリラ戦術を行うムカデ組、現代戦術においては工兵である金堀衆、情報工作員なら仏門や神職、行商人、甲斐信濃地域ごとの郷士まで、信玄は綿密に組織化して一手に操縦した。


 旧来の権威的な仏教を保護し、鉄砲の採用を見送るなど、信長にくらべると、旧態依然としたイメージのある信玄だが幅の広い好奇心と言う点で言えば、ほぼ同等と言っていい。


 そういえば信玄が身につけた教養は、信長の世代にはすでに古典であったが、当時は最先端の洋学だったのだ。


 真田幸隆や山本勘助と言った当時の地域武家社会から、ドロップアウトしたともいえる人物をリクルートしたのも、明智光秀や豊臣秀吉を発掘した信長に通じる信玄の開明的な合理性と言っていい。


 この話は真田昌幸から続いている。その昌幸はこの信玄の愛弟子とも言うべき「エリート」であった。いわば忠実な優等生である昌幸に対して信玄ははっきりと異端児だったと言えよう。


 信玄こそは、同時代のほとんどの人間が理解出来ない巨視的な器を持ちつつも、赤子のようにだらしないとしか思えない欠落を持った、純粋な天才だったのだ。


 むろん、それゆえに血統という点では後継者を育てえず、信玄の治国を継承しえた血縁者はいなかった。指摘するまでもないが、人後に落ちない、という点ではやはり、織田信長と同じではあった。


 かくして武田一家は戦国大名としての滅びの道を辿ることになるが、治国の帝王学として彼が志した国家経営思想は、徳川三百年の治世の骨子として命脈を保つことになる。


 その徳川家の思想が 近現代の日本人の価値観までを作り上げたというならば、信玄の発想は、現代日本人の国民性の基盤を叩き上げた、と言っても過言ではない。


 ルイス・フロイスは『日本史』で、武田信玄を失敗や裏切りを許さぬ酷薄な極悪人のように描いたが、天才は得てして傲慢であり、現状の常識の円満を斟酌しんしゃくしない巨大なエゴイズムを持つものだ。


 あどけない欲心を持った信玄こそはその点では大人たいじん、とも言うべき、巨人の理想に生きたまさに純なる意味での姦人かんじんであったのかも知れない。

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